広島で被爆後、ケロイドの治療を受けるため、1955年に渡米した25人の女性被爆者の一人で、2月に82歳で亡くなった山岡ミチコさんをしのぶ会が10日、広島市中区の原爆資料館東館であった。国内外で証言活動に尽くした山岡さんの生き方を振り返り猛暑のなかで平和への誓いを新たにした1日でした。
会場には親交のあった約90人(新聞報道)が集まり、遺族や友人7人が思い出をスピーチ。進徳高等女学校(現進徳女子高)の同級生で、共に証言活動をしてきた寺前妙子さんは「活発に証言する姿に励まされてきた。これからも頑張るから、見守っていて」と話された。 山岡さんの証言を盛り込んだ映画を制作した米国人監督のスティーブン・オカザキさん(61)=米カリフォルニア州=は「子どもに体験を伝えることを最高の喜びとしていた」と振り返った。学生時代の写真、初渡米の際に使った旅券(パスポート)も初公開された。渡航目的は「医療のため」と記され、「顔の左側にやけど」との説明書きがあり、来場者が見入っていた。
山岡さんは15歳の時、爆心地から約800メートルで被爆。顔や腕に大やけどを負い、55年5月から約1年半、ニューヨークでケロイドの治療を受けた。79年からは証言活動を始め、米国やフランスなど海外にも出向いて命と平和の尊さを訴え続けられた。
地面が焼き付くような暑さの広島、それでも平和資料館は夏休みでもあり、展示を見るのも人の隙間からやっと説明が読める位。外国人が多いのがうれしい。アメリカ人の若者が山岡さんとの交流から日本語を学びアジアの歴史を教えているとのビデオレターが紹介されたが、山岡さんの力を感じてジーンときました。
やっとの思いで大阪へ帰ると「朝日」の夕刊に「被爆者人形撤去に異論ー広島平和資料館 遺品展示重視へー」「一目で悲惨さ」存続要望の記事が目に入った。私が被爆者人形を見る最後の機会になるかもと思うと怒りが込み上げてくる。山岡さんが講演の間にソフアーに横になりながらそれでも皆さんの前ではシャキッとした姿勢で語られた姿を思い出す。地獄だった情景が理解しやすい展示と遺品と両方がこれからの若い世代に語りかけるのではないだろうか。それでも、当時の暑さ、臭いなど想像しにくいのだから。
原爆死没者慰霊碑の原爆死没者名簿に山岡ミチコさんの名前が今年納められました。午後3時頃、資料館から手を合わせました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/2f/fde195271b8fa5ea6385d5d12af5072a.jpg)
山岡ミチコさんへ
2月2日、山岡ミチコさんが亡くなったと那覇の民宿で知りました。
私は、沖縄にいて広島に駆けつけることができない。
いろいろ思い出されて涙が滲みました。12月にお見舞いしようと思っていたのに疲れていて、次の機会にしようと延ばしたのが悔やまれてなりません。昨年6月に訪ねた時、言葉に出して答えてはくれなかったけど、「大阪に帰ります」と声掛けすると ずっとずっと目で追って見送ってくださった。
かなり前、広島の妹と土谷総合病院にお見舞いした時も、お話はできなかったがすべて聞いておられて「山岡さん証言また頑張ろうよ」と言うと、はっきり「うん」と答えてくださったことが脳裏に焼き付いています。
私のいた大阪のS高校には2回講演をお願いしました。
広島になぜ原爆が落とされたのかという歴史的背景をふまえて、ご自身の体験を語る貴重な証言者でした。
「判断力を持って生きなさい」と高校生に語りかけて話を終える山岡さん!近くの中学校で講演された時も、私の学校で講演された時も私の家に泊まっていただく「民泊」でした。
グアムの高校講演には「母さんの声」の英語版を私の学校の生徒が吹き込んで持っていってくださったので音楽部の生徒も教師も一生懸命でした。
また、出張で広島に出かけた時は、半日に36ケ所も案内してくださった。本当のヒロシマを伝えようと・・・。
個人的にも何度も一緒に歩いてくださった。
山岡さんの紹介で「放影研」もたった1人だけで職員さんが案内してくれました。
そして、ご自宅に泊めていただいた。
声を出すことが大事と2人でカラオケを家でしたことも!
2006年8月6日に脳梗塞で倒れたと新聞に報道されましたが忘れられない日になりました。
その8月6日の夜、私は山岡さんから電話をいただいたのです。
私は、入院していて7日に退院予定でした。
「今日は、被爆の碑めぐり、無事に済ましたよ」と山岡さん。
「よかったですね。私は明日退院です」と話し合ったのに!
その後倒れるなんて、ビックリしました。
沖縄にご一緒する約束でしたね。
IDEAの「人類の声賞」をモロカイ島のハンセン病回復者の方と一緒に受賞した山岡さん。
一緒にモロカイ島にも行こうと言われてました。
被爆者もハンセン病回復者もいっしょとの判断でした。
一時回復して修学旅行の小学生にお話ししてくださったのは大阪の友人の学校でした。
山岡さんが制作された黄色のワンピースが形見になりました。8月6日にはこれからも身につけ続けます。
山岡さんありがとうございました。もっともっとお話し聞きたかったです。
。
元気であれば「原爆・原発・沖縄・在日・ハンセン病問題は根っこがいっしょだよ」ときっと言われるでしょう!
会場には親交のあった約90人(新聞報道)が集まり、遺族や友人7人が思い出をスピーチ。進徳高等女学校(現進徳女子高)の同級生で、共に証言活動をしてきた寺前妙子さんは「活発に証言する姿に励まされてきた。これからも頑張るから、見守っていて」と話された。 山岡さんの証言を盛り込んだ映画を制作した米国人監督のスティーブン・オカザキさん(61)=米カリフォルニア州=は「子どもに体験を伝えることを最高の喜びとしていた」と振り返った。学生時代の写真、初渡米の際に使った旅券(パスポート)も初公開された。渡航目的は「医療のため」と記され、「顔の左側にやけど」との説明書きがあり、来場者が見入っていた。
山岡さんは15歳の時、爆心地から約800メートルで被爆。顔や腕に大やけどを負い、55年5月から約1年半、ニューヨークでケロイドの治療を受けた。79年からは証言活動を始め、米国やフランスなど海外にも出向いて命と平和の尊さを訴え続けられた。
地面が焼き付くような暑さの広島、それでも平和資料館は夏休みでもあり、展示を見るのも人の隙間からやっと説明が読める位。外国人が多いのがうれしい。アメリカ人の若者が山岡さんとの交流から日本語を学びアジアの歴史を教えているとのビデオレターが紹介されたが、山岡さんの力を感じてジーンときました。
やっとの思いで大阪へ帰ると「朝日」の夕刊に「被爆者人形撤去に異論ー広島平和資料館 遺品展示重視へー」「一目で悲惨さ」存続要望の記事が目に入った。私が被爆者人形を見る最後の機会になるかもと思うと怒りが込み上げてくる。山岡さんが講演の間にソフアーに横になりながらそれでも皆さんの前ではシャキッとした姿勢で語られた姿を思い出す。地獄だった情景が理解しやすい展示と遺品と両方がこれからの若い世代に語りかけるのではないだろうか。それでも、当時の暑さ、臭いなど想像しにくいのだから。
原爆死没者慰霊碑の原爆死没者名簿に山岡ミチコさんの名前が今年納められました。午後3時頃、資料館から手を合わせました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/2f/fde195271b8fa5ea6385d5d12af5072a.jpg)
山岡ミチコさんへ
2月2日、山岡ミチコさんが亡くなったと那覇の民宿で知りました。
私は、沖縄にいて広島に駆けつけることができない。
いろいろ思い出されて涙が滲みました。12月にお見舞いしようと思っていたのに疲れていて、次の機会にしようと延ばしたのが悔やまれてなりません。昨年6月に訪ねた時、言葉に出して答えてはくれなかったけど、「大阪に帰ります」と声掛けすると ずっとずっと目で追って見送ってくださった。
かなり前、広島の妹と土谷総合病院にお見舞いした時も、お話はできなかったがすべて聞いておられて「山岡さん証言また頑張ろうよ」と言うと、はっきり「うん」と答えてくださったことが脳裏に焼き付いています。
私のいた大阪のS高校には2回講演をお願いしました。
広島になぜ原爆が落とされたのかという歴史的背景をふまえて、ご自身の体験を語る貴重な証言者でした。
「判断力を持って生きなさい」と高校生に語りかけて話を終える山岡さん!近くの中学校で講演された時も、私の学校で講演された時も私の家に泊まっていただく「民泊」でした。
グアムの高校講演には「母さんの声」の英語版を私の学校の生徒が吹き込んで持っていってくださったので音楽部の生徒も教師も一生懸命でした。
また、出張で広島に出かけた時は、半日に36ケ所も案内してくださった。本当のヒロシマを伝えようと・・・。
個人的にも何度も一緒に歩いてくださった。
山岡さんの紹介で「放影研」もたった1人だけで職員さんが案内してくれました。
そして、ご自宅に泊めていただいた。
声を出すことが大事と2人でカラオケを家でしたことも!
2006年8月6日に脳梗塞で倒れたと新聞に報道されましたが忘れられない日になりました。
その8月6日の夜、私は山岡さんから電話をいただいたのです。
私は、入院していて7日に退院予定でした。
「今日は、被爆の碑めぐり、無事に済ましたよ」と山岡さん。
「よかったですね。私は明日退院です」と話し合ったのに!
その後倒れるなんて、ビックリしました。
沖縄にご一緒する約束でしたね。
IDEAの「人類の声賞」をモロカイ島のハンセン病回復者の方と一緒に受賞した山岡さん。
一緒にモロカイ島にも行こうと言われてました。
被爆者もハンセン病回復者もいっしょとの判断でした。
一時回復して修学旅行の小学生にお話ししてくださったのは大阪の友人の学校でした。
山岡さんが制作された黄色のワンピースが形見になりました。8月6日にはこれからも身につけ続けます。
山岡さんありがとうございました。もっともっとお話し聞きたかったです。
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元気であれば「原爆・原発・沖縄・在日・ハンセン病問題は根っこがいっしょだよ」ときっと言われるでしょう!