在日コリアン・ハンセン病問題・沖縄―平和・人権―

自分の足で訪ねた関連の地紹介
知ることは力、学んでこそ生きる。

那覇の友人「御孵化果報(ウシリガフー)」の著者

2009年08月11日 19時19分47秒 | Weblog
「沖縄タイムス」の書評を見て著者から購入した「御孵化果報(ウシリガフー)-風車祝を迎えた阿母に感謝して」は那覇の仲里正雄さんが母を通して語る粟国島史だと書評中で新城栄徳さんは書いている。ご本人に電話して購入し、本代を払うのは訪沖の折でよいと言われてお会いしてから5年近いお付き合い、縁とは不思議なもの、粟国にご一緒して泊めて頂いたり、読谷村の小渡幸信さん「粟国の塩」(沖縄海塩研究所長)を紹介して頂き親しくお付合いさせてもらうことになった。
その彼が、ある時電話で韓国のテレビドラマ「土地」の原作を読みたいが沖縄の公立図書館、大学の図書館にもないのだとのこと、「何で土地なの?」と聞くと朝日のカメラマンをしていて今はフリーの田川出身のペちゃんが言うので・・・と。
最近「写真万葉録・筑豊」を全巻手にして見直し、9巻「アリラン峠」中の福岡県嘉穂郡桂川町吉隈の「徳香追慕碑」の写真を見ていると「強制連行を考える会結成大会」の看板、碑の前で舞われる朝鮮舞踊、挨拶する人の背景に写るボタ山、元気な岡本隆先生も写っている写真があった。159㌻には、仲里さんの言う「ペちゃん」こと、昭(1956生)さんのことが書かれていた。「親達にとって、死出の峠であった〈筑豊〉。その絶望の峠をふまえて、今、二世たち達は未来形のやさしい戦列を整える。在日朝鮮人写真家の若いホープとして活躍する二世の昭さんもその一人である・・・」と。大阪梅田であった写真展にも行ったことがあるが結びついてなかったのである。筑豊の方々に笑われる話かも知れない。最近沖縄の友人から聞いて自分の無知を認識した有様だ。仲里さんは大阪在住の粟国出身者がどんな生き方をして来なければいけなかったか、「ハツリ」の仕事をしてアスベスト被害を被った方を紹介して頂き、訪ねたこともある。本庄小学校には粟国から送られた「蘇鉄」が植えられ成長している。その種子を頂いて植木鉢に蒔いたが小さな葉が育っている。

6月7日:第26回「筑豊」から日本人と在日韓国人・朝鮮人の歴史を訪ねる会に参加して(2)

2009年08月11日 12時47分07秒 | Weblog
「麻生吉隈炭鉱跡地」からバスで飯塚市の「住友忠隈炭鉱跡」へ移動、常楽寺裏のボタ石が墓標代わりに置かれた無縁墓地、ここにも何度か訪ねて来たが今日の原中さんの話でさらに無縁墓地に対するイメージが広がっていく。犠牲者を火葬にした場所など初めて分かったことである。
 江原道から強制連行され住友忠隈炭鉱第5坑の朝鮮人寮に収容されたが、無事に逃走した結果、現在堺市美原区にお住まいの安承録さん(89歳)の話をしたい。「強制連行を考える会」の方々と朝鮮人寮跡を探し探しの旅をしたのは11年前の5月、無縁墓地では「自分も逃げなければこうなっていたかも知れない。思えば涙が出るよ。お酒をかけてあげたかった」と日焼けした優しい顔を覗くと涙を拭っておられた。常楽寺上の無縁墓地に立つと高齢で筑豊訪問が困難な安さんを思い出しながら手を合わせる。今1人で暮らす安さんのいい思い出とは、お宅に訪ねる度に、一度は話に出てくる「筑豊の強制連行を考える会」の方々の真心である。最近大阪で、安さんの事を気にかけてくれる人ができた。安さんと同じ故郷江原道旌善郡から和泉市に来られて10年になる女性だが「アボジ、アボジ」と気にかけてくれるのである。私とは韓国の古汗、道渓、舎北の旧産炭地(植民地時代に日本が開いた)を訪ねた話から意気投合した間柄である。植民地時代に日本がつくった炭鉱のことは、太白山の「石炭博物館」図録にもあるが日本で朝鮮人労働者を強制労働させたイメージといっしょである。聞慶にも博物館があり、丹陽炭鉱跡地には植民地時代の炭住が残っていた。、光州から1時間の和順炭鉱は現役で粉炭を産出し川も山も建物も灰色だった。

ところで、戦後50年から筑豊に関心を持った私は遅過ぎて、「写真万葉録筑豊」とか写真で感じること、働いた人の体験談で想像する域をでないのが情けない。大野貞光さん・大野節子さんから泊めて頂いて夜にしみじみお聞きした話は心にとまっている。もっとお話をお聞きしたいと思う日々である。
7日最後の目的地は高取焼発祥の地、直方市永満寺宅間跡へ行く1606年黒田長政が朝鮮半島から連れ帰った陶工が窯を開いた場所で「高取焼発祥の地」の記念碑が2年前に完成していた。内ケ礒に後に移転して登り窯を開くが今がダム底になっているらしい。古高取の時代、後に祖国への帰国を願い出て蟄居させられた山田窯、そして白旗から小石原へ移転、400年を超えて続いている。古高取を復興した清水筑山窯を見学、記念に色々買物もし、充実した1日を終えて福岡空港から帰阪した。大阪に帰って「炎の海を超えて」(高取静山著:平凡社)を図書館で借りて一気に読みました。50代に高取焼を小石原に復興したことは勿論ではあるが、初代八山が眠る白旗山(飯塚市幸袋)の墓地が公営住宅建設のため、撤去される現場に長男と立ち合った状況は思いが込められ言葉で表現できないものがある。まだの方は、ぜひ手にして欲しい一冊である。
お世話になった皆様、有難うございました。来年の福岡行きを楽しみにしています。

6月7日:第26回「筑豊」から日本人と在日韓国人・朝鮮人の歴史を訪ねる会」に参加して(1)

2009年08月09日 21時57分45秒 | Weblog
9時に集合場所の「ひまわりの里」(桂川)に着くと1年ぶりの再会の方々と懐かしく挨拶を交わす。1995年から毎年のように訪ねているので故郷の人にお会いしたかのように気持ちが安らぐ1日の始りである。今日の最初の目的地は麻生吉隈炭鉱跡だ。当日の資料に添付された「世界」(6月)の「史実検証:麻生鉱業の消せない過去」(福林徹)中で、麻生太郎首相は、明治以来、筑豊炭田の石炭採掘で財をなした麻生財閥の御曹司で、代議士になる前は麻生セメントの社長、戦時中父親が社長であった麻生鉱業は1万人とも言われる朝鮮人労働者を使役していた。詳細については「世界」(1月)の横田一論文「麻生一族の過去と現在」、同3月号では西成田豊「朝鮮人強制連行と麻生鉱業」で明らかにしていると紹介し、福林論文では1945年5月から敗戦まで連合軍捕虜300人を使役した歴史があると述べている。その事実を公式に認めたのは昨年11月米国公文書館所蔵の「麻生鉱業報告書」(捕虜情報局に提出)という証拠書類を突きつけられてのことだ。案内の原中悦男さんは息子さんと一緒に来られ、確かな記憶で説明して下さった。原中さん作製の当時の地図は分かり易く、今の地図と重ねるとよく理解できる。朝鮮人寮に住む友達の家に遊びに行った話、300人の捕虜収容所のあった場所では捕虜がどのように働かされていたことや米軍機が救援物資を投下した様子等話してくれた。
6月中旬には、元連合軍捕虜 豪人ジョー・クームズさん(89歳)が64年を経て来日されるので飯塚市で交流会が催されるとの案内も頂いた。1942年、シンガポールにて日本軍に捕らえられて日本に連行され、神戸の川崎造船所で強制労働されたが、神戸が空爆されてから、筑豊炭田に連行され、麻生吉隈炭鉱に1945年3月から8月まで強制労働についていたとビラにある。
 徒歩で跡地を巡り、「強制連行を考える会」代表大野節子さんの説明でグランド近くの共同墓地跡から遺骨が沢山掘り出された話をお聞きし、「徳香追慕碑」前では1936年1月25日、二坑の坑内火災で命を奪われた29名の犠牲者のうち25名は朝鮮人労働者、消火の為に坑道を密封されて逃げ道がなかった人達、坑口近くで見つかった遺体の爪はもがれその苦しみを象徴する有様だったと聞く。「徳香追慕碑」はその後建てされた。1980年麻生地所が宅地造成して取り壊してしまった。それを知った大野節子さん達婦人会が中心となって、新に1982年「徳香追慕碑」を建立在日コリア同胞と供養祭を毎年実施して今日にいたっている。個人的には何度目かの訪問だが気持ちを新たにさせれる思いで一歩一歩跡地を踏みしめて歩いた。大きなボタ山は麻生飯塚ゴルフ倶楽部となって長い。何度も筑豊を訪ねているので草木が繁茂していても自然の山かボタ山かは判別できるようになった。

6月6日杉野ハンセン病資料室を訪ねました

2009年08月08日 13時22分11秒 | Weblog
6月5日(土)福岡県鞍手郡小竹町御徳167-31のちくほう共学舎「虫の家」に設けられた「杉野ハンセン病資料室」を訪ね、高石伸人さんのお話をお聞きして楽しい一時をすごさせてもらった。「筑豊の強制連行を考える会」の柴田・山田先生が紹介して下さってのことである。かつて炭鉱の町だった小竹町だ。住宅街の一角にある資料室。「・・・菊池恵風園に入園されている杉野芳武さん、桂子さんご夫妻との出会いを通して、国家の人を人とも思わぬ差別政策と、結果としてその非道に加担した私達の犯した過ちを身に刻むために、2008年4月に開設したものです。」とパンフレットにあり杉野夫妻によって提供いただいた療養所でかつて手づくりされた家具など展示されている。また、10年かけて全国の療養所を回られて撮った写真展示もあり、小さな町の小さな資料室のふところの広さを感じました。虫の家の自主企画で20日には「長島愛生園」「邑久光明園」を遠路訪問されるとお聞きし、かねてより「ハンセン病問題を考えるネットワーク泉北」と交流のある近藤宏一さんをご紹介いたしました。共通の知人の多さに感動し、どこかでお目にかかることを願ってお別れしたのでした

6月5~7日福岡へ(田川市石炭・歴史博物館へ・「虫の家」へ)

2009年08月08日 13時21分36秒 | Weblog
6日早朝、ホテルから博多駅へ、笹栗線に乗り「新飯塚」で後藤寺線に乗り換え「田川後藤寺」から一駅小倉行きの日田彦山線に乗り「田川伊田」駅に着いた。石炭を運搬する為に張り巡らされたかつての国鉄。今は乗る人も少なくて電車を覆うように草が生え茂っている。乗り換えの度ごとに時間待ちが結構長い。何度も田川の石炭資料館を訪ね、1995年には大阪の高校生400名が修学旅行で見学するプランも実施したところである。長らく行っていないので久しぶりにローカル線を使って訪ねてみた。石炭記念公園に徒歩5分で坂をゆっくりあるいて着いた。外に展示されている竪坑櫓、二本の高い煉瓦の煙突は変らない。ふと香春岳を見ると一の岳が元の半分の高さ、曇っていたのもあり香春岳とすぐには分からない位になってしまった。外に炭坑住宅が再現されているが、その中にかつては、資料館内部にあった炭坑労働組合の歴史展示がされていた。裏の山に上ると「韓国人徴用犠牲者慰霊碑」は従来よりあって変らないが、強制連行中国人殉難者鎮魂の碑」が坂田九十九市長顕彰碑の左側に2002年に建立されたことが現地を訪ねてわかった。
博物館玄関前にかつて炭坑住宅が残っていたがその影はよく見ないと分からない程にかすかに残っているのみであった。大月堂の羊羹「白いダイヤ、黒いダイヤ」(石灰と石炭のイメージ)を立ち寄って眺めながら求める気になれず、また、ローカル線で「桂川」まで電車の旅。そこで、懐かしい柴田先生が待って下さり、山田先生も合流して「虫の家」に行くことになったが別のブログにアップしています。