在日コリアン・ハンセン病問題・沖縄―平和・人権―

自分の足で訪ねた関連の地紹介
知ることは力、学んでこそ生きる。

11月密陽・大邱・金泉・高陽市へ(3)

2008年12月03日 13時28分22秒 | Weblog
11月30日、ソウルのヨンシンネから高陽市徳陽区竜頭洞475-95にある朝鮮王室の墓地「西五陵(ソオルン・史跡198号)」に行った。紅葉のシーズンは美しい場所であろう。2006年1月21日「朝鮮日報」によると、明宗(第13代王)の長男順懐(スンフエ)王世子と妻のユン氏が合葬されている墓が盗掘犯によって穴(縦1.4m、横0.7m深さ2.7m)が1月16、17日の深夜の管理人のいない時間帯に掘られたものであるが、お棺の周りの生石灰が年月を経て固まり盗掘に失敗したのである。「秀吉の朝鮮侵略の際にも同様にして倭軍が人足50人を使って王陵を盗掘しようとしたが失敗に終わっている」とのことである。
それから津寛寺入口(恩平区津寛外洞50)近くにある九代成宗の側室淑容沈氏の墓碑を探して行った。恩平ニュウタウン造成中に見つかった側室の親族のお墓が多数見つかっているのを目の前で見た。そこから少し踏み込んだ少し小高い場所にあり、回りは有刺鉄線で囲まれているが敗れていて墓碑の前で手を合わすことができた。淑容沈氏の墓碑は東京港区赤坂の「高橋是清翁記念公園」にあったのを釜山日報の崔性圭氏が見つけ、尹達世さんが調査を依頼されて判明したものである。文禄慶長の役の時代に島津藩が持ち帰ったとされていたもの。400年ぶりに東京港区から返還されることになり2000年6月16日墓碑の移転式が行なわれ、2001年春に津寛寺近くの小高い丘の上の李王家の墓地に戻されたのであった。

11月密陽・大邱・金泉・高陽市へ(2)

2008年12月02日 14時44分05秒 | Weblog
11月28日、密陽からKTXで夕方に大邱駅に到着。ホテルは大邱ユニオン観光ホテル。大邱は、2002、3年に光明池工事をした朴南出さんの娘さん(朴仁孝)を新川に訪ねて以来である。鄭銀淑『韓国の「昭和」を歩く』(2005)によって植民地時代の跡を探してまわる。韓国第3の都市であり、平譲、江景と並ぶ三大市場だったので日本人も多く住んでいた。「慶尚監営公園」付近を暗がりの中で散策し翌日に備えた。中区の北城路、西城路周辺には、日本風の商店や家屋が数多く残っている。本の中にある日本家屋を四方から壁で固めた「日帝封じ込め建築」は駅に近い場所に見つける事ができた。29日には、「慶尚監営公園」付近にある現大邱中部警察(元大邱警察)、大邱郵便局、韓国産業銀行(元朝鮮殖産銀行大邱支店)の建物は既に使われていなくて銘板に経緯が刻まれていた。1927年10月18日に新聞紙にくるんだ爆弾が送りつけられて爆発事件のあったところである。独立運動家の攻撃の対象であったから。
次にタクシーで達城公園に向かった。ここには、1906年在住日本人によって大邱神社が建立され、大邱邑城から撤去した慶尚監営の正門である観風楼を移設している。神社の跡らしきものを発見できず、散歩している人に訪ねた。大きな槐の木があるあたりと本にあったので人に尋ねたが言葉が通じない為に勝手な想像をして勘違いをしてしまった。入口から近いところにあったらしく、神社の鳥居の石がテニスコートのローラーに使われているとネットで調べたら判明した。再度訪ねて行こうと思って今回は諦めることにした。その後北城路の「機械工具街」を歩く。三星グループ発祥の地である。これは教えてもらってすぐ分かった。建物は1997年に撤去されてないが、当時の写真のある碑があり、敷地の上に立つと麺類を製造した部屋などどの部分にあったか分かるような展示がなされていた。その後薬令市場に足を運んだ。約1キロに渡る通りである。漢方薬関連の商店が並んでいるが李朝時代からあった専門市場であるが1941年に民俗色が強いという理由で朝鮮総督府によって閉鎖されたという歴史がある。
もう一度大邱を訪問しようと思いつつ「無窮花」号で金泉に下車「金泉神社」跡に登る。折から冷え込み粉雪がちらつく天候であった。急な石段を上る途中に珍しく
燈篭が残っていて名前がセメンで塗りつぶされていた。

11月慶尚南道密陽、大邱、金泉、高陽市に行きました(1)

2008年12月01日 13時53分05秒 | Weblog
11月ソウルからKTXで約2時間で慶尚南道密陽駅に着きました。
足立龍枝さんと私たち夫婦の3人旅。どこでもそうですが駅付近には古い日本家屋が残っています。歩きながら路地を路地を覗きながら日本家屋を探すのが癖になっています。やはり便利な駅近くには植民地下に日本人が住んだことがわかります。先ず腹拵えに密陽大橋に近い食堂で「カンジャタン」を食べたがおいしい。
橋を渡るとすぐ右角に元密陽警察跡がある。1920年義烈団による爆破事件のあったところである。「冬のアゼリア」(西木正明)を読むとリアルに描かれている。
その前の道を真っ直ぐ歩き密陽川を渡ると韓国三大景勝地の1つ嶺南楼に到る。密陽川から吹き上げる風にあたりながら眺める風景は素晴らしい。楼閣のすぐ下に阿娘閣があり密陽アリランの由来(阿娘説)が書かれお墓もあるらしいが今回は訪ねることが出来なかった。神谷丹路さんの「韓国歴史漫歩」には密陽市立博物館があると書かれていたが私達が訪ねた時には移転してなかった。博物館跡近くには松雲大師の銅像がたっている。3月に熊本市の本妙寺宝物館でみた松雲大師の書を思い出す。加藤清正につれて来られた三代上人の日遥上人の書とともに展示されている。松雲大師は西生浦倭城で加藤清正と講和交渉をした高僧である。後に日本に連れて来られた捕虜送還に一生尽くされた人で韓国では、四溟大師として知られている。
そこには1916年、植民地下で日本がつくった密陽神社のあった場所であるが石段だけ面影が残っている。下の嶺南楼の前に「天真宮」がある高宗が退位するまで密陽
郡守が使用した建物だが、日本の憲兵隊が獄舎に使用したと説明にある。元々殿牌を奉安し、客舎と使用したものだった。すぐそばに「独立義烈士崇慕碑」があった。1920年の密陽警察爆破事件に関連する人々を顕彰するものだが中心人物の金元鳳の名前はない。脱北したのが理由とか。
ところで、韓国併合以前に密陽川に堰をつくり龍頭山の地下水路を通じて広大な平野に水を送る水利事業をし、岡山県から韓国への移住農業を奨励したのは松下定次郎(岡山県出身)だったとか時間がなくて堰を見ることは出来なかった。植民地統治の基礎固めだったのだろう。最後にタクシーを飛ばして松雲大師の遺品展示館のある表忠寺に行き、朝鮮通信使絵巻を見てどの人が松雲大師かと尋ねたが和からないとの答えであった。密陽に生家跡もあるらしけど時間がかなりかかったので密陽駅まで待たしてあったタクシーで引き返して密陽を後にした。