在日コリアン・ハンセン病問題・沖縄―平和・人権―

自分の足で訪ねた関連の地紹介
知ることは力、学んでこそ生きる。

10月6日 証言から和泉市における在日コリアンの歴史を考える

2024年10月08日 21時54分34秒 | Weblog
1995年12月結成された和泉市における在日朝鮮人の歴史を知る会に誘われて参加した梶原敏子さんと私は、知る会が消滅後、和泉市における在日コリアンの歴史を考える会を続けている。
10月6日には、29年間の聞き取り調査の一端を報告した。
梶原さんと一緒に南面利にあった横山炭坑(亜炭)と朝鮮人坑夫、長年かけて継続調査している光明池工事と朝鮮人労働者、和泉市にあった泉北朝鮮小学校のこと(府内でに2校目に作られ、朝鮮学校閉鎖令がでてからも自主的に続けた2校の1つ)、和泉市で戦われた阪神教育闘争、  註 2校とは泉北、港
和泉の地場産業人造真珠は戦前から在日朝鮮人の生業となり、財をなした人もいる。

泉北朝鮮小学校の教師朴順慶(1928~2021)さん中心の朝鮮人と日本人の詩人サークルは、機関誌『信太山』(1955年4月・創刊号、1955年6月2号)を発行した。   
『信太山』は、大阪大学の宇野田尚哉先生によって『朝鮮人資料叢書20〈在日朝鮮人運動史研究会監修〉続 在日朝鮮人文学資料集(一九四六~六〇)』(2020年11月3日・編集者宋恵媛/宮本正明・緑陰書房)に収録されている。
号表紙には、「信太山は日本の国にあるけれど 私達朝鮮人は日本人以上に 信太山に深い愛着を抱いている 信太山には私達朝鮮人の 数限りない多くの思い出がある 母の魂が 幼い妹の魂が 安らかに眠っている 私達朝鮮人の若き日の思い出が 信太山の空間に含まれている 信太山は日本人朝鮮人を差別せず固く強く一つに結びつけている。 信太山は私達の 第二の心の故郷だ」(朴順慶)とある。
2011年3月11日の東日本大震災の起った頃、私は吉岡準平さんと泉北朝鮮小学校の教員だった朴順慶さんを初めて訪ね、解放後の泉北朝鮮小学校建設の話を夢中で聴き入っていた。
1955年に朴順慶さんを中心に日本人、朝鮮人が一緒に詩の会を開き詩人サークルの雑誌『信太山』(1,2号)を発刊したこと、日本人とともに出した詩の雑誌は『信太山』の貴重なところである。1号は井上正徳となっているが朴順慶さんの日本名である。朴順慶さんは、東京の大学を出たと紹介されているが間違いである。
「吉田一郎さんが死んだ」(三宅美千子作)九州の山田市の炭坑に連れてこられ、高千穂の砂防ダム工事を一緒にした親方を訪ねて来て和泉在住となり、天涯孤独で亡くなっていった在日一世、その小さなお葬式、こんなに辛いことはなかった。曹順化さんは、一心寺に眠る。兄弟の代わりに強制連行された人である。強制連行はなかったとか誰が言うのか。自分の国に向き合って生涯を送りたい。

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今日は、第27回光明池現地学習会が無事に終わりました。

2023年10月21日 18時27分45秒 | Weblog
1996年から調査を始めた地元光明池工事と朝鮮人労働者の調査も27年間
先月亡くなった吹田の塚崎昌之さんの資料調査協力も報告しました。光明池工事の事故の記事などです。

今日は、1995年12月にできた「和泉市における在日朝鮮人の歴史を知る会」呼びかけ人の一人だった中河由紀夫さんの報告もありました。

私は、パワーポイントで光明池問題をトータルに話をさせてもらいました。一緒に最初からやってきた梶原さんは紙芝居「光明池とこい」をしました。

光明池共同墓地通路に残る朝鮮人青年の墓石が韓国との共同調査により、遺族探しが進んでいます。記念すべき開催の年でした。

しかし、残念なことに1998年から継続してきた和泉市の人権啓発推進協議会、人権協会からの助成金が今年はゼロでした。

新たに事業を起こす団体がエンパワメント助成を申請する制度を利用するようにとの市の説明を受けました。

学習会に関わるものは、それは、筋が違うと和泉市に話に行きました。議員に陳情もしました。

1つの墓石が日韓交流の懸け橋になろうとしています。
これからも和泉市の対面にかけても行政的なサポートを要請していくことになります。
署名が必要ならするよとの方々も少なくありません。

今年の参加者は、「泉北コミュニテイ」を見たという
泉北ニュータウンの参加者もありました。
奈良など遠路お越し下さった方を含め盛会でした。
有り難うございました。



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9月29日(金)外島保養院89回忌法要&第10回外島保養院の歴史をのこす会開催

2023年10月04日 23時01分18秒 | Weblog
コロナ下では、光明園関係者だけで法要をしていました。
今年は一般参加(検温、マスク)もある法要が持たれました。
室戸台風で犠牲になった196人(入所者173人、職員3人、職員の家族11人、新築拡張工事関係者9人)
台風以前に亡くなった方々の遺骨はなくて火葬場の横が灰塚になっていましたが、で大阪湾に流されてしまったのです。
外島保養院記念碑はそうした人も含めて1250人の鎮魂のために建立されています。(1997年)
外島保養院の歴史をのこす会は、都ホテル尼崎で行われました。リアル開催は久しぶりです。
約20人くらいの参加でした。
最初にDVD「外島保養院から邑久光明園へ」を上映しました。のこす会の協力でできました。
いろいろなところで上映されることで外島保養院の歴史を知る一助になればいいですね。
2022年度ののこす会調査は、主に、保養院の医療についてでした。
菅井竹吉医長の時代にクッペルチアニールチアンカリ(菅井液)をハンセン病に効果があるとして入所者50人に治験した件です。
青酸加里銅液を1915年~1921年の間に治験したが効果なしとして消えていった療法でした。
入所者を試験動物のように扱った歴史を総括しないといけないと思います。
医療倫理の問題として。(私からの報告でした)

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青い鳥楽団団長近藤宏一さんの詩

2023年10月04日 11時49分49秒 | Weblog
1948年12月『楓』。
邑久光明園開園10周年記念号に掲載されています。
光明園が募集した文芸作品に選ばれたものです。
ハンセン病問題を考えるネットワーク泉北が刊行した近藤宏一詩集『あきの蝶』には
載っていません。まだまだ、あるかも知れません。
小島浩二の名前ですが。


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外島保養院の移転予定地→結核療養所「福泉園」→府営住宅

2023年04月04日 23時05分49秒 | Weblog
大阪市西淀川区中島2丁目付近(当時西成郡川北村大字外島)にあったハンセン病療養所外島保養院の移転問題
予定地を大阪府は購入済みであった。移転計画を知った泉北郡は町村長をあげて激しい反対運動
移転計画は頓挫。この地に移転していたら1934年9月21日の室戸台風による多くの犠牲者は
なかったといえる。
その土地に府立結核療養所「福泉園」が出来る。私の義理の叔母は看護婦だった。
福泉時代の桜は古木となり
かなり伐採されたり剪定されているが老木に芽を吹いた新芽にさいた花、花、花  命や希望を感じさせる
福泉園で亡くなった人のことも聞いている。
花は、鎮魂のあかし、密かに手を合わせて写真を撮る。そして、その娘さんに今年も写真を送る
実母の軌跡を訪ねて来られて偶然の出会い
それは、2011年の5月キラキラ輝く新緑の桜の下だった。
2012年から毎年
桜が咲くと落ち着かない
早く写真を送ってあげなければと

















住む人のいなくなった住宅があるとコンクリートブロックが置かれる
泉北ニュータウンの一角(1974年に建設された)





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和泉市南面利町にあった炭坑(続編)

2022年08月10日 15時43分52秒 | Weblog
ずいぶん前にブログに書いていますが、「横山炭坑」について
新たな記述です。
国会図書館のデジタル資料『西国三十三所名所図会』(嘉永元年1848・暁鐘成)、『和泉名所図絵』(寛永8年1796・秋里離島)
によると江戸時代後期に南面利に炭酸ガスの沸く「ぶつぶつさん」を源泉として沸かし、宿を提供する農家があったという。ぶつぶつさんは「鳥の地獄」と言われ、今も少し小高い山の頂上でぶつぶつと噴き出している。
枯れることがないのが不思議である。病気によく効くとされていたとか。

近くにすむ韓国寺の方の話では、湧き水で風呂を沸かすとよく温まるけど、風呂釜の寿命が短い。鉄分を含み、茶色い水である。
どうして炭酸ガスが沸くのか、石炭層のあるところに起こる現象で、炭化が進んでいる現象である。
その証拠が、南面利の亜炭の炭抗の存在であった。
古くは、明治から採掘されていたのである。
2003年8月に刊行した『和泉市における在日コリアンの歴史(戦前編)』に掲載しているが今になって分かることもあるので
ブログで紹介していきたいとおもう。


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大阪市立文の里夜間中学校卒業生が創った「オモニの像」

2022年04月10日 23時55分08秒 | Weblog
大阪市人教の「にんげん原画展」を見に行き金城実さんとお会いして
夜間中の生徒と共同制作したオモニの像の話を聞き、
すぐ後で見に行きました。
夜間中をなくしてはいけないと強く思います。




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昨年度閉鎖された泉北水道企業団の桜

2022年04月10日 23時21分04秒 | Weblog

1962年から和泉市、高石市、泉大津市に光明池の水を緩速ろ過して送っていた泉北水道企業団が2021年3月に閉鎖された。
高石市、泉大津市は各々25%を泉北水道企業団からであったが2021年4月より大阪府広域水道企業から100%供給されることになった。
和泉市は、和田の浄水場で20%、企業団から10%だったが、今は20%(和田)のみ光明池を水源としている。
府水の高速濾過に対して泉北水道企業団は緩速ろ過だったので惜しむ声があった。残念に思う。

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赤坂台3丁の桜が咲きました

2022年04月10日 22時57分21秒 | Weblog
大阪にあったハンセン病療養所「外島保養院」の移転計画が頓挫し、
更地になった地に1939年に大阪府立結核療養所「福泉園」が建設され、
玄関前に植えられた桜(ソメイヨシノ)が古い古い巨木となって今も毎年花を咲かせる。
もし、ここに移転していいたらこの街はどうなっていたのだろう
西淀川区中島の地で拡張工事が行われたが入居直前に1934年9月21日室戸台風により惨劇が起こった
その後大阪や近畿などでも再建出来ず、現在の邑久光明園として岡山の地に再建された。
ハンセン病者を排除し、療養所も排除した歴史を忘れてはならない。
『ふれあい文芸』(令和4年飯、公益財団法人笹川保健財団)に「忘れてはならない外島保養院の悲劇」として投稿した。
異色の随筆だけど書き残しておきたかった。






























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第25回光明池現地学習会が無事に終わりました

2021年10月26日 10時25分11秒 | Weblog
今年は、10月23日(土)
秋晴れの天候に恵まれて
フアインプラザでの室内学習会(1時間)







フイールドワーク(本堤防、光明池守護神社、本堤防の石碑、朝鮮人労働者犠牲者慰霊碑)も快適に実施できました。



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2006年に建立した説明版
1年間かかって碑文が出来上がりました
皆さんの協力の賜物です。


光明池工事の証言をしてくださった方々がほとんど他界されました。
最近は21年間調査に付き合ってくださった
朴南出さんの息子さんも6月に急逝され、寂しさをかみしめています。
小学校6年間、光明池工事を見てきた井上実さん(18年前に逝去)は、朴南出さんの息子さんと友達で
一緒に光明池歴史調査に同行して説明してくださいました。
二人に思いを馳せて『みのるじいさんから聴いた話」を今年度中に冊子としてまとめることにしました。
学習会参加の方々に聞いていただきました。
慰霊碑前では、在日の方々によってチェサが行われましたが、コロナ下で昼食交流会は今年も中止でした。


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