在日コリアン・ハンセン病問題・沖縄―平和・人権―

自分の足で訪ねた関連の地紹介
知ることは力、学んでこそ生きる。

韓国釜山の旅(4)影島・海雲台

2013年03月26日 14時37分58秒 | Weblog
3月24日、機帳から釜田に戻り、南浦洞からバスで太宗台遊園地に向かった。目的は、かねてより関心のあった「金素雲」の文化碑を探したかったからである。
事務所の方に尋ねると大変親切でインターネットで検索して調べて下さった。私は、五六島の見える場所というので遊園地付近と想像していたが違っていた。
職員さんは案内してあげるとタクシーに頼んでくれたが近いので乗車拒否にあう。すると、乗車拒否は韓国人の恥だというドライバーが現れて名古屋にいたから名古屋弁だけどと車を出してくれた。
私の見た本では五六島の見える小公園にあるとなっていたが、韓国語では「ミニコンウォン」、タクシーが休憩場所にしているような道端の小さな公園で、背景に五六島が見えた。
詩人の金素雲が幼い頃、過ごした影島である。釜山海洋警察署を右折して坂道を少し走った場所に碑はあった。

裏面

3月25日、朝からホテルを出て、海雲台に行く。ごま油を絞る店がガイドブックにあったので訪ねて購入。
その後、真っ青な海岸をゆっくりあるく、対馬は見えないが、五六島が鮮明に見えた。
前日、夕方影島から見たが、反対側から見るのは思いも入って格別である。
案内版の写真より

昼食は、ナッチチゲ(タコ)新鮮だからマシイッソヨ!
3泊4日の充実した旅を終えてタクシーで金海空港へ
高い所を走るので歩きまわったところが眼下に一望できる。海もワンダフル!!
3人だとリムジンより安いのも絶妙な喜び
空港でまっていると
大阪に留学している時に一緒に調査の仕事をした双子姉妹が5分だけ会いに来てくれた。こんなうれしい旅の最後はない!ありがとう!ありがとう!
いただいたお餅は美味しかったです。

温泉場の「泉一ホテル」に連泊したのは良かったです。市場でお買い物、付近で色々な食べ物が安い、下町情緒が気に入りました。
初日はロッテデパートで夕食はとりましたが、これも美味しかったなあ!!

韓国釜山の旅(3)機帳市場、竹城里倭城、大辺湾

2013年03月26日 13時36分46秒 | Weblog
3月24日(日)海雲台まで地下鉄に乗り、バスで機帳市場に向かう。市場は海のものがあふれている。
さすがにカニの有名な市場であるが、私たちはタクシーで竹城里倭城に向かった。

機帳倭城(竹城里倭城)から竹城里の入り江を望む!
神谷丹路「韓国歴史散歩」の186頁の写真の場所である。風景の美しいこと!
倭城のある場所には、美しい漁港の湾が広がっているとか。

倭城近くの樹齢500年以上の松

ちょうど、わかめの収穫時期で倭城の麓は干しわかめ作り作業で忙しそうであった。
待って貰っていたタクシーで一番の目的地「大辺港」
つまり、植民地下での日本からの移住漁村跡である。
道沿いの小学校には「斥和碑」があった。昔は、機帳市場よりこちらが賑わったらしい。
植民地時代の足跡を探したが残っているものは見つからなかった。

足立さんの資料を引用させて貰うと
大辺港 대변항(慶南 機張)
朝鮮をめぐる日本漁業《朝鮮移住漁村分布図》より
1891~2年(明治24・5年)ごろから岡山県日生村サワラ流通漁者の根拠地、後、広島県の通漁者も来港、明治41年(1908年)ごろからこれ等通漁者が任意立地す。この年、福岡県筑豊水産組合が移住漁村を建設し、44年(1911年)に24戸移住、45年(1912年)には合計64戸、268人となった。
その後、成績上がらず大正3年(1914年)には個人経営になり、同10年(1921年)末、全移住者35戸中、漁業者16戸に減少す。
また、定着年次不明(多分日露戦争前後?)の三重県独立自由移民も居住す。その他サバ・サワラ・タイを目的とした通漁者が多く、これ等相手の各種商店が漁業移民より多かった。移住者の出身は山口・大分・三重・広島。
大辺港ミョルチ祭り(ミョルチはカタクチイワシ)が4月にあるそうです。

前述の「韓国歴史散歩」によると初めて進出したのは岡山県児島郡の漁師だと書いている。瀬戸内の漁村は漁場が狭隘で競争も激しく玄界灘を超えて朝鮮に通漁、移住という歴史になっていったのである。

大辺港は、「ミョルチフェ」が有名とか。
太刀魚チゲを食べて機帳市場に戻り、機帳駅から「釜田駅」に列車に初めて乗る。
困っていると日本の大学に留学していた女性が切符を買ってくれていろいろ説明してくれた。
今回もいたるところで人の親切さがしみじみありがたかった。

韓国釜山の旅(2)慶州のナザレ園、羅井、良洞村(世界遺産)

2013年03月25日 13時30分44秒 | Weblog
3月23日、市街バスで慶州へ
先ず、朴家の先祖にあたる井戸「羅井」休みとかで建物の門は閉ざされ、井戸を見ることはできなかった。
私のお世話になっている朴さんは井上さんと日本名を使っているが羅井からつけたそうである。
ここから、6つの姓が生まれていくのである。
孫、崔、、李、鄭 ヘキ

タクシーで仏国寺に近い「社会福祉法人ナザレ園」の
「日系婦人保護施設慶州ナザレ園」(1972年開設)に向かう
気になりながら行くのが遅すぎた場所!
慶州市九政洞616-51(慶州温泉観光ホテルを左に見て右の細い道を入る)
突然、私たちは訪問したのに、日曜日だったので園長の宋美虎さんがおられて迎えてくださった。
吹田の足立龍枝さんに園長から届いたお礼状のコピーを持って訪ねたのである。
せっかくだからとビデオを見せていただき、歴史や現状(現在24人、平均年齢90歳)について話して下さった。
女性たちの生活するお部屋もまわり、お話もして「ふるさと」一緒に唄った。皆さんお声をかけると故郷を教えてくれる。
ふるさとがあっても、帰る家や、家族、親族、戸籍までない方の思いは深い。3月なのでお雛様が印象に残っている。
ナザレ園を設立した金龍成さんは、日系婦人の帰国者寮をつくり、後には帰れない女性のために尽くしました。
「内鮮一体」のスローガンのもと、韓国人男性と結婚した女性たちは敗戦後、日本人に対する怒り、恨みが渦巻くなかにおかれました。
朝鮮動乱では、夫を徴兵されたり、家族離散の運命にも遭遇しました。
2003年に金龍成さんが亡くなられ、宋美虎さんに引き継がれて現在にいたります。
金龍成さんは、ハンセン病者の保護施設を作ったり、1971年には沖縄の離島の無医村に医者を派遣もされました。
写真は、玄関でお別れするところです。

ナザレ園を後にしてから、世界遺産の良洞村を散策しました。
雪蒼山を主峰として「勿」の字形で走る3つの丘陵と谷川にある。両班村として朝鮮時代の伝統の家屋が150軒保存されている。
写真は月城孫氏の宗家

世界遺産として藁が葺き替えられているい家並み

良洞村の世界遺産の学校で学ぶ子どもたちもいるのである。

慶州から帰り、欲張って「福泉博物館」(写真向かいの建物)に向かった。
ホテルから遠くないから時間を気にせずゆっくり散策。古墳が展示場になっていてカッチも近くで鳴いていた。

韓国釜山の旅(1)朝鮮通信使歴史館・釜山博物館

2013年03月25日 08時44分27秒 | Weblog
3月22日関空発10:40「エアプサン」で出発、金海空港へ
307番のバスで東莱駅まで行き、地下鉄で温泉場へ
金剛山公園側に歩いて徒歩6、7分で「泉一ホテル」に到着
3人でオンドル部屋をとる。予約は釜山ナビからしておいた。
20年くらい前によく泊まった「鹿天ホテル」のすぐ近くであった。
懐かしい!フロントは、日本語が通じないとよく泊まる友人に聞いていたが日本語で対応してくれるし親切である。

荷物を置いて身軽になって出かける。
地下鉄1号線「汎一洞」駅2番に出て歩いて子孫台にある最近できた「朝鮮通信使歴史館」に7分ぐらいで行く。
子孫台には富山浦=釜山浦倭館(1510年閉鎖、1521年再開、1592年まで存続)があったが道路沿いの子孫台入口に「朝鮮通信使歴史館」はある。


入口

日本各地に伝わる朝鮮通信使関係の人形展示

続いて地下鉄2号線大淵駅下車すぐの釜山博物館へ(1978年開館、2002年再開館)

18時まで開館しているので、ゆっくりと見て回る
第1展示館:先史室、三韓、三国室、統一新羅室、高麗室、朝鮮室
第2展示室:釜山を中心に展開された韓・日関係史釜山の生活文化、民族、近現代の姿
解放後、南北戦争の被害はすごい。釜山に避難して南下した人たちの歴史をしっかり見る必要があると思った。
外に出ると
「斥和碑」



      「斥和碑」について吹田の足立さん資料より
 (去年秋、大辺港へ行ったときに、偶然「斥和碑」Bを見つけました)
大院君(興宣大院君1820~1898)は、次男の命福が第26代国王・高宗として即位すると大院君となり、摂政として実権をふるった。彼が最初に政権を担当した10年間は、国内的には紀綱のゆるみと財政の逼迫、対外的には欧米諸国からの開国への圧力、といった内外ともに厳しい情勢下にあった。
そこで、彼は国内政策としては、備辺司(軍事行政機関)の廃止・三軍府(王室を護衛する内禁衛ネグミの前身)の復活・書院の撤廃(全国600のうち47書院は残す)・景福宮の再建・天主教徒の弾圧(丙寅教獄)・洞布の徴収?などを行い、対外政策としは鎖国攘夷政策(衛正斥和)を強化して、2度の洋擾(仏との丙寅洋擾と米との辛未洋擾)・日本との書契問題などを引き起こした。
攘夷の決意を表明した「斥和(洋)碑」の建立(1871)に示される彼の鎖国攘夷政策は、外国の侵略を撃退するうえでは成果を挙げたが、朝鮮の近代化を遅らせる結果となった。(朝鮮を知る事典 平凡社より)

「斥和碑」の碑文  「洋夷侵犯 非戦則和、主和売国」
(外国の侵略にはあくまでも戦う、戦わないものは売国奴だ)
1882年、壬午軍乱で大院君が清に拉致されてから、日本公使の要求により全部撤去された。
現在見つかって保存されている「斥和碑」は、
大辺初等学校海岸側校庭フェンス沿いに「斥和碑」Bがある。ほかには「沃川」C、「ソウル普信閣」Dはここにあったという碑、慶南ハム陽郡上林公園内に保存「斥和碑」E、
釜山博物館屋外展示場に「斥和碑」Aがある。

日生町「加子浦歴史文化館」へ

2013年03月20日 20時50分41秒 | Weblog
3月9日に山陽自動車道赤穂ICを出て日生港に向かいました。「牡蠣おこ」で町おこしが成功し賑やかな土曜日である。
韓国蔚山市方魚津(パンオジン)に日本からの移住漁村跡を見に行ったことがあるので展示があるか知りたくて寄りました。
文芸館と資料館に分かれている。文芸館では日生出身の児童文学者牧野大誓、小説家里村欣三、画家の久保田耕民の作品遺品展示。
日生を訪れた人々(歌人与謝野晶子・与謝野鉄幹・土屋文明、小説家井伏鱒二、SF小説家眉村卓、版画家・池田満寿夫)も紹介している。
リーフレットには正宗白鳥、柴田錬三郎、藤原審爾の名も見られる。
資料館では「海と人を活かす町」をメインテーマに歴史や産業の歩みを各テーマ毎に展示している。建物は町内の吉田家を移築したものだ。
加子浦は、公用船や海路を行く参勤交代の諸大名の通船に薪や水をしたり、「加子役(船を漕ぐ)」を勤める労役を課された港だとリーフレットにある。

資料館

年表に寄ると
1905年 方魚津に有吉亀吉移住  
1906年 羅老島へ10戸 岡山水産会の依頼で
1908年 絶影島  金谷商店(米屋・精米所)
      韓国漁業法発布(移住しなければ漁業をできなくなる)
1913年 日生の漁船80隻台風にあう 1名死亡
1917年 方魚津  100戸移住
1919年 林兼(130屯)蒸気船が5~7隻の漁船を率いて朝鮮へ出漁
1920年 羅老島に鮮南漁業KK設立
1930年 浦頂 丸三漁業KK設立
1937年 方魚津に日生出身者が寺院建立
1945年 引き揚げ
      方魚津(131人) 釜山(97人)  浦頂(48人) 麗水(30人)、筏橋(23人 羅老島(48人) 順天(6人) その他(118人)
      合計(501人)
      52世帯は鹿久居島に入植
朝鮮以外にも大連、台湾、マニラ、シンガポールと100人以上が出かけているらしい。
朝鮮からの引き揚げ者は方魚津に里帰りをしたり、方魚津とワッタガッタ(行ったり来たり)の交流を行っているそうである。
方魚津の小学校で以前にお聞きしたことであり、いつか日生で確認したかったのがそれが果たせた一日であった。
来てよかったと満足しながら「牡蠣おこ」を地元の方にお聞きして食べに行った。ぷくっとした牡蠣は美味しい。
それから長島の愛生園にYさんを訪ね懐かしくおしゃべりして備前から高速にのり、帰阪した。今日はよい日であった。