在日コリアン・ハンセン病問題・沖縄―平和・人権―

自分の足で訪ねた関連の地紹介
知ることは力、学んでこそ生きる。

6月7日に筑豊のフイールドワークに夫婦で参加しました。連れ合いの感想文紹介

2015年06月21日 09時26分01秒 | Weblog
第32回訪ねる会に大阪から参加して・・今回の筑豊で学んだこと
                        Y・M
私は1980年代後半から筑豊の地を訪ねてきました。筑豊訪問と重なって2000年頃からハンセン病回復者の人々との付き合いも始まりました。私は岡山大学時代に長島愛生園にあった全国で唯一つの高校(岡山県立邑久高校新良田教室・当事者の運動で出来た)に美術の非常勤講師として通った体験があり退職前に原体験が蘇り生涯の課題の1つになったのです。
ハンセン病を発症し、隔離され、そして1996年にやっと「らい予防法の廃止」、国の隔離政策に翻弄され、生きぬいてこられた人生の語りを聴くことは容易に出来るものではないのです。こんな経験をしました。前もって伺う約束をして、某療養所のある女性を訪ねたときのことです。部屋に招かれ、話は盛り上がりました。その時、皮を剥きカットしたりんごを私にすすめてくださいました。ちょうど、昼食を十分取った後であっただけにその旨を告げ、手をつけなかったのです。次に訪ねた時、私の前には包装されているお菓子がおかれていて、それを見た私は衝撃を受けました。
 私は皮を剥かれたリンゴを食べなかったのは、ただ、お腹一杯であったのですが・・・。
 「そこまで気を使わせたのか」長い付き合いとその中で生まれる信頼関係の中でお互いが理解でき、本音で語り会える関係が作られていく積み重ねを痛感したのです。
井手川さんの「火を産んだ母たち」を読むと、炭坑労働者として生き抜いてきた女性たちの強さと人間としての誇りが描かれています。女性たちから聴きとる作業は当事者に寄り添い、励まされ、学ぶ、同じ目線での共感からできたと言えるでしょう。歴史に残る本であると感じさせられました。
以前、井手川さんに資料館でお話を聞かせていただいたことがあります。しかし、今回は1つひとつの言葉に胸が打たれました。スラにかかる金具の掛け方と命とのつながり、「なぜこんな苦しい仕事から逃れ、別の仕事につかなかったのか」との問いかけに「この仕事しかなかばいが」との返事に被差別の置かれている差別の厳しさを感じとる感性の鋭さと優しい眼差しがあればこその対話だと思いました。
人が生き続けることの意味があるとするなら「人に対する優しさを貰い受けどのように優しさを返していくことが出来るか」、私自身の課題となった今回のフィールドワークでした。企画された「筑豊の強制連行を考える会」の方々に深く感謝したいと思います。
最後に、「青い鳥楽団」団長として園内外で演奏活動をやり抜いた故近藤宏一さん(長島愛生園)が私に残してくれた「私たちは被害者であったが決して人生の敗北者ではない」との言葉が今回で2度目の訪問になった「復権の塔」の坑夫像に重なってきました。