在日コリアン・ハンセン病問題・沖縄―平和・人権―

自分の足で訪ねた関連の地紹介
知ることは力、学んでこそ生きる。

1年前に姿を消した「マウ」賛歌・・娘を毎日学校の通用門に迎えに行った我家の猫

2010年08月28日 20時55分05秒 | Weblog
在日コリアン・ハンセン病問題・沖縄など夫婦で語り合う我が家に19年間家族の一員として生きたマウを紹介したい。娘が中3の時、学校に行くのが嫌だった(つらかった)。その1年「マウ」は毎日、学校の通用門に出迎えに行ってくれたのである。娘が「帰ろう」と声をかけると「ニャー」と言ってついて帰ったそうだ。そのマウが昨年6月中ごろ家を出て探し探したが・・・(涙)。高齢になるほど品が感じられる猫だった。もともと、連れ合いの同僚が車の前に飛び出して来た猫を自分で飼っていたがマンションでは飼いきれず内に貰われてきたのだ。名前もついていた。賢かったなあ。

和泉市立幸小校庭にある「皇紀二千六百年記念」碑と在日朝鮮人

2010年08月26日 15時52分50秒 | Weblog
寄贈者の名前が刻まれており、学務委員の中に在日朝鮮人2人の名前があります。

当時の 南王子村村長:杉本直七、南王子小学校長:中谷信一、学務委員:柴田聰治、中田與惣蔵、隅谷梅冶、竹田松治、朴熙相、銭道庸 

南王子村では1920年代より人造真珠産業が盛んで、朝鮮人も多く従事して集住地域が形成された。人造真珠で財をなした人もあり村会議員(1937年に1人、1942年に3人)や学務委員など公職についた人が府内でも目立って多いといえる。銭道庸さんは泉北内鮮相助会の会長をした人である。1937年8月28日「朝鮮日報」の見開き2面「在大阪朝鮮人活躍全貌」中に7名もの南王子村在住者の名前が載っている。人造真珠関係者が主である。   

館山市「赤山地下壕跡(館山海軍航空隊)」に入る

2010年08月24日 10時50分42秒 | Weblog
赤山は標高60m。「東京湾口部で太平洋に突き出た南房総・安房では、15年戦争の最初から最後まで加害と被害の両面を戦争遺跡から学ぶことができる。東京湾要塞の拠点として館山海軍航空隊は陸の空母と言われ、とくに艦上攻撃機のパイロット訓練が行われた。戦争末期には陸海軍7万人が配備され農民は食料供出を強要され花つくり禁止令が出された。子ども達にはウミホタル採取が命じられた。1945年9月3日、米占領軍約3500名が上陸、・・・。」と見る 歩く学ぶ 集う「安房国再発見」と安房文化遺産フオーラムのリーフレットにある。同じくパンフレット「あわがいごマップ①海軍のまち館山」を手に赤山地下壕跡に向かった。
地下壕に入る為に隣の豊津ホールで記名し、ヘルメットと懐中電灯をかりる。個人で入れるのは赤山地下壕跡のみで他に沢山壕があるが案内がないと無理だとのことである。
1930年、海軍五番目の実践航空部隊として、館山航空部隊がつくられた。1945年までの間に様々な軍事施設がつくられていく。旧海軍航空隊基地は現在海上自衛隊館山航空基地として使われている。赤山地下壕は1942年から後だと分っている。1944年以降に本土決戦に備えて海軍航空隊の兵隊によって壕堀が進められたとの証言があるらしい。8月15日も工事中だったとか。海軍航空隊の防空壕としていたらしい。長さは1、6㌔。壕内に戦闘指揮所、医療施設、司令室、奉安殿、兵舎、部品格納庫、発電所などがあり全国で珍しい航空要塞的機能を持っているとか・・。外の暑さを忘れる快適な壕内の気温であったが、案内なしではよく理解できず帰阪してから購入した資料を読み返している状況だ。

鴨川市東江見640の「長興寺」ーチャムスのお墓ー

2010年08月23日 22時20分54秒 | Weblog
8月20日、レンタカーのナビをセットしてで長興寺を訪ねる。随分山の中である。済州島の海女(チャムス)のお墓が数十基建っている。黒い石に本貫が刻まれていた。「海を渡った朝鮮人海女―房総のチャムスを訪ねて」(金栄、梁澄子・新宿書房1988)を読んで彼女達の働いた外房、内房の漁港を思い浮かべながら・・・。戦争が激しくなると火薬の原料となる海草「カジメ」取りにも多くのチャムスが従事したのだ。写真の石段を上がると右側に霊園がある。千葉房総の夏は風もあり大阪の夏とは比較にならないくらい快適で動きやすかった。

館山市の元水産伝習所(現東京海洋大)と「快鷹丸」遭難について

2010年08月23日 22時20分00秒 | Weblog
千葉県の南端、東京から100㌔圏内の館山市を訪ねた。赤山地下壕に近い「小高記念館」でNPO法人安房文化遺産フオーラムの池田恵美子さんにお会いして色々お話を伺いました。韓国浦頂市にある「快鷹丸」遭難碑を思い出し、水産伝習所初の練習船が練習を重ねた館山湾の海を見るためであった。元水産伝習所は小高記念館のすぐ隣であった。1907年9月9日迎日湾で暴風雨に遭い学生・教官が4名殉難、地元の住民に生存者は救助・保護された。1926年に九万洞に3mの石碑が建立されたが、戦争を経て土中に埋められた。1971年に再建され、東京海洋大の同窓会・楽水会と浦頂市の人々が保存と供養を続けている。浦頂市九龍浦には「香川村」と言われる移住漁村があった。移住したのは私の実家に近いさぬき市旧小田村の人達。今残っている移住漁村の日本家屋再生プロジェクトが動いている。日本人メンバー15名の1人は友人である。
更に館山と浦頂との交流が深まればと願う気持ちでいっぱいだ。
館山で水産と海運に生涯をかけた正木貞蔵、清一郎親子は水産界をリードする活躍をしたが、日露戦争の頃房総の漁民の貧窮を救う為に清一郎は朝鮮に移住漁建設に動くことになる。馬山栗九味に千葉村ができるが「悲劇の千葉村」と言われるように成功しなかった例に挙げられる。千葉村跡を訪ねたことがあるが「神社」「日本家屋」が少ないけれど残っていた。鎮海の軍用食料の供給という意味合いで建設が進んだであろうと地理的に理解できる。

千葉県館山市「大巌院」の「四面石塔」を訪ねて

2010年08月23日 22時17分01秒 | Weblog
館山市大網にある大巌院の石塔、「1624年に雄譽霊巌上人が建立した。朝鮮通信使が修交し、朝鮮侵略から33回忌にあたることから、戦没者供養と世界平和祈願が込められていると推察される」とNPO法人安房文化遺産フオーラム(館山95 小高記念館)のリーフレットにある。四面石塔の各面を見ると、和風漢字、中国篆字、印度梵字、ハングルで「南無阿弥陀仏」と刻まれている。お寺の門の所に1992年説明版が設置され「四海同隣」とあるのが印象的だった。1969年に重要無形文化財に指定されたもの。今のハングルではなく古代ハングル。四面石塔については「千葉のなかの朝鮮・・歩いて知る朝鮮と日本の歴史」(千葉県日本韓国・朝鮮関係史研究会・2001)中に詳しい。無知を恥じる。韓国でも朝鮮時代のハングル石碑は1つだけで、1536年にソウル市蘆原区下渓洞にあり、第11代中宗時李充濯の墓碑として残っているだけとの記述もあるのでソウルで訪ねてみたいものだ。
同寺院に朴長春の名前と共に四面石塔の顕彰碑も建っている。

8月13日、近藤宏一さんの眠る長島愛生園納骨堂におまいり

2010年08月16日 20時40分36秒 | Weblog
連日の猛暑のなか、13日の午前中に大阪府立高校生、看護学生のふれあい体験交流会が元岡山県立邑久高校新良田教室の講堂でありました。1期生のHさんと大学時代に美術の非常勤講師を半年だけした連れ合いと2人で毎年生徒達に語ってきました。質問も熱心に出ていい感じでした。どこかで将来の生き方に反映することと思います。大阪の取り組みの継続はすごいです。
今年はお盆の帰省ラッシュと重なるので前日から高松市の実家に帰省し早朝岡山に向かいました。到着が早かったので早朝から納骨堂に最初に登り、近藤さんに思いを馳せながら手を合わしました。近藤さんはハーモニカで「ふるさと」を吹いておられましたが「3番は立身出世を願う歌詞ですよね」と声かけさせて貰ったことがありますが、それからは2番までになったのです。近藤さんの故郷に住むものとして、回復者の方々にとっての「ふるさと」を問い続けたいと思います。