在日コリアン・ハンセン病問題・沖縄―平和・人権―

自分の足で訪ねた関連の地紹介
知ることは力、学んでこそ生きる。

8月10日山岡ミチコさんを偲ぶ会に参加しました

2013年08月11日 10時50分01秒 | Weblog
広島で被爆後、ケロイドの治療を受けるため、1955年に渡米した25人の女性被爆者の一人で、2月に82歳で亡くなった山岡ミチコさんをしのぶ会が10日、広島市中区の原爆資料館東館であった。国内外で証言活動に尽くした山岡さんの生き方を振り返り猛暑のなかで平和への誓いを新たにした1日でした。
会場には親交のあった約90人(新聞報道)が集まり、遺族や友人7人が思い出をスピーチ。進徳高等女学校(現進徳女子高)の同級生で、共に証言活動をしてきた寺前妙子さんは「活発に証言する姿に励まされてきた。これからも頑張るから、見守っていて」と話された。 山岡さんの証言を盛り込んだ映画を制作した米国人監督のスティーブン・オカザキさん(61)=米カリフォルニア州=は「子どもに体験を伝えることを最高の喜びとしていた」と振り返った。学生時代の写真、初渡米の際に使った旅券(パスポート)も初公開された。渡航目的は「医療のため」と記され、「顔の左側にやけど」との説明書きがあり、来場者が見入っていた。
 山岡さんは15歳の時、爆心地から約800メートルで被爆。顔や腕に大やけどを負い、55年5月から約1年半、ニューヨークでケロイドの治療を受けた。79年からは証言活動を始め、米国やフランスなど海外にも出向いて命と平和の尊さを訴え続けられた。
地面が焼き付くような暑さの広島、それでも平和資料館は夏休みでもあり、展示を見るのも人の隙間からやっと説明が読める位。外国人が多いのがうれしい。アメリカ人の若者が山岡さんとの交流から日本語を学びアジアの歴史を教えているとのビデオレターが紹介されたが、山岡さんの力を感じてジーンときました。
やっとの思いで大阪へ帰ると「朝日」の夕刊に「被爆者人形撤去に異論ー広島平和資料館 遺品展示重視へー」「一目で悲惨さ」存続要望の記事が目に入った。私が被爆者人形を見る最後の機会になるかもと思うと怒りが込み上げてくる。山岡さんが講演の間にソフアーに横になりながらそれでも皆さんの前ではシャキッとした姿勢で語られた姿を思い出す。地獄だった情景が理解しやすい展示と遺品と両方がこれからの若い世代に語りかけるのではないだろうか。それでも、当時の暑さ、臭いなど想像しにくいのだから。

原爆死没者慰霊碑の原爆死没者名簿に山岡ミチコさんの名前が今年納められました。午後3時頃、資料館から手を合わせました。



山岡ミチコさんへ

2月2日、山岡ミチコさんが亡くなったと那覇の民宿で知りました。
私は、沖縄にいて広島に駆けつけることができない。
いろいろ思い出されて涙が滲みました。12月にお見舞いしようと思っていたのに疲れていて、次の機会にしようと延ばしたのが悔やまれてなりません。昨年6月に訪ねた時、言葉に出して答えてはくれなかったけど、「大阪に帰ります」と声掛けすると ずっとずっと目で追って見送ってくださった。
 かなり前、広島の妹と土谷総合病院にお見舞いした時も、お話はできなかったがすべて聞いておられて「山岡さん証言また頑張ろうよ」と言うと、はっきり「うん」と答えてくださったことが脳裏に焼き付いています。
 私のいた大阪のS高校には2回講演をお願いしました。
広島になぜ原爆が落とされたのかという歴史的背景をふまえて、ご自身の体験を語る貴重な証言者でした。
「判断力を持って生きなさい」と高校生に語りかけて話を終える山岡さん!近くの中学校で講演された時も、私の学校で講演された時も私の家に泊まっていただく「民泊」でした。
グアムの高校講演には「母さんの声」の英語版を私の学校の生徒が吹き込んで持っていってくださったので音楽部の生徒も教師も一生懸命でした。

また、出張で広島に出かけた時は、半日に36ケ所も案内してくださった。本当のヒロシマを伝えようと・・・。
 個人的にも何度も一緒に歩いてくださった。
山岡さんの紹介で「放影研」もたった1人だけで職員さんが案内してくれました。
 そして、ご自宅に泊めていただいた。
声を出すことが大事と2人でカラオケを家でしたことも!

 2006年8月6日に脳梗塞で倒れたと新聞に報道されましたが忘れられない日になりました。
その8月6日の夜、私は山岡さんから電話をいただいたのです。
私は、入院していて7日に退院予定でした。
「今日は、被爆の碑めぐり、無事に済ましたよ」と山岡さん。
「よかったですね。私は明日退院です」と話し合ったのに!
その後倒れるなんて、ビックリしました。

沖縄にご一緒する約束でしたね。
IDEAの「人類の声賞」をモロカイ島のハンセン病回復者の方と一緒に受賞した山岡さん。
一緒にモロカイ島にも行こうと言われてました。
被爆者もハンセン病回復者もいっしょとの判断でした。

一時回復して修学旅行の小学生にお話ししてくださったのは大阪の友人の学校でした。
 山岡さんが制作された黄色のワンピースが形見になりました。8月6日にはこれからも身につけ続けます。
山岡さんありがとうございました。もっともっとお話し聞きたかったです。


元気であれば「原爆・原発・沖縄・在日・ハンセン病問題は根っこがいっしょだよ」ときっと言われるでしょう!

                 



8月9日長島愛生園、邑久光明園を訪ねました。

2013年08月09日 11時40分45秒 | Weblog
邑久光明園玄関前の写真を思わず紹介したくて撮りました。

光明園では、短時間でしたが外島保養院のお話を聞かせていただきました。本に記述されていないお話など興味深かったです。


愛生園では2人の方を訪ねました。
「蕗の芽会」(長島愛生園の俳句の会)の和公梵字さんから本田一杉が発刊した「鴫野」、それを引き継いでいる「雲海」のお話を伺った。
昭和30年代までは、外部から来られた方は礼拝堂の上の壇に座り、入所者は下に座って俳句会が催されたとお聞きした。「雲海」を今たった1人で続けている堺市在住の田宮美千代さんも壇上に座った方だが心苦しかったと言われる。「俳句救らい」と言う言葉が一般的だった時代であった。
愛生園

7月21日湯の峰温泉のフイールドワークに参加しました。

2013年08月04日 13時16分32秒 | Weblog
大阪天満の八軒屋から熊野まで「小栗街道」は続いている。熊野街道を小栗判官伝承によってそう呼んだが、小栗街道と熊野街道は完全に一致するものではないそうである。
蟻の熊野詣でと言われるように伊勢と違って、民衆をすべて受け入れた熊野詣で。小栗街道もいくつも枝道になっている。
説教節「小栗判官」は五説教に数えられ、各地に多くの伝承が残っているが、地域・地域の民衆の心によって内容が豊かに高められていったのだろうか?それが文化!
小栗が入って蘇えった湯の峰温泉の“つぼ湯”
ハンセン病者が湯治のために逗留した地だから生まれた伝承のように思う。

温泉街風景
川の水は手をいれると60度はあるように思われた。

私が活動する和泉市には小栗街道沿いに「明坂」(小栗を乗せた土車を人目の少ない夜間に引いて夜が明けた場所)、小栗が休憩した「笠かけの松」、和泉まで来てないはずの照手が腰かけて休んだ「照手姫腰掛石」など身近(私の日常生活の場)に残っている。病者が泊まった「取石(とろす)の宿」の話もある。
和泉にあった「小栗座」で地元の説教師・逵田良善(1890~1963)が「小栗判官」も語っていたのは味わい深い。漂泊の説教師『逵田良善日記』の資料的価値は大きいとされている。
伝承がなぜ、生まれたかを考えていく興味深いフイールドワークになりました。
そして、ハンセン病者、障害者が熊野詣でにかけた願いをかみしめたい。
伝承は史実ではないが、どんな歴史的背景だったのか、近代の様子はどうだったのだろうか?


第30回「筑豊」から日本人と在日韓国・朝鮮人の歴史を訪ねる会に参加(6月2日・その2)

2013年08月02日 21時49分21秒 | Weblog
直方いこいの村で昼食後、午後の部で最初に向かったのは、鞍手郡小竹町御徳415-13「兵士・庶民の戦争資料館」である。元館長の時にも訪ねて今度は3度目の訪問であった。

館長の武富智子さんと強制連行を考える会代表の話を聞くと元気をいただく。生き抜くってどういうことなのかを感じさせてくれました。
ちょうど「遠藤元中将企画展」中であった。智子さんの夫で元館長の登巳男さんが派遣されたインドネシアで上官だったのが遠藤さん(山形県出身で戦時中は軍需省航空兵器総局長官)は戦後は戦争の罪悪を訴えた。2913年5月13日「朝日」では、「護憲と不戦の思想 今こそ」のタイトルで企画展を紹介している。本当の戦争を知る軍人がたどりついたのが不戦。87歳の館長さんが息子さんのサポートで頑張っている信念はすごい。
軍人も人もいつかは消えてしまう。戦争を後に語るのは物である。兵士が命にかえて残した遺品、遺書など実物資料には戦時下の人間の苦しみが深くこもっているというのが資料館設立の趣旨とのこと。
子どもたちにきっと語りかけてくれるだろう。


資料によると
展示構成の概要は
1.兵士のなりたち:現役また召集で兵士となる。徴兵や召集の赤紙、従軍、戦闘、戦死、靖国神社、それらにまつわる書類。
2.装備:どのようなもので、どう戦ったか。三八式歩兵銃、三十年式銃剣をはじめ、鉄帽、略帽、軍服、軍靴、被甲、軍隊手帳、巻脚絆、雑のう、食器、作戦使用地図など。
3.旧日本軍の本質に迫る極秘書類:『ババル島事件関係綴、第五師団参謀部』。島民500名余を虐殺し、書類改竄し戦犯を逃れる。(防衛庁にない書類)
4.その他:多くのエピソード、千人針、皇后下賜義眼、恩賜煙草、神風鉢巻、陣中作文集、写真、慰問文、慰問袋、日の丸抜きの寄書、兵士用藁布団、満期盃、強制連行収容所百分の一模型、朝鮮人、中国人、捕虜各収容所設計図  集。回覧板、軍事郵便、伝単など。 機関画像


資料館を後にして向かったのが鞍手郡小竹町の「古川目尾炭鉱」跡地のフイールドワークである。
納骨堂「松岩菩提」へは、何度も足を運んでいるが本社跡、選炭場、病院、朝鮮人寮跡などまわるのは初めてだった。



そして、その案内をしてくれる方がなんと18年の長いお付き合いの鄭守尚さん(92歳)である。何としても筑豊に出かけようと思ったのも鄭さんの話をお聞きしたかったからである。
1995年11月大阪府立堺上高校生200人に2回、延べ400人に強制連行の体験を話してくださったのは昨日のようである。
「松岩菩提」の前で初めて証言される鄭さんは緊張で足が震えているのが分かった。生徒たちに伝わったのです。NHK、新聞各社の取材の中でした。それからお宅にお邪魔してお昼を御馳走になったこともありました。お連れ合いさんとも親しくしていただきました。ちょっとの時間の隙間に外出できないお連れ合いにも逢わせていただきました。「今度はゆっくり遊びにおいで」と手を取り合って涙で分かれました。また行きます。人間は年を重ねると「時は命」です。元気な時に会いたいです。
筑豊に強制連行された堺市在住の安承録(92歳)さんとも考える会の皆さんのお蔭で何度か筑豊を訪問しました。同じ年齢のお2人を見ていると、鄭さんが松岩菩提を守リ続けて元気を得ていること、何より、地域に生かされている鄭さんに感動しました。周りの方々にとのかかわりを感じてしあわせな気分でした。
そして、大阪で一人暮らしをしている安さんの孤独さが身にしみました。

第30回「筑豊」から日本人と在日韓国・朝鮮人の歴史を訪ねる会に参加(6月2日・その1)

2013年08月02日 17時06分27秒 | Weblog
今年も大阪から参加することができました。
一年ぶりに懐かしい方々にお会いして故郷に帰ったような気持ちになる気分。
9時に穂波公民館を出発して最初は直方市中央公民館へ。高取焼きのお話をお聞きする。

昨日は、高取にルーツを持つ小鹿田焼、それから小石原の高取焼宗家をまわって来たから歴史をさかのぼってのフイールドワークである。
高取発祥の地「永満寺宅間窯」の焼物を公民館の展示で確認できた。

次は、福地ダム湖畔の高取焼内ケ磯窯記念碑へ。
対岸に大きな登り窯があったそうで案内板に書かれていた。
各地の陶工がここに結集した古高取の全盛期だったが碑しかないのは寂しい感じがしてならない
ましてや麻生太郎の名前が碑文に見えるのは複雑な感じである。



後に小堀遠州に師事して綺麗、寂びの世界を完成していく高取焼を考えると武骨でダイナミックな、今で言うと前衛風にも見える
古高取、古田織部の世界は武人の茶道をいろいろ考えさせられた。
高取焼・内ケ磯窯元の高取焼の歴史の説明には説得力があった。
でも、それ以後古田織部についての理解(クリスチャンだったとおっしゃる)、高取八山が朝鮮通信使の渡日した情報を得て帰国を申し出て山田に蟄居を命じられた経緯について、
「そんなことはない、厚い処遇を受けていたのだから」と言われたても納得が行かず、大阪に帰ってからもずっとこだわり続ける日々で感想が書けなかった。
古田織部について本をいろいろ読みあさった。私は、千利休が茶道を完成した堺に住む住民で古田織部はその一番の弟子。千利休の意志を受け継いで発展させた人。どうしても異論を唱えたい。文献からクリスチャン云々は見つからなかった。そして、どんな恵まれた処遇を受けていても、故郷から引離された高取八山が人間として帰国を願うのは当然ではないだろうか?
「故郷忘じがたく候」(沈壽官)ではないですか?今の韓国慶尚南道昌寧郡霊山面(キョンサンナムド・チャンニョングン・ヨンサンミョン)の八山(パルサン)という村の官用窯から連れて来られたと高取静山さんが書いているし、なぜ、八山と名乗ったのか、故郷を引離された者の故郷に対する思いは昔も今も何より深い。日本国内でも唱歌「ふるさと」が今、歌われ続けられる。強制連行で炭鉱に連れて来られた人たち!基地に故郷を奪われた沖縄の人たち!原発、地震で故郷に帰れなくなった人たち!故郷を追われて強制隔離されたハンセン病回復者の人たち!