在日コリアン・ハンセン病問題・沖縄―平和・人権―

自分の足で訪ねた関連の地紹介
知ることは力、学んでこそ生きる。

12月24日~27日まで零下の韓国へ(その3・・・仁寺洞からパゴダ公園)

2011年12月29日 11時38分56秒 | Weblog
27日の朝は早朝からまだ開店していない仁寺洞を歩く。さすがに手がかじかむ。人気のないパゴダ公園もゆっくり、レリーフなど初めての若者のために見てまわる。

泰和ビル内の「3・1運動の会議」絵やYMCAのレリーフも案内してまわった。

その後、旧ソウル駅が博物館になっているので各部屋をゆっくり確認しながら歩く。抗日運動家・姜宇奎の銅像が文化駅ソウル284」の前に立っている。1919年、現在のソウル駅近くにあった南大門駅で第三代斎藤実・朝鮮総督に向けて爆弾を投げた人物 (以前のブログに紹介・・10月)。
その後、明洞まで地下鉄に乗り、南山を少し登ったところの刺繍博物館を見学してヨンシンネに戻る。ビビンパの昼食、タクシーで金浦空港に向かい無事に帰国した。三寒四温の三寒だったかが、寒くても旅は可能と実感している。


12月24日~27日まで零下の韓国へ(その2・・・ソウルの済衆院関係など)

2011年12月29日 10時44分15秒 | Weblog
26日は延世大学に朝から向かう正門入って右手に延世大学付属病院「セブランス病院」の前身「廣恵院」が移築されているのを見学した。すぐ裏の左手に8代総督南次郎「興亜維新記念塔」(1941 年12月8日)があると聞いていたのですぐ見つかった。

それから、尹東柱の詩碑と彼が日本に留学前に過ごした寮が資料館となっているので3回目の訪問、彼の使った机の写真。
その後、タクシーで「土俗村」へ、サンゲタンを早い目に昼食と下。日本人ばかり。ここは足立龍枝さんが「むくげ」に書いている南北朝鮮で高く評価されている舞姫「崔承喜」(1911~1969)の生家であり、鐘路の石炭会館になっている「淑明女学校」は出身校だった。

前に韓国の炭鉱に関心を持って訪ねたところであったが、1階の石炭関係の展示はなくなっていた。

 それから歩いて日本大使館へ

それから、ソウル駅まで歩いたが途中で豚の貯金箱を南大門市場で買いました。韓国の十二支には猪はなくて豚である。縁起物。
ソウル駅前のヨンセビルに入り、「廣恵院」の展示をみる。

外の地下鉄入り口には「3・1独立運動」の碑も密かに建っている。


12月24日~27日まで零下の韓国へ(その1・・・南原)

2011年12月29日 10時41分48秒 | Weblog
昼間の零下の韓国ソウルに近づくと全島白く見えました。25日は、KTXとセマウル号に乗って3時間、南原に行きました。
あまり、日本人の姿はあまり、見えません。秀吉の侵略で激戦地、犠牲者の「万人義塚」、南原城城壁の一部、旧南原駅、春香伝「廣寒楼」と訪ねました。「廣寒楼」の建物の下には、植民地時代に反日の政治犯が収容された刑務所跡が残っていました。観光案内所で「春香伝テーマパーク」前に「沈寿官陶芸館」がオープンしたと聞き訪ねました。なんと12月15日にオープンだったそうです。パンフレットもなかったです。訪韓の前日、鹿児島の沈寿官(15代目)宅に電話でルーツのことをお聞きした直後です。何かの縁を感じました

昨夜(12月14日)扇町公園「キャンドルナイト☆コンサート」に行きました

2011年12月15日 17時54分19秒 | Weblog

12・14日本軍「慰安婦」問題解決のための水曜デモ1000回アクションin関西でした。
昨夜はあまり寒くもなくて公園に立つのも楽でした。知り合いに会い、また頑張っている知人の顔も見えるので連帯感を肌で感じます。
ナヌムの家を何度か訪ねた事を思い出します。
何より1993年、光州に出かけた時、日本軍「慰安婦」にされてひっそりと暮らしておられるハルモニにお会いしました。日本人の顔を見て怒りを抑えきれない様子でした。私は片言の韓国語で自己紹介しました。ハルモニは、通訳の韓国青年に色々説明を受けて気持ちが落着いたのです。自転車で帰られる時に私と握手をして下さいました。その手のぬくもりは忘れません。金学順さんが初めて渡日し、証言されたのを聞きましたが「日の丸」のついた飛行機になんで乗らないといけないかと震えたたとおっしゃったのが忘れられません。当時韓国語を勉強する人は少なかった時代ですが証言を聞くのが授業でした。ソウルの日本大使館前の「少女の像」のことが気になります。24日ソウルに行くのでぜひ見てきます.

今日の朝日新聞に記事が載りました。私は、ゼロの右側に並びました。

福岡県嘉穂郡桂川町にある「徳香追慕碑」30年祭

2011年12月15日 06時59分52秒 | Weblog
今年は、福岡県嘉穂郡桂川町にある「徳香追慕碑」供養30年祭が行なわれました。関わってこられた皆さんに頭がさがるばかりです。



その碑文を友人の左青石さんに書いてもらったものです。彼は、阪神・淡路大震災直後に脳梗塞で倒れ、今まで右手で持っていた筆を左手にもちかえました。絶望の底から抜け出し伸び伸びと筆を運ぶようになったそうです。自宅居間に飾りました。


  
  花香不逆風  華の香は風に逆らいては行かず
  芙蓉栴檀香  栴檀も多掲羅も末利迦もまた然り
  徳香逆風薫  されど善人の香は風に逆らいつつもゆく
  徳人偏聞香  善き士のちから(徳)はすべての方に薫る
        
                 法句経 54帖



1997年に設置された「徳香追慕碑」説明板紹介
   
    共生の輪をー次代を生きるみなさんへ 

 この地は、旧麻生吉隈炭坑の跡です。吉隈炭坑は、1909年年に創業され、以来60年間、最盛時には従業員2500人を数え、家族を含めると約8000人は住んでいました。長屋が軒を並べ、共同の風呂、水道、便所がありました。そこでは、強い連帯感を持って家族同様のつきあいをしながら生活をしてきました。
 しかし、真っ暗な地底での仕事には落盤、ガス爆発などの災害が多く、犠牲者がたくさん出ました。戦争が激しくなると、労働者が不足し、多くの朝鮮人が強制的に連れて来られ、坑内などの危険な所で働かされました。
 戦後も吉隈炭坑では操業が続けられましたが、1969年閉山となり、この地に住み慣れた多くの人々が新しい生活を求めて去って行きました。
1980年になって、この地は団地としての造成が始められ、中心部に建っていた「徳香追慕碑」と刻まれた碑は危険であるとして倒されました。弥栄区と弥栄婦人会は、碑の再建を会社に要望し、吉隈炭坑の歴史などを、炭坑で働いていた人々を訪ねて調べました。その中で、碑文にある坑内火災の大惨事をはじめ多くの災害事故があり、犠牲者の中には朝鮮人も多く含まれていたことや、日常生活においては、日本人と朝鮮人が親しくつきあっていたこともわかりました。危険な所で働く者同士が助けあいながら、石炭を掘っていたことに強い感銘を受け、「同じ炭坑者」として、犠牲者の供養をすることが炭坑跡地に住む者の努めであると考えました。また、桂川町や麻生地所も再建することに協力しました。
 このようにして「徳香追慕碑」は再建され、弥栄区、笹尾区の婦人会を中心に春・夏・秋には、供養祭を行なって来ました。また、このとりくみに共感した在日コリア同胞も供養祭に参加し、この地から、共生の輪が生まれ広がっています。
      
          1997年9月21日  徳香追慕碑供養実行委員会

12月10日(土)平和コンサートに出場しました「宮森小ジェット機墜落事故」の体験談&沖縄の歌

2011年12月11日 06時22分50秒 | Weblog
平和フェスタ
  トークとミニコンサート

    三線4人とパーランク、サンバ、歌で出場しました。

第1部:比嘉伸弘さん(当時3年生)の証言とギター弾き語り
比嘉伸弘さんは、介護福祉士として仕事をしながら、ギターの弾き語り、音楽会などボランテイア活動に活躍されています。
比嘉さんは、沖縄県石川市(現うるま市)宮森小学校(児童は28クラス1316人)に通っておられました。1959年6月30日、3年生の時、米軍のジェット機がコンクリート校舎2階の6年3組の庇に激突し、2年生のトタン葺き屋根の3教室は撒き散らされた大量のジェット燃料で炎上する事故が起こりました。比嘉さんは激突した6年3組の真下の3年4組の教室にいたのです。裏門から自宅に帰るまで夢中で、頭は真っ白で何が起こったか記憶にないとおっしゃいます。
あまりのショックに長年経っても母校を訪ねることもできない卒業 生が多かったのです。
50年経ってやっと勇気を出してこの事実を語り継がなければいけないと証言される方が出てきました。長く記憶を封印してきた方々です。今日、比嘉さんは初めて自分の体験したことを話されました。

SK・5のメンバーは、当時の先生、児童、保護者の証言やメッセージを朗読しました。
メッセージ紹介
1999年、米軍ジェット機墜落事故は、琉球朝日放送が入手した米軍資料により事故原因が明らかになりました。
それは、整備不良、防ぐことの出来た人災だったのです。40年目に初めて事故原因を知った遺族や関係者の嘆き、悲しみ、怒りは益々激しくなるばかりでした。事故当時、なぜ、米軍は真実を明らかにしなかったのでしょう。事故によって尊い命を奪われた18名の方々、多くの重軽傷者、さらに家屋を失った関係者に対して改めて米軍は謝罪すべきだと思います。沖縄の空や海、そして陸から戦争の道具が横行するのをもう終わりにすべきです。
今年は、戦後66年、事故から52年経ちました
しかし、この事故の事実を私たち本土の何人が知っているでしょうか?もし、この事故が本土で起こっていたら多くの人の記憶に残っているでしょう。この事故を知らないと言う事は、沖縄に対しての差別、そして基地を沖縄に押し付けてきたままの私たちの鈍感さになっていると思います。沖縄の人たちの声を受けとめ、沖縄のおかれた歴史や現実をしっかり本土の問題として考えていくべきではないでしょうか。  

第2部:三線と歌
 「平和の琉歌」、「ハイサイおじさん」、「島人ゆ宝」、「童神」、「赤田首里殿内」

    語り紹介です。
皆さんこんにちは。S K・5です。SKは堺上高校という意味です。卒業生と元教師を中心に沖縄民謡を弾いて唄っております。今日は9人で参加です。
「いちゃりばちょうでい(一度会えば皆きょうだい)」と言う沖縄の言葉がありますが、来るものは皆歓迎という開けたグループです。
 今日最初にお送りするのはサザンオールスターズの桑田圭祐作詞作曲「平和の琉歌」(1996年)です。沖縄の人々の平和への願いや思いが詰まっています。どうぞお聞きください。

次にお送りします曲は皆さんお馴染みの「ハイサイおじさん」(1976年)です。
「この歌は悲惨な事件が授けた曲『ハイサイおじさん』」として今年年7月9日(土)の朝日新聞「うたの旅人」(別刷り)「be」に載りました。
1962年5月23日、コザ市(現沖縄市)の島袋小学校近くのトタン葺きバラックの家で事件は起こりました。 
「女の子が毛布に包まれて横たわっていた。父親が『なぜこの子の足は冷たいの』と毛布を取ると首がない。父親は魂を落としたような顔で、暫く言葉を失った。39歳の母親が自分の7歳の娘の首を斧で切り落としたのである。戦後家を失なったり、精神的に病む人が沢山いた。悲鳴で駆けつけた近所の人の中に当時13歳だった喜納昌吉がいました。その後、夫婦は喧嘩ばかり、その母親は自殺、父親は酒に溺れていったのです。
その娘の父親が歌のモデルなのです。父親は事件後、のけ者にされ、子ども達にも石で追っかけられました。交通事故にも遭いました。でも明るく酒をせびりました。喜納昌吉の家にもねだりにきました。ハイサイと言って酒をあげることを繰り返していくうちに歌をつくってあげようねと思ったのでした。長い戦後の不幸や悲劇の中で明るく生きる突き抜けた陽気さに、おじさんの、そして沖縄の深い生命力を感じて湧き上がるようにできた曲とのことです。

高校野球の沖縄勢の応援歌として定着した明るい曲でしたが昨年の夏、「酔っ払いの歌が高校野球にそぐわない」との投書がきっかけで2回戦からヒヤミカチ節の曲に変更されました。しかし、復活してとの要望が強く決勝戦では盛大に演奏され、興南高校は、春夏連覇の優勝を飾ったのです。
3曲目は、「島人ぬ宝」です。2001年10月に開催されたNHK沖縄主催「新しい沖縄のうた」コンサートのためにBEGINが書き下ろした曲です。「沖縄本土復帰30周年記念イメージソング」として定着しました。
沖縄に旅行に行った方々が「島人ぬ宝」の歌詞の通りだなあと実感する歌です。お聞きください。



4曲目は前回のコンサートでも取り上げましたが古謝美佐子が初孫誕生の時に作った曲「童神」です。これから生まれてくる子ども達よ。健やかに育てという歌で平和コンサートでよく唄われます。

最後は「赤田首里殿内」です。那覇の赤田町には、は琉球王朝の重要な神事を司るところがありました。旧暦の7月16日にはミルク様(弥勒菩薩)をお迎えします。ニライカナイのあの世から平和な世の中と五穀豊穣をもたらし、福をもたらしてくれるのです。
世の幸せを願うこの唄は子どもをあやす手遊び唄となっています。

今日のフイナーレとなりました。今、東北で「ふるさと」の歌が歌われ始めています。
震災・原発・台風で故郷を離れざるを得ない人たち、また、隔離政策で故郷から隔絶されたハンセン病回復者の人たち、沖縄で故郷を基地に取られたままの人たち、様々な方々に思いを寄せて皆さんごいっしょに「ふるさと」を唄いましょう。

アンコールは「おじい自慢のオリオンビール」をお送りしました。

いずみ琉球フェスティバルに協力しました(12月3日)

2011年12月10日 13時08分35秒 | Weblog

いずみ琉球フェスティバル
9回目の今年は、「南風(フエーヌカジ)沖縄文化を伝える会」の活動費でポーク玉子おにぎり、ソーメンチャンプル、ゴーヤチャンプル
を50人分作って参加者にふるまいました。出し物は色々で盛り上がりました。

第9回(2011年12月3日)午後6時から
ゆう・ゆうプラザ(和泉市立人権文化センター)


<1>南風
~沖縄文化を伝える会

 沖縄から見る日本、世界


<2>富秋シーサーズ
(富秋中学校生徒)

 三線の花


<3> 琉球舞踊・山崎八重子 かぎやで風

<4> SK・5

 オジー自慢のオリオンビール
 島人ぬ宝
 涙そうそう

<5>ギター比嘉伸弘&ハーモニカバンド

 赤とんぼ
 月の沙漠
 ふるさと
 芭蕉布
 花

<6> 奥田彰
 松竹梅
 三線の花


<7> 比嘉浩康
 守礼の島
 デイゴ音頭


<8> 宮良正吉
 八重山育ち
 月ぬ美しゃ
 ミルク節


<9> デイゴチャンプル
 渡リゾウ
 砂辺の花
 かりゆしぬ踊い
 星影のワルツ
 瀧落
 祝い節

最後は、豊年音頭で唄って踊ってお開きになりました。皆さんありがとう。