在日コリアン・ハンセン病問題・沖縄―平和・人権―

自分の足で訪ねた関連の地紹介
知ることは力、学んでこそ生きる。

「逃げる兵」の著者を訪ねて

2011年01月23日 23時17分52秒 | Weblog
「逃げる兵」の著者渡邊憲央さんも97歳になられました。1998年天神祭の日に初めて沖縄の小橋川さんと伺ったので13年のお付き合いをさせて貰っています。高齢になり、持っている資料を利用できるところがあるならと言うので神戸のTさんとの訪問でした。資料はできるだけ沖縄に寄贈する方向で検討することになりました。今でも沖縄戦の夢を見るそうです。今日も久米島に漂着した話になると目に涙を浮かべておられて私もつらかったです

12月28日16時の飛行機に乗る前に・・金海市へ

2011年01月20日 13時37分24秒 | Weblog
長年実現しなかった国立金海博物館行きがやっと実現した。「東莱駅」下車市外バス105番「亀山洞白鳥アパート」で下りると標識があり歩いて5分で博物館到着。分りやすいところである。1998年に開館した博物館だ。黒色の建物外観は鉄鉱石と炭で鉄の王国伽耶を象徴しているとリーフレットにある。伽耶文化遺産の集大成を目的としたもので考古学中心の博物館という特性をもっている。落ち着いた場所にあり、9時から開館しているので有難い。4月から9月は土曜日は午後9時まで夜間開場って日本にはあるだろうか?満足する雰囲気だ。ゆっくり見て回ってから付近の金海の象徴的な文化遺産賀洛国の始祖「首露王陵(スロワンヌン)」に向かう。静かな落ち着いた場所だ。それからかなり歩いて「首露王妃陵」も広い静かな場所であった。王妃はインド阿蝓陀国王女許黄玉の陵である。金海金氏と許氏の始祖になった。崇善殿には2人の位牌があり春と秋に祭礼があり全国から金氏と許氏が集まると言う。その後漢屋体験館で食事をしてか大成洞古墳博物館に歩いて到着。「ウェコジ」丘陵に造られた金官加耶の王たちの古墳である。博物館の「概観の間」では大成古墳群から発掘された鉄製武器類を中心に展示、「古墳の間」では木棺を再現して展示、「交流の間」では鉄製技術を基礎にし、東北アジア経済の中心地としての役割を担った金官加耶の対外交流の様子を展示している。現場展示館は29号木槨墓とこれを破壊して造られた39号木槨墓を発掘当時の姿で復元展示している。飛行機の時間を考えて外の展示見学は諦めてタクシーを呼んで貰って空港に急いだ。かかった時間は30分。近いです。反対に日本から金海空港に着いたら金海経由で釜山に入るのもいいかなと思った次第である。

浦頂市への日帰りの旅(ポスコ・九龍浦・浦頂駅付近)12月27日

2011年01月19日 10時32分18秒 | Weblog
2日続きで早起きし、「老圃洞」(ノッポドン)に地下鉄で出て市外バスで「浦頂バスターミナル」へ。1時間半位かかるので睡眠をとる。観光案内所で「ポスコ」と「九龍浦港」へ行きたいと訪ねる。日本語があまり通じないので日本語のできる職員の方に連絡を取ってくれて旅の目的など電話で直接話して説明を聞いた。私達は「浦頂市と関係のある足立さんと友人であること」、「九龍浦に移住して解放後引揚げた漁民の小田漁港が私の実家に近いため移住漁村に関心を持っている」と話した。そうすると「時間があれば一緒に行きたいけど会議があって無理なんです」と告げられた。2009年10月に九龍浦を訪ねていたので大体地理は把握できていたので「大丈夫です」と話して、200番の九龍浦行きのバスに乗った。浦頂はポスコ(1968年創立鉄鋼企業・新日鉄と提携)の町、東海岸最大の竹島市場には2年前に寄ったので今回はパスして、九龍浦港行きのバスに乗る。「ポスコ歴史館」に行きたいとドライバーにお願いしたら親切に教えて下さった。韓国最大の鉄鋼メーカー・POSCO(ポスコ)は1968年に浦項総合製鉄(株)として発足し、1973年に浦項製鉄所を開業しました。新日鉄は同製鉄所の建設・立ち上げに協力して以降、技術交流などを継続してきましたが、2000年8月、両社の株式の相互保有も含めた提携契約を結んでいる。日本からの出張するサラリーマンも浦頂市に出向く訳である。2000年に民営化された「ポスコ」は粗鋼生産世界第三位である。日本の自動車産業も製品を使っているのが現状だ。
足立さん、筑豊の先生達と現地で待ち合わせて合流したのは2年前の秋。「九龍浦の中の日本人」(浦頂市)を片手に日本式家屋を探し、元神社の階段を息を切らしながら登って行った。夜の九龍浦漁港を眺め田思た思い出が蘇える。九龍浦は2009年6月29日「『朝日』(夕刊)にも百年の記憶ー韓国に残る日本家屋ー観光資源化慎重な歩み」にも紹介されていた。市が日本家屋の修復・保存・観光資源化を進めているところである。韓国併合頃から日本人が多く進出し、水産業界を支配したとパンフレットにある。特に香川県漁民が集団で移住し防波堤工事、郵便局、寺、学校設立、神社及び公園を造成、1933年には移住総世帯は220世帯、漁業従事者は半数で約70㌫は香川県民で「香川村」と言われた。ついで岡山、山口、三重県と順である。旧小田村の人が多い小田村はさぬき市志度町小田と今はなっている小さな漁港だ。あれから何度も訪ねている。九龍浦港は任領、石原、井上、高尾、橋本などの日本人漁業兼運搬業者の拠点となった。また、九龍浦はイワシ漁の中心地であった。現在日本人の居住地だった長安洞通りが日本の雰囲気を残している。前回は気づかなかったが元九龍浦神社の両側の石柱が日本人の名前が塗りつぶされて反対向きに設置され韓国人の名前が刻まれている。どうしてか分らないがこの石柱の裏は「十河彌三郎」のままで塗りつぶされていない。理由は分らない 
元神社の神主宅跡に住まわれている徐相浩さん(92歳)を訪ねる。急な訪問だが足立さんの友達と言うことで部屋に上がらせてもらって色々お話をお聞きする。香川の小田に行ったり「香川の海外出漁史」に関心があることをお伝えした。九龍浦を懐かしく訪ねて来る方のことなど教えて下さった。虎尾岬や1907年に遭難した「日本水産講習所実習船・快鷹丸 遭難記念碑」に行きたい旨を話したら「私が案内しましょう」と言われるので甘えてお願いした。車で連れて行って下さったのである。感謝・感謝だった。日本水産講習所は今の東京海洋大学で館山市にあり、快鷹丸が練習した場所を昨年8月、実際に行っていたので興味深かった。
虎尾岬は日の出が美しいところで冬とは言えども暖かい。延鳥郎細鳥女(ヨノラン・セオニュ)像が立っている。この夫婦は岩に乗っているところを流され、着いたところは出雲の国、そして王に迎えられたという神話は本当に面白い。それから九龍浦漁港に戻り徐さんのお知り合いのお店で遅い昼食をご一緒する。名物「ムルヘ」、「クァメギ」がちょうどシーズンで美味しかった。さらに寒風の中を日本家屋通りを説明して回ってくれました。当時日本人が亡くなったら遺骨は神社下のお寺の納骨堂に安置されたこと、敗戦後引揚げた日本人は「すぐ帰ってくるから」と言って分かれたとかお話がリアルでこんなに案内して貰って申し訳ない位感謝し、この旅は過去の韓国の旅の中で一番良かったのではと外は寒くても心は暖かい一日だった。十河彌三郎の孫が来られてスーパーになっている今のお店でお買い物をしたことも、歴史は人の物語なんですね。今度は、お風呂やと散髪屋をされていた松本さんをさぬき市に訪ねたいと思っています。徐さんの綺麗な日本語が印象に残るばかりであった。日本人の子に混じって勉強したからだそうだ。夕方近くなってしまったのでやはり200番のバスに乗り、タクシーも利用して「浦頂駅」付近の日本統治時代の跡を徒歩で回る。古くからの中央商店街、郵便局、元市庁(現図書館)、元神社跡(現徳寿聖堂)元浦頂国民学校(現中央初等学校)など、夕闇と寒さに勝てず次回に回してバスで釜山に戻ると夜の九時だった。朝7時半にホテルを出たから長い一日だった。写真は1月10日に訪ねた旧小田漁協の建物と小田漁港  

釜山・南浦洞・富平洞エリアを歩く(12月26日午後)

2011年01月18日 22時44分23秒 | Weblog
ソウルから昨夜から釜山入りしてくれた足立さんのガイドで午後も動く。地下鉄で「土城洞」駅で下車してタクシー「元慶尚南道道庁・朝鮮戦争時政府庁舎」に行く。道庁は、1925年に晋州から釜山に移転。そして、1983年、昌原市に移転後2002年より、東亜大学校法科大学(富民キャンパス)として使用されている。大学の博物館も新しい。その坂を登って行った場所に「元慶南知事官邸・朝鮮戦争時大統領官邸・現臨時首都記念館洞)」があり訪れた。朝鮮戦争が起こり、首都がソウルから大田・大邱・釜山へ移り、それに伴って大統領官邸も釜山に移転。1950年8月から53年7月まで官邸として使われた。 一説に李承晩は7月2日から既にここに住んでいたとか。臨時首都記念館としてだけでなく、むしろ、解放前ここに道庁や知事官舎があり、日帝の収奪と搾取の中心であったことを次世代に伝える役割のある建物であると言われている。映像をみると朝鮮戦争当時の市民の困窮した状態がひしひしと伝わってくる。夕方「40階段」を上り「40階段文化館」を訪ねて展示を見たが、前もって映像をみていたのでリアルに把握できたように思う。その後、国際市場入り口にある「宝水洞古本街」を歩く。元々は帰国する日本人が文学書などを売ったり、朝鮮戦争時は生活苦のために売られた本が多かったが、今は代替わりして、その時代の本は少ない。そのずっと歩いて「富民市場・カントン市場」・「国際市場」を散策する。「富民市場」は日本人と朝鮮人との共同市場として植民地時代からある。「カントン市場」は缶詰市場のこと。「モッチャコルモク」というグルメ通りもある。「国際市場」は戦後闇市から生まれた市場。一年前、火災事故のあった「カナダラ射撃場」は国際市場の中心にある。   
釜山タワーを予定していたが3人とも登ったことがあるので止めした。植民地時代の建物などが古い地図を見ながら確認できる場所であるが・・。 東本願寺(現大覚寺)、東洋拓殖釜山支店(米文化院→現近代博物館)、 釜山郵便局、 釜山デパート、影島大橋(通称ハネ橋)・影島、気象台(舟形)、 光一初等学校(東光+南一)、 国際市場方面、チャガルチ方面、 乾物問屋・占い横丁、元(大火まで)釜山駅辺り 釜山港突堤、 釜山府庁(ロッテデパートが最近オープン)など。
ロッテデパートからそんなに遠くないところに龍頭山公園に上がるエスカレーターがあるので確認に行った。KTXでソウルに帰る足立さんとお別れして「乾物問屋」の日本家屋を見て歩き、影島大橋(通称ハネ橋)まで行き、占い横丁の日本家屋を工事現場の隙間から眺めて中区に向かい先ほど述べた「40階段文化館」に行き、それから道を教えてもらって「白山記念館」に着くと日が暮れてきた。白山記念館は、1995年8月15日に釜山市中区庁が解放50周年を迎えて、旧白山商会のあった場所に建てられた。教育事業と言論社創設、白山商会を通じた独立運動資金確保など様々な分野で朝鮮の独立のために力を尽くした白山・安熙済氏の精神を称えるとともに教育の場としても利用されている。暗くなったので 釜山駅に帰り「アリラン」ホテルの近くで「ふぐ鍋」が夕食だった。

釜山・東莱地域を歩く(12月26日午前)

2011年01月18日 11時25分48秒 | Weblog
早朝地下鉄に乗り、東萊駅で下車、タクシーで忠烈祠についたが8時半で門は閉じられている。隙間からのぞき見るしかない。随分前に行ったことがあるが入りたかった。忠烈祠には東莱府使 宋象賢と鄭撥ら壬辰倭乱で殉死した英雄たちを祀っている。忠烈祠の入り口に宋象賢の明言「戦死易仮道難」(戦って死ぬのは容易だが、道を貸すのは難しい)を刻んだ石碑がある。9時まで待てないので東莱高校へタクシーで向かう。
日帝時代最後の独立運動だと言われている「乃台事件」。1940年11月23日に起こった朝鮮人学生たちの抗議の意志「アリラン」を歌い、「テンノウヘイカゼンザイ」を叫んだ。今でも、11月23日は「東莱高校の日」と決めて記念行事を行っている。以上「韓国歴史漫歩」より東莱高校では、3月1日にも全校生が記念行事を行っている。早朝だが門が開かれているのでうれしい。
禹長春記念館 父親禹範善は角田房子が「閔妃暗殺」を書く過程で分かってきた人物。禹長春は角田房子の「わが祖国」に詳しい。1991年2月2日「NHkスペシャル」で「わが祖国・ある日本人・禹長春」にも取り上げられた。記念館の展示にも書かれているが、「種無しスイカ」を発明したと誤解されている。「種無しスイカ」京大木原均氏の発明。数分で金剛公園(元金剛園)に着くと(注:『 』は、東莱邑城のもの) 金井山の麓にある金剛公園は、蓬莱館の主人である豊田福太郎が『東莱南門』を購入、移築することから始まったが、順調にはいかなかった。それで、東原嘉次郎が個人の庭園として造成し、一般に公開し、東莱邑に寄贈するという形に変わっていった。『望美楼』『東莱都護衙門』 温泉街の端にある門楼。この門をくぐり少し行くと金剛公園の正門がある。
 門からなだらかな坂を500メートルぐらい上っていくと、1636年建立の『東莱独鎮大衙門』に着く。
 岩の間を更に上ると、温泉川にかかっていた石橋『利渉橋碑』そして、倭軍の侵攻によって廃墟になった東莱邑城を再建した功績を称えた『莱州築城碑』が目に入る。ところで、なぜ東莱中心部にあった建物や碑石が金剛公園に集められたのか。『利渉橋碑』から少し上がると、巨大な一枚岩でできた日本語の碑文がある。解放後はセメントで消されたようだが、元の文字の資料を読んでみると、東原嘉次郎が金剛園を東莱邑に寄贈した由来が刻まれている。後世に伝えようとしたものである。
つまり、大門や碑石は、東原が財を投じて本来あるべきところから金剛園に集めてきたものである。その年は1931年、寄贈したのは1940年、皇紀2600年だった。以上は足立龍枝さんの案内資料から引用している。写真は正門近くに立つ日本語で書かれた石碑である。私達は今回、『望美楼』を車から確認したに過ぎない。そして、ケーブルを利用して、金井山中腹まで往復することにした。それより上、金井山城はやや健脚向き?4人のうち2人はマ南門まで散策、2人は柚子茶を飲んで待機していた。壬辰倭乱犠牲者の碑義塚が金剛公園入り口から近いところにあるが今回は寒さに耐えられず次回に見ることにした。。東莱南門外で発見された遺骸が、植民地時代別のところに移送され、解放後金剛公園に移された。元々6基(7基ともいう)が1基のみになっている。寒いから動きが遅くなってしまう。次は東莱別荘(トンネピョルチャン)まで歩いて行く。 釜山一の富者、迫間房太郎の2番目の別荘。 敷地3000坪、建物200坪、純日本式木造2階建、 日本から建築資材を取り寄せ、大工も呼び寄せて建てたもの 解放後、米軍政休養施設→現在レストラン
日本の皇族が使用したという石造りの浴槽が有名 庭園もよし屋外に建物の中に松の木、石塔が取り入れられた日式レストラン「松亭」がある。迫間一族は解放後、10隻以上の船に貴重品や穀物を積んで日本に帰った。
それから日本が植民地下で開いた東莱温泉の方に歩いて行く。足湯をする人も冬のために少ない。壁画で植民地時代の東莱の歴史がよくわかるので一見の価値があるといえる。




12月25日:釜山を歩く「浮島丸爆沈犠牲者追悼碑」

2011年01月05日 19時44分59秒 | Weblog
15時頃いつもの「アリランホテル」にチェックインしてから中区の「40階段文化館」にタクシーで向かったがクリスマスで休館だった。朝鮮戦争で逃れてきた避難民が集中してすむ所、食べ物にも困窮した歴史を忘れないようにと作られた展示があるところだ。しかたなく「40階段」を下りレリーフや説明板を読む。その後海の方へ寒い風に吹かれながら歩いて行った。関釜フエリーの停泊する「釜山国際ターミナル」を横目に見る「沿岸ターミナル」に隣接するスミル公園(道路沿い)に到着。「浮島丸爆沈犠牲者追悼碑」は、道路に向かって建っていた。解放後60年の節目に建立されたものである。
碑文は
「せめて)波としても 我が地に これは 風としても!
祖国光復(解放)を 迎え
帰国船 浮島丸 爆沈で
旅立った 船路から 帰りくることも できなかった 君よ
白い花 一輪 捧げよう
長く どどまった 愛憎を たたみ
この地の 空となった 君よ
安らかに 寝ついたことだろう
おお 翻る 旗 旗
浮島丸 犠牲者の 魂を賛えて」
元府庁跡に建設されたロッテデパートが近くに見える。オープンしたばかりである。浮島丸追悼碑から10分位の距離なので歩いて行き、屋上の展望台に上ると龍頭山公園の釜山タワーの付根と同じ高さのようである。影島も眼下に拡がって見える。