在日コリアン・ハンセン病問題・沖縄―平和・人権―

自分の足で訪ねた関連の地紹介
知ることは力、学んでこそ生きる。

6月5~7日まで福岡へ(大宰府・大野城・志免炭坑跡)

2009年07月30日 12時58分32秒 | Weblog
1995年より毎年のように『「筑豊」から日本人と在日韓国人・朝鮮人の歴史を訪ねる会』に参加している。最近は、その前後に北部九州の行きたいところも合わせて訪ねる旅をと思って出かける。6月5日正午前に福岡空港へと到着、すぐにレンタカーを借りて大宰府天満宮を目指す。大和朝廷の統治機関(出先機関)であった大宰府政庁(遠の朝廷)跡がある。 その天満宮から地下道を通ると九州国立博物館にいたるが車で回って到着。博物館の常設展示室はⅠ、縄文人、海へ Ⅱ、稲づくりから国づくり Ⅲ、遣唐使の時代 Ⅳ、アジアの海は日々交易 Ⅴ、丸くなった地球、近づく西洋の5つのエリアになっているが、初めてなので欲張って各エリア毎のテーマ展示室も一挙に回ったところ、動きは複雑となり疲れてしまった。その後特別展「整地チベットポタラ宮と天空の至宝」へ、平日であったが混みあっていた。序章:吐蕃王国のチベット統一第1章:仏教文化の受容と発展、第2章:チベット密教の精華と展示品は圧巻でありゆっくりと鑑賞する人で溢れ、高校修学旅行生の多さも目立った。
 それから、車で30分走り、最大の朝鮮式山城、大野城跡に向った。昨年の「訪ねる会」で「鴻臚館跡」に行ったが、発掘20周年にあたりこれからも調査が継続されること、21世紀になって分かってきた日本(福岡)と朝鮮・中国・アジアとの交流の歴史が具体物で分かるのに感動、世界史・東洋史の原点が見えるようであった。白村江の戦い(663)に敗れて、「筑紫館」(古代日本の迎賓館や遣唐使・遣新羅使の送迎施設)が産まれたと聞いた。今回、大野城跡地に立ち、一方は大宰府天満宮・大宰府政庁跡が眼下に見え、博多湾側に目をやると「鴻臚館」、大宰府政庁が一直線上のあること、白村江の敗戦から、防衛の為に大和朝廷が664年に築いた「水城」、665年には「大野城」が築かれ、位置関係が山頂からはっきり目で確認できる。唐・新羅軍を水城の壕と土塁で食い止める。この防衛線が突破された場合は、大野城に上って立てこもって戦おうという構図だ。大宰府の北の守りであり、南の守りも造られている。百済人の技術で築造され守りやすく攻められにくいと言う山の地形を利用した城(き)である。大野城は土塁・石塁が8キロ余りになるという。
大野城の石塁で最も大きい「百間石垣」跡は車道横に看板もあって分かりやすい。
土塁を歩いて回ると巨大さが実感できるらしい。建物は全て土塁・石塁内に建てられ70棟位判明していると市の資料にある。尾花地区建物群、増長天地区建物群の跡地は大宰府側から車で行くと車道から少し歩くと見られる場所に見つかる。看板もあるがとにかく大きいと体で感じる大野城であった。
大野城からナビをセットして博多のホテルに向う。途中で映画「三たびの海峡」の撮影場所になった「志免炭坑」の竪坑ビルを近くまで見に行った。坑口も鉄道公園内に保存されていた。この竪坑も大きい。九州道から見えたボタ山の姿はないが。

4月14日~18日まで木浦・済州島に行って来ました(3)

2009年07月28日 18時01分01秒 | Weblog
16日の朝6時、ホテルでシャワーを浴びようとしたところ、思わず熱湯を右足にかぶり足の甲を思いっきり火傷してしまった。皮膚は剥がれて一大ハプニング。西帰浦医療院に行く事になりタクシーを呼んでもらった。幸せなことに生野区で働いた経験のあるドライバーがたまたま来てくれて診察時も通訳して下さった。処置が痛くて「アイゴー」と思わず言うと「医者は痛くないですから」と慰めてくれてほっとした。9時から開館するホテル近くの「李ジュンソプの住居&美術館」(正房洞512-1)に杖をついて行った。李ジュンソプ(1916~1956)は、平壌生まれ、日本の東京文化学院美術科に在学中、日本自由美術家協会展に出品し脚光を浴びた。1945年日本人山本方子と元山で結婚、1951年妻と二人の息子を連れて西帰浦にやって来て避難生活をおくるが翌年妻子を日本に送り、埠頭で肉体労働をしながら全国をさすらい、戦争が終わるとソウルへ行く。1956年40歳の若さで世を去った最も韓国的・近代的画家と評価されているとリーフレットにある。その後東回りで済州市までがその日のコース。最初に城山日出峰は代表的な観光地だが4・3事件で民衆が虐殺された場所である。すぐ下にある洞窟壕(日本海軍特攻基地)は20本位あるらしいが私は遠くから見るだけにした。その後済州海女抗日運動公園・済州海女博物館へ。
海女の生、海女の仕事場、海の3つの展示室があるが、仕事場の展示室では海女に関する歴史記録と漁業共同体ジャムスフェ(潜水会)の足跡、海女の抗日に関する記録と夜学堂の様子を再現している。出稼ぎ海女では和歌山、千葉などと関連が深い。次に目指すは北村初等学校である。1949年1月17日、この運動場で多くの命が奪われた。村に火をつけられ学校に集められた人々が30人位づつ殺されてしまったのである。慰霊塔が2007年に完成、資料館もできているが昼休みで無人の中で見て回った。お昼はやはり虐殺のあった咸徳海水浴場付近で海産物のお昼を取り、その後朝天万歳の丘聖域化公園・済州抗日記念館へそして最後は済州4・3平和公園の4・3平和博物館である。4・3事件にいたるまでの歴史を詳しく熱心に日本語で解説して頂いた。文さんから「この人達は4・3に関心の深い日本人だから・・・。」と依頼してくれたおかげである。犠牲者の名前が電光で表示されるようになっているがドライバーの文さんのアボジの名前を確認した時、文さんの目に涙が滲んでいたのが忘れられない。済州島は海が綺麗で日本から観光に出かける人は多い。しかし、4・3事件の事を抜きには出来ないだろう。必ずここを見て欲しいと思う。日本の植民地時代に済州島を要塞化したこと、解放後なぜ4・3事件が起こったのか韓日の歴史的繋がりを認識するのは日本人としての責任である。
宿泊は、済州市の「太京荘旅館」で大阪の済州研究会辛在郷先生のオモニの経営。
お連れ合いさんには翌日「塔洞365日医療院」に治療で連れて行って頂く等大変お世話になりました。無事帰国して約1ケ月通院し完治致しました。心配して下さった方々に感謝致します。17日は「観徳亭」付近を散策して空港に向った。観徳亭は済州島に現存する最古の建造物、1947年3月1日済州北初等学校での記念式後のデモ行進で警察官が発砲し死者6人を出し、4・3事件の発端となった。済州空港は1940年代初め日本が軍事的目的で住民の強制労働で建設された。そして4・3抗争当時討伐隊によって島民が数多く処刑された虐殺地の一つである。18日に帰国するまで足の火傷に意識が集中し、深いところで感じることができなかった。もう一度行き直しをしなければと思っている。

4月14~18日迄木浦、済州島に行って来ました(2)

2009年07月28日 10時28分39秒 | Weblog
15日済州港に13:10着。文仁珠さんのタクシーで今日は西回りで西帰浦港までの予定である。最初に港に近い景勝の地「龍頭岩」を見学し、「抗蒙遺跡地」に着く。13世紀中頃、モンゴルの侵略に対して高麗武人の精魂が、籠もった三別抄軍が最後まで抵抗した砦であると案内文にある。そして翰林公園へ、漢拏山の火山噴火によって形成された天然洞窟に入る。修学旅行生で混みあって歩きにくい。司馬遼太郎訪問記念碑が立っている。私は旅行前より右足を悪くしていたので携帯の杖をついてヒョコヒョコと歩み、まわりをゆっくり見回すゆとりがなかった。次に済州市翰京面平和村、カマオルム洞窟陣地(日本軍地下要塞)・平和博物館を訪ねる。太平洋戦争末期、日本軍に強制徴用された地域住民が素手で掘らされた陣地である。洞窟300mが見学用に整えられ生々しく当時の様子を感じるようになっている。展示室には日本軍が使っていた各種資料が展示され、映像室では洞窟陣地や飛行場建設に強制労働させられた労働者のインタビューも上映されている。日本軍の戦跡についての研究者塚崎昌之さんの友人と言うことでお茶まで出して頂いて感謝。更にそこからモスル浦戦跡地を通りながら車窓見学、10年前に見たアルトル飛行場跡の掩体壕が目に入る。さらに車を進めソサルオルムの旧日本軍弾薬庫跡へ、この場所(百祖一孫合同慰霊碑前)で1950年8月20日、4・3事件関連で「予備検束」された住民が集団虐殺されたのである。7年経って遺族が遺骨を捜しにきても遺体の判別がつかず「百祖」と名付けてお墓をたてた。2008年より弾薬庫前の「百祖一孫合同慰霊碑」前で慰霊祭が行われている。足立さんが1人で慰霊祭が行われている時にこの地を訪ね遺族で個人タクシーをされている文仁珠さんと知り合い今回の旅でお世話になると言う縁である。文さんのアボジの名前も刻まれている碑の前で手を合わせてから西帰浦市グッドインホテルにチェックインして一日の予定を終えた。



4月14~18日迄木浦、済州島に行って来ました(1)

2009年07月03日 20時09分39秒 | Weblog
4月14日久しぶりに金浦空港に飛び、龍山までタクシーで行きました。駅前を少し散策して日本家屋など見てKTX家族席で木浦に夕方着きました。家族席は格安なので四人向かい合って喋りながら行けます。(但し静かにして下さいと言われることが結構ありますが)夕方木浦に着きホテルは「高麗モーテル」、日本家屋のレストランで食事をしてから、元日本人街を歩く。レストランの近くには東洋拓殖会社跡が「木浦近代歴史館」(日帝の侵略史・抗日運動等展示)になっているが時間が遅くて閉まっているのを外から見学する。木浦文化院(1897年に設置された日本領事館跡)の方に闇の中足を運ぶ。元々漁港だった木浦港は1897年に日本との条約で開かれたが植民地下で日本へ米を運ぶ積出港となり次々と日本家屋が建てられて行った。儒達山の反対側には「故郷の家」のルーツである「木浦共生園」がある。今年はユン致浩生誕100年にあたり木浦市長も来日して6月13日(彼の誕生日)には、記念の集いが京都で行われた。
4月15日朝、ホテル周辺の日本家屋、倉庫群を見ながらフエリー乗り場に向い「ニューワールド号」で4時間で済州港に着く。修学旅行生の団体が多いのが目立つ。タクシーは文仁珠さんで5歳の時に35歳のお父さんが4・3事件で犠牲になった人で大阪に住んでいたので日本語が上手。「百祖一孫」の犠牲者である。

今年10月18日(日)第13回現地学習会「光明池朝鮮人労働者犠牲者について」

2009年07月03日 17時36分43秒 | Weblog
毎年行なっている和泉市人権啓発協議会・多文化共生部会主催「光明池現地学習会」も13回目を迎えます。今年は、森下徹(市史)さんと三宅美千子で学習会講師を致します。新しい事実も判明しております。どうぞ足をお運び下さい。なお、前日の17日(土)には有志によって「光明池朝鮮人労働者慰霊碑」前に無窮花(ムグンファ)、レンギョウ(ケナリ)など植樹が行われます。17日は、慰霊碑前で歴史学習をして、その後昼食をとりながら学習交流会になる予定です。予定が確定すればあらためてお知らせいたします。
写真は1999年に設置された元の説明板です。今は分譲住宅がすぐ近くまで建ち、碑周辺の樹木は伐採され、うまめ樫だけ残っています。春は桜、夏は緑、秋は紅葉と四季折々の代表的な取水塔付近の光明池風景も背景は立ち並ぶ住宅となっています。13回と現地学習会を重ねて来た歴史をしみじみ感じる光明池です。光明池工事に関する聞き取り調査に協力して下さったM.Iさんも副堤防下の墓地に眠って6年にもなります。「もっともっと調べないといけないね」との言葉が甦ってくる思いがしてなりません。