在日コリアン・ハンセン病問題・沖縄―平和・人権―

自分の足で訪ねた関連の地紹介
知ることは力、学んでこそ生きる。

大阪市福島区の「朝日放送」ビル・・・:大阪大学医学部附属病院「皮膚科別館」跡地

2011年04月19日 20時09分01秒 | Weblog
 JR「福島駅」から阪神ホテル横の大きな道を5分くらい歩くと上天神南交差点に突き当る。この写真では黄色い車の後ろが「朝日放送」である。ここは、阪大病院の跡地であった。大阪府のパンフレット「ハンセン病問題を理解するために~ハンセン病回復者の被害と名誉の回復を目指して~」から引用よると大阪大学医学部附属病院には明治の末から皮華科(ひかか)(現在の皮膚科)の中にハンセン病の専門外来がありました。 昭和の初期、この専門外来は皮膚科とは別に新たに建物が建てられ、そこで診療が行われたため「皮膚科別館」と呼ばれていました。ここを通して療養所へ送られていった患者もたくさんいますが、なかには入所せず、在宅のまま治療を受けていた人もいました。 「らい予防法」による厳しい取り締まりのあったときでも、この外来治療は続けられていました。 戦後も大阪大学医学部附属病院ではハンセン病の外来治療が続けられ、療養所への入所をすすめたり、ハンセン病が治って療養所から退所し大阪近郊で生活する人びとの診療が続けられてきました。以上のように説明されている。
 

4月12日、明石海人の足跡を訪ねて・・・紀の川市打田、粉河

2011年04月16日 00時50分40秒 | Weblog
「よみがえる万葉歌人 明石海人」荒波力(新潮社)を読んでから打田の佐野病院のことが気になっていました。友人を誘って3人で出かけました。1927年から2年間明石海人が療養の為に住んだ地です。佐野病院の近くに部屋を借りて隔日に通ったと文中にあります。本の内容に従って、まず、今は無人のJR「打田駅」に着きました。そこで道を地元の商店の方にお聞きしてから、最初に東田中神社へ、それから道の反対側に出て森の中にあるというかつての佐野病院を目指す。病棟などはなくなっているが病院の診察室はそのまま残されていました。お住まいされているご夫妻からお話もお聞きし、佐野病院は110年前にできたが根来寺の宮大工の建てたという母屋もびくともしないそうです。古い建物を自力で維持されているのとハンセン病に対して差別心なく説明して下さったのには感動で温かいものが体の中を流れました。病院の前は旧大和街道、西国三十三番霊場を巡るハンセン病患者が行き来した道である。本の記述にそって歩いて行くと自然と明石海人が住んだ借家跡に出ることができた。静岡から妻が娘を連れて二度訪ねてきたそうである。次女が二度目の時には亡くなっていたという悲しいこともあったと・・・。打田を歩いていると明石海人がよみがえってきます。その後、荒川の桃源郷へ車を進め、あたり一面ピンクの風景に「来て良かった」と呟く。

昼食をとってから明石海人が買物に出かけた「粉河」に向かう。「粉河駅」に立つと「粉河寺」が真正面数百メートルの所に見えます。
  
明石海人が寄ったという本屋など「よみがえる万葉歌人 明石海人」を片手に確認しながらお寺に到着。桜満開だが平日で人は少ない。妻や幼い娘を連れて訪ねたという粉河寺は西国三番の大きな寺院。「粉河寺」という彼の随筆もあるらしい。牧水の歌碑「粉河寺遍路の衆のうち鳴らす鉦々きこゆ秋の樹の間に」がある。海人が親子で眺めた出現池も、趣が感じられた。ゆっくり散策して桜も眺め、次は明石の楽生病院跡を訪ねたいと思いながら途中で根来寺によってから帰阪した一日です。過去に訪ねた海人の出身沼津商業高校の歌碑、千本浜公園の歌碑、お墓もお参りしたことが思い出されてくる。

赤坂台3丁の桜の古木:満開になりました。

2011年04月09日 18時52分22秒 | Weblog
 樹齢70年を超える桜の古木が立ち並ぶ赤坂台医療センターの上付近。今見事に満開となり、カメラを向けたり、ゆっくり眺めながら散策する人がいます。ここに、結核療養所があったことは知られているが大正末期に大阪にあったハンセン病療養所「外島保養院」の移転問題が持ち上がり苛烈な反対運動の結果立ち消えになったことを知る人は少ないのではないだろうか?当時結核の方が死亡率も高かったが、死亡率の低いハンセン病療養所は受け入れられなかったのだ。それが差別ということであろう。
  

これは結核療養所時代の名残の土管の一部