在日コリアン・ハンセン病問題・沖縄―平和・人権―

自分の足で訪ねた関連の地紹介
知ることは力、学んでこそ生きる。

11月10日/NHKEテレ・・ハートネットTV 「見えず聞こえずとも・・・」(再放送17日)

2014年11月13日 10時21分12秒 | Weblog


京都府京丹後市の山あいの集落で、自給自足に近い暮らしを続けている夫妻が主人公でした。
小さな畑や田んぼを耕しながら暮らしを営んでいる、梅木好彦(67)さんと妻の久代さん(64)。
ふたりは、その穏やかな表情からは想像できないほどの半生を生きてきたと想像します。
理想の農業を求めて全国を放浪しながら、一人で生きてきた好彦さん。一方、視力と聴力を失った久代さんは暗闇に押し込められたような人生に絶望しながら生き抜いてきました。
そんなふたりが結ばれ、この土地での暮らしを始めて14年。農作業や古民家での暮らし。
手と手を握り合うことで互いの意思を伝える“触手話”を頼りに今を生きています。
そんなふたりのライフワークが、久代さんのように光と音の両方を失った盲ろう者の支援です。
真っ暗な世界で、ひとりぼっちで生きている人たちを外の世界とつなげてあげたいと「友の会」を設立。出会いの場を提供しています。
番組では、そんな二人の日常を通して、生きることの意味を考えさされるものでした。

実は、私は大学を卒業してから香川から大阪に出て22歳で大阪のろう学校の教師となりました。
すぐに高等部1年家政科の担任、授業は2級免許はありましたが数学を週26時間受け持つ生活でした。
それも、ろう教育の専門でもなかったのです。
HRは、先輩教師としばらく一緒に教室に入りました。
「先生、お掃除が出来たから見に来てください」と声をかけられているのに理解できない私です。
「しっかり、生徒の話を聞くように」と強い指導をうけ、トイレで泣くこともありました。
香川の父親から「そんなに 辛かったら帰って来いよ」と言われたのでした。
ところが1か月経った頃には話が分かるようになっていきました。
そんな私と付き合ってくれた最初の担任の子どもたちの中に梅木久代さんがいました。
目のことは、先生たちがとても心配しました。
彼女が2年生になった時には、私は中学部の数学を教えるように
学校側から言われました。

初めての教師としてのスタート
原点
忘れません。
昨年は
同級生が訪ねてきてくれました。

梅木夫妻のテレビを2回見ました。
おとぎ話のような本当の人生に感動し、
彼女を教えた教師の友人はずっと涙が止まらなかったそうです。
あっぱれ!!

10月26日の平和フェスタ出演(私はマネージャー)から

2014年11月04日 21時21分31秒 | Weblog
先日平和フェスタにSK・5で出演しました

「月桃」
で沖縄戦がまだ終わっていないと歌いました
 続いて
「ハイサイおじさん」
では戦後、家を焼かれ家族を失って
精神を病む人の多かった沖縄の現実を
うたいました。
明るく歌うことで生き抜いた人々を
その喜納昌吉は沖縄知事選に立候補しました。
続いて
桑田佳祐の「平和の琉歌」
この国が平和だとだれが決めたの
その桑田佳祐は最近賞をもらいました。
「愛を植えましょう」とのくだりは
少し違和感は感じましたが・・。
知名定男のウチナー口の歌は納得
情け知らせたいのはヤマトの人だよと言われています。

最後は「童神」子ども達の未来を祈りながら
私たちがするべきことを考えて
行動を起こしたい。

ハロウインで変装した孫たち


SK・5ジュニアの作品(ゴジラ)

沖縄の旅・その⑤「沖縄戦は終わっていない」

2014年11月04日 14時25分40秒 | Weblog
午後
2時に山田義邦さんをお迎えに行く。
鉄血勤皇隊で生き残った方である。
糸満市摩文仁の一中健児の塔の右側、道なき道を進むと草茫々の中にお墓があった。
敗残兵、傷病兵がたくさんいたところである。
南部は激戦地であると言われるが一方的に米軍の攻撃にあって沢山の犠牲者をだした所である。
お墓の中には、兵隊だけが入った。
その付近に壕のような場所がある。

岩の上にお水、みかん、御菓子を供える。線香をあげる。
山田さんは大怪我をした友だち「たっちゃん」とこの場所で別れたとのこと。自分もすぐたっちゃんの後に続くと信じていたが、生き延びることができた。
今でも、たっちゃんを置いて行ったとの自責の念が離れることはない。週に何度もお参りに来ると教えてくださった。
「今日は、大阪の人も一緒に来てくれたよ」「たっちゃん会いに来たよ」と優しく語りかけられた。
山田さんは言われる
「時々、きれいな蝶々が飛んできたこともある。黄金虫が手にとまることもある。そんな時、たっちゃんが帰って来てくれたと思うんです」と。
沖縄の人は、日本人として同化させられた。差別された。
そして天皇のためにと沖縄戦に駆り出されていったのだ。
今も、いや一生傷の癒えない沖縄の人の存在を忘れていない人はどのくらいいるだろうか?
沖縄の原点を再確認する旅になった。山田さん、仲里さんありがとうございました。
お2人と分かれて私たちは那覇市若狭の「不屈館」に寄った。昨年オープンした瀬長亀次郎の記念館。DVDを見て閉館時間は過ぎていたが展示を見せていただいた。

今回の沖縄の旅は3泊4日だったは1週間のように感じる凝縮した旅だった。
出会いが出会いを呼び多くの方に良くして貰ってばかりの4日間でした。
感謝の一言です。

沖縄の旅④ 「沖縄戦はまだ終わっていない」

2014年11月04日 08時14分22秒 | Weblog
朝から那覇の友人である仲里正雄さんと御茶御殿に行く。首里の裏側を見るのが目的である。カトリック教会のあるところに到着。
首里の石畳が昔のままに残る道をあるくのが目的だった。カトリック幼稚園の敷地内に大シーサーがあったよと出会った女性が案内してくださった。
そこで立ち話をする。本土疎開で「沖縄もん」といじめられた大和の思い出、対馬丸と並行して走った和浦丸に乗ったので九死に一生を得たとの話、父が久米島で日本軍による虐殺事件を目にしたとの話。
。語ったことのない話を出会ったばかりの私たちにしてくださった。

いつも良くしてもらった故渡辺憲央さんを思い出した。
『逃げる兵』の著者で久米島事件の証言者。

その後、移転した大シーサーを見て、


儀間真常のお墓に行き、


石畳道を下る。

仲里さんの知人宅でお茶をご馳走になって休憩
また、石畳を登って
城北中学校近くの
ソバ屋「御殿山」に移動して
昼食
大嶺實清さんの工房だった場所である。
やんばるの古民家を移築したお店
風が頬にあたり爽やかなひと時を過ごして南部に向かう

沖縄の旅・その③辺野古へそして金城幸子さんと夕食(うるま市)

2014年11月04日 00時51分25秒 | Weblog
10月29日、今日も、知人を迎えに行き、
高速道路を走り
宜野座で出てキャンプシュワブゲート前へと急ぐ。
明日は沖縄知事選告示と言う日であった。
友人のOさんを探す。
ゲートが変わっている。
ゲートの警備の後ろに機動隊が待機していた
大阪から行った私たちにとっては真夏に戻ったような気温
昨夜は読谷でお世話になったKさんと食事・連れ合いはカラオケをして
寝たのは深夜だったから
炎天下はきつい
今日は、基地内の石綿を使った施設を壊す工事車両が出いるするので
警戒して集まった市民が多い
3つのゲート前で監視活動

Oさんは、毎朝、普天間大山ゲート前に立ち
朝食を自宅でとると
辺野古に向かう日々
定年後は反戦・反基地の闘いが日常だが
そんな老後に誰がしているの
いいのだろうか
「どんなに嫌だと言っても沖縄に基地押し付ける」
「これは差別だ」
と沖縄の世論。

沖縄に立たないと分からない
沖縄の人の心情
大阪で集めた署名を手渡して帰路につく

季節が和らぎゲート前に立つのも楽になったと聞いた。

それから読谷に戻り食事、北窯をちょっと訪ねて
再度金城幸子さん宅へ
サンエーの「大阪王将」で夕食
走る車の中、食事中と金城さんの両親について分かったことを聞かせて貰う
「ハンセン病であった私はしあわせ」出版後に判明した新事実
幸子さんの両親をしる方々が高齢となり事実を
語ってくれているように思った。
幸子さんの隣にいる人たちの友情のお蔭でもある。
幸子さん念願の課題を果たせましたね。

沖縄の旅・その②愛楽園へ

2014年11月04日 00時45分42秒 | Weblog
今朝は、朝から懐かしい知人を乗せてうるま市赤道小学校近くの金城幸子さん宅に急ぐ。
沖縄北ICから高速道路で名護へ、幸子さんとは1月に会って以来の再会。
最初に出会ったのは2002年12月15日だから12年来の親友である。
愛楽園へと急ぐが自治会の新役員体制もできたとかでジャスコで
幸子さんとケーキを買って訪問しました。

開放的な自治会の雰囲気
自然と打ち解けて会話
11月29日に開かれる「病があっても人として生きたい」-「精神病」と「ハンセン病」を語る集いin沖縄の準備に忙しい自治会でした

シンポジウム
金城幸子(ハンセン病だった私は幸せ著者)
伊藤哲寛(精神科医)
八尋光秀(弁護士)
長位鈴子(自立生活センターイルカ代表)
新田宗哲(統合失調症ピアサポーター)
参加したいけど
無理なので後で報告を楽しみにしています。

社会交流会館の資料館開館はまだのようである。
古宇利島を望む海は真っ青(これは1月の写真・・・今回も真っ青な海でした)

幸子さんは知人に釣りたての魚を届ける

それから名護市大南の「きっと屋さん」にランチしに
器は宮城工房のものばかり
ベトナムのほうのランチ


それから、浜比嘉へと向かうことに
海中道路を走り
シルミチュー、アマミツューに

港に出るとここも真っ青な海
久しぶりに民宿「ゆがふの郷」に寄る
休業中ななのに
沖縄ぜんざいを用意してくださる。
大阪の知人・初代ガジュマルの会代表も実家に帰っていると聞き
突然訪問
金城実さんの故郷でもある。

沖縄の旅(10月27日~30日)その①

2014年11月02日 18時50分01秒 | Weblog
久しぶりに沖縄にでかけた。
読谷北窯の宮城正亨・節子さんに鬼2体を届けようと着いた日にすぐレンタカーで読谷に向かった。
午後、「民宿おおき」のオーナーに出会いチェックイン
一軒まる貸しの民宿は、居心地がいい。
読谷村内外の学校の同窓会、スポーツ関係の合宿と利用は広がったようでうれしい。
読谷に5年半アパートを借りて行き来していた時代があるので泊まるのは読谷がいい。
土地勘があるから、知り合いに会えるから
沖縄を定点で感じる場所である。
元日本軍飛行場跡地の道路の整備が進んでいる。
嘉手納基地から飛び立つ軍用機は朝から空を飛ぶ。
沖縄の現実も感じつつ夜には我が家のように
帰って行く。
親方のお宅で魚汁など沖縄料理をご馳走になり
夜は、ゆっくり就寝した。