在日コリアン・ハンセン病問題・沖縄―平和・人権―

自分の足で訪ねた関連の地紹介
知ることは力、学んでこそ生きる。

連れ合いの「陶と書の2人展」の助っ人をしています

2014年09月28日 06時38分08秒 | Weblog

9月26日~30日まで泉ヶ丘駅近くのコミュテイーギャラリーで
開催しています。私の知人・友人も顔を見せてくださってます。
ありがとうございました

会場の照明もよくてギャラリーは美しい
普段見慣れた連れ合いの作品が琉泉窯「朋潤庵」で見るより
少し良く見えるから
すごい

案内状をお出しした方々(古い友人、知人)

ここも再会・出会い・交流の場

お買い物帰りに寄って下さる方々
コミュテイーギャラリー
休憩場所として最高

今朝の読売新聞に展示会の事が
掲載さました。
また、昨日は山陽新聞(岡山)の記者来場
私と連れ合いの共通で関わってきた
「ハンセン病問題」について聞かれました

連れ合いは大学時代に長島愛生園に全国で1つあった
高校に講師として半年だけ勤めました
美術の非常勤講師でした

陶芸は、20代に奈良芸短の先生
そして信楽の「保庭楽入」さんに
2001年には沖縄の宮城正亨(読谷・北窯)さんにお世話になりました

今回はオリジナルの鬼、沖縄の釉薬を使った焼き物
岸和田の牛滝山のもみじの灰釉をつかった焼き物を展示しました

9月26日(金)外島保養院の室戸台風による犠牲者80年忌法要と「外島保養院の歴史をのこす会」創立

2014年09月27日 06時34分25秒 | Weblog
午前11時より、中島2丁目の「外島保養院記念碑」前で、法要が行われました。
私は、「外島保養院の歴史をのこす会」として献花しました。

午後2時半から尼崎都アルカイックホテルで近畿・北陸など2府10県の個人・団体が参加して「外島保養院の歴史をのこす会」が立ち上げられました。
共同代表、各府県幹事など役員もきまり、11月8日の幹事会で動き出します。
外島保養院の移転問題を自分たちの地域の問題としてとらえ言い続けてきた「移転していたら犠牲者はなかった」とする私たちの地域の加害の問題。
負の歴史を伝えようとする私たちの地味な活動が初めて大きく取り上げられました。
記者会見もあり、そのような歴史認識や、故近藤宏一さんきょうだいとの交流を10年続けてきた経緯にも触れました。
帰りに人影のない薄暗くなった、記念碑前に立ち寄ってから湾岸線で帰宅しました。


共同代表を引き受けました。

戦争により移転を余儀なくされた泉佐野市鳴滝の「蟻通神社」…72年ぶりに薪能「蟻通」

2014年09月24日 06時37分40秒 | Weblog
21日6時から泉佐野市鳴滝の蟻通神社の薪能「蟻通」を見に行きました。


神社のブログによると
蟻通神社は1941年第2次世界大戦勃発。翌年、佐野町、日根野村、安松村、長滝村にまたがる一帯は、陸軍明野飛行学校佐野飛行場が建設され、田畑、ため池、一部集落も強制移転を余儀なくされました。 このとき、蟻通神社も移転の運命にあり、現在地に移ることになりました。 長滝村の人々をはじめ、宮司、神社世話人、の無念と失望は計り知れず、また、若者を戦地に出した後での移転作業は、大変な苦労の連続だったと記録されています。 境内面積は狭くなりましたが、社殿・舞殿・門・灯籠などの建造物は、村の方々により、ほぼ元通りに配置されました。1944年8月遷座を終了しましたが、移転後1年で敗戦となったのでした。 昭和43年(1968)、明治100年記念として、鳥居、弁財天社、仏足石、八百万の神等を整備し、また併せて紀貫之冠之渕を境内に整えました。

遷座70年で72年ぶりに能を復元したそうです。神社内にも移転の碑があり、1キロ離れた地にも碑が建っているのです。


権禰宜さんは元同僚です。悲劇の蟻通神社の舞殿で年を経て能が演じられることは感動でした。



最近、能や狂言に関心を持つようになり、泉北から出かけましたが、立ち席の人も多かった。
開始時刻のずっと前から並ぶ人の列列・・・。
紀貫之と蟻通明神が登場する世阿弥作の能の素晴らしさ、移転前の神社では鎮魂の能が演じられてずっと途絶えていたのです。
地域の人々が歴史・文化を大切にしようとボランテイアで動かれたことにも心打たれました。

9・21を忘れない・・・室戸台風から80年

2014年09月19日 20時20分49秒 | Weblog
浜口金造『生きる あるハンセン病回復者の心の軌跡』(2007年12月22日新生出版㈱)を読んだ。
彼は、1934年9月8日に13歳で外島保養院に入り、2週間後に室戸台風に遭遇したのであった。
委託患者として菊池恵楓園に送られて光明園に戻ってきた。

室戸台風に遭遇した体験を詠んだ短歌

 「薄暗く海はなまり色白波が我の前にて母の名呼びぬ」
 
 「濁流に助けてくれとおばちゃんが我の手触れて波間に消ゆる」
 
 「吹き荒るる助けてくれと叫びつつ多くの友は波間に消える」
 
 「神経が高ぶる我は恐れなし死骸と一緒にそばに寝入りぬ」

「外島保養院記念碑」前で行われる法要に参加して
  
 「介護長に誘導されて碑の前に花束そなえ胸せまり来る」




※私も大阪とハンセン病問題に15年前位前から関心を持ってきました。
 記念碑前で行なわれる法要で毎年のようにハンセン病回復者支援サポーターズ「虹の会おおさか」として花を奉げてきました。
 でもでも犠牲になった方々にどれだけ深い思いを巡らして来たかと問い返す。
 『外島保養院の風水害記念誌』を何度か読んでいるが・・・・。

外島保養院跡地から尼崎方面を望む風景



80年前の1934年9月21日、外島保養院は、室戸台風で全壊・流出・・・196人の犠牲者を出した

2014年09月09日 23時09分58秒 | Weblog
室戸台風の被害で人生を一瞬に閉ざされてしまった人たち
大阪市内では登校時刻であったため
小学生も多く犠牲になった

外島保養院が鉄筋コンクリートの建物だったら良かったのにと思う
大正末期に1000人規模の療養所にするため
移転計画が持ち上がった
それは泉北ニュータウン堺市南区赤坂台
泉北郡の療養所建設反対運動は郡民大会開催までに発展
移転計画は頓挫
堺市も台風被害は大きかったが
赤坂台(当時は原野)なら人的被害はなかっただろう
そこに私は住んで長い
隔離政策の推進は反対
でも、移転していたら
今も「外島保養院」は大阪の地に
あったはず

台風後、九死に一生を得た人たちは、
6つの療養所に委託患者として送られた
長い人は中島大橋五社神社前のテント生活は1ケ月
どこかに避難場所を確保されることはなかった

そして大阪で再建はかなわず
岡山県長島に「光明園」として復興
外島保養院25年の歴史は幕を閉じた



『大阪府風水害誌』(大阪府・1934年)によると
第五節 外島保養院の被害遭難
    患者の救護及其の措置
第三款 死體の捜査及其の措置
「死體は、九月二十五日迄に現場付近にて発見せる者百十體あり、残余は職員・患者又は付近青年団等より成る捜索隊を組織し、発見に努めたる所、或は泥中に没し居るもの、叢中に埋り居るもの、或は遠く淡路島・貝塚海岸に漂流せるもの等ありて、之が捜査に最苦心と費用とを要したるは、現場倒壊建物の下敷きとなり居たる死体の発見なり。而も其の一部は溜池中に在りしを以て、電気モーターポンプ一台を据え、十四日間に亙る排水を行なひ、之により、十一月十九日迄に百七一體を発見し、結局未発見のものは患者十二體、職員家族一體を存せり。而して淡路島海岸に於て発見したる五體は、保養院職員出張火葬に附して持ち帰り、貝塚海岸に於て発見したる一體は、町役場にて火葬に附し送付を受け、其の他の死體は公益社と契約して、発見の都度火葬に附し、遺骨は夫々関係者をして引取らしめたが、関係者不明等の為引きらざるもの尚三十三體あり。此等は兵庫県尼崎市常念寺に鄭重保管を託せり。」とある。『外島保養院風水害記念誌』(1935)にはない記述である。
同じ記述が『葬祭五十年―株式会社公益社の歩み』(公益社・1982)に見られる。違うのは『大阪府社会事業施設一覧』よりと書かれ、33体は常念寺に保管を託せりの記述はない。
1932年に創立した公益社は、台風一過後、大阪府から遺体処理等に当たるべく協力を要請され、藤井治郎営業部長は数名の社員、京橋の職業紹介所から作業員をともなって現場に出向いた。寝食を忘れて1カ月は納棺作業にかかり切りであったと述べている。11月下旬になっても発見されないものが数名あり遺体収容作業は難航した。10月2日には祭壇を設営、犠牲者の慰霊祭を執行した。それは公益社始まってはじめて関わった大仕事であった。原田久作院長から藤井部長宛ての礼状が届き、大阪府から感謝状が贈られている。