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第30回「筑豊」から日本人と在日韓国・朝鮮人の歴史を訪ねる会に参加(その前日・6月1日)

2013年07月28日 23時35分44秒 | Weblog
6月1日、初体験で格安航空「ピーチ」を利用して関空から福岡空港に飛びました。同じ堺市泉北ニュータウンの友人がフエリーで門司港に早朝に着き、空港へ来てくれて合流しました。
最初は、日田ICまで高速を走り、日田の豆田町を散策した。1601年(慶長6年)小川光氏が丸山城を築城した際、城下町として建設された「豆田町」は江戸時代初期から幕府の天領となり、九州各地の経済、文化の中心として栄えたそうである。1594年に直轄の支配地(豊臣天領)としたのは、豊臣秀吉によるものである。碁盤目状の街並みには旧家や資料館が並んでいる。2006年に重要伝統的建造物群保存地区となった。目的の赤司日田羊羹を一棹いくらで求めて満足であった。25年くらい前に福岡から長崎に向かう道中にわざわざキオスクに羊羹を買いに寄ったことのが懐かしかった。上品な味の飽きない味!



見学は、「史跡咸宜園跡」に絞って見て回った。
商家五代目廣瀬三郎右衛門の長男として1782年(天明2年)に生まれ廣瀬淡窓が開いた私塾である。「咸宜」の「咸く宜し」とはすべてのことが宜しいという意味で、門下生一人ひとりの意志や個性を尊重する教育理念を表した塾名であるという。身分や階級制度の厳しい時代にあって、入門時に学歴・年齢・身分を問わない。全ての門下生を平等に教育した。リーフレットによれば、1897年(M30)に閉塾するまで5000人の門下生が学んだ江戸時代を通じて最大規模規模の私塾となったと書かれている。門下生は僧侶や町人が多く、卒業後は儒学者、教育者、医者、政治家など活動した分野は多岐にわたる。
見学後、30分車を走らせて、当初の目的地「小鹿田焼き」の里へ向かう。2008年に福岡のS先生に案内してもらって5年ぶりの訪問であった。
唐臼の音が響く渓谷

1931年に訪ねた柳宗悦が「そこだけ無傷で残っている李朝の風景」と書いているが、今も原風景にであったような感じの場所である。小鹿田焼窯元。秀吉の朝鮮侵略で連れて来られた高取八山、高取の影響を受けた小石原の陶工の手で焼かれ続けて来た窯元。窯は一子相伝。生活に必要な焼物に徹して延々と400年近い。土は裏の山の土を共同で取り、各窯元の唐臼で2週間かけて土を砕き女性がすいひする。機械化しない伝統的手法がロクロのスピードにあっていると聞く。ロクロは朝鮮風の蹴ロクロ。共同で焚く登り窯、展示室もなかなかいい。バーナードリーチの大皿にもまた出会った。前回、ちょうど到着した時、女性が朝鮮の「道祖紳」前の草を引いておられた。石人像も左右にある。

浜田庄司も訪ねたらしい。若い陶工の方が民芸運動に関わった人の話をしてくれたことを思い出す。5年前と当然変わることのない風景で、お昼はお蕎麦屋さんにとこれも同じ行動であった。
蕎麦屋さんから見える風景

「飛びカンナ」の小皿など求めてから「日田市立小鹿田焼陶芸館」に入ってビデオをみたりゆっくり鑑賞。この陶芸館だけ今春オープンして新しい。

前回は埃が見えるような素朴な展示館だったが、それも味わい深かったように記憶している。大阪に帰って「大山崎山荘美術館」にバーナードリーチの作品が展示されているので出向いて行った。少し前に大阪高島屋で行われた「バーナードリーチ展」が全体的に網羅した作品の数々で圧巻だった。