在日コリアン・ハンセン病問題・沖縄―平和・人権―

自分の足で訪ねた関連の地紹介
知ることは力、学んでこそ生きる。

松下竜一「檜のやまのうたびとー歌人伊藤保の世界」を紹介されて読む

2012年06月21日 20時48分14秒 | Weblog
北九州の岡添さんから「檜のやまのうたびと」(1974・筑摩書房)を紹介されるまで全く知らなかった。
伊藤保(1913~1963・大分生まれ)の歌集は、「ハンセン病文学全集」にも収録されている菊池楓風園の人であった。ハンセン病発症で療養所に入るが生涯結核に苦しんだ人である。
1937年生まれの松下竜一さんが亡くなって8年になる今年だ。彼は、「定本・伊藤保歌集」を歌友花野秀子さんから発行(1964年11月16日発行)間もなく貰ったが、30歳前の自分にいきなり衝撃を打ち付けてきたと書いている。伊藤保の生きた軌跡を求めて1972年、35歳の時に歌集と大学ノートを持って菊池楓風園に初めて出向いて行ったのである。彼の生きた世界を知り、彼の生き方を知ろうとしての作家的探究であると。
その本の中にかかれていることが正にその通りと最近思ったことがらに出くわした。
6月10日(日)大阪府保険医協会の記念企画でペシャワール会・中村哲医師の講演会が中之島中央公民館であった。初めて私も聞きに行った。福岡の知人にはべシャワール会に入って活動している人も身近にいます。
会場は1階は満席、2階も多くの人で下の参加者が小さく見える感じだった。中村哲さんの話の中で「らい」を「ハンセン病」とジャーナリズムなどが言いかえているが、病名の呼び方がかわっても実態が変わらなければいけないだろうと言う趣旨の話を出された。
ちょうど、私は松下竜一の「檜のやまのうたび」中のその話に該当するページを読んでいた。「昭和30年、歌誌『高嶺』で主催者二宮冬鳥が新呼称(※当時はハンセン氏病)にやや批判的に触れている・・・。「らい」を学名として冷静に受けとめる(二宮)医師にはこの論が成り立つであろうが、しかし、世間の大衆にとって「らい」が学名ではなく、盲目的なほど偏見と恐怖のしみついた暗い符牒なのである。「らい」は病気以上のものなのである。プロミン以後、ライを他の万病とひとしなみ(ママ)に、ただの病気のひとつとして世間に認識変更を迫ろうとする機運の中で「らい」と言う呼称を払拭していくことは当然であり、むしろ必要であったはずだ。・・ともあれ「ハンセン氏病」の呼称は、患者の側から始まり、一般ジャーナリズムにまで拡がっていったのである・・・・」と・・・。(註:本のなかでは「らい」は漢字表記)
特効薬プロミンにより完治退院も可能になったという科学的知識を踏まえて、ライ予防法改正運動も起こったのであるし、それは不治の時代の偏見のつきまとった〈癩〉の呼称を捨て去り菌の発見者にちなむ〈ハンセン氏病〉と呼ぼうとする運動を当然派生さたのである」とも書いている。当事者の立場から昨年「ドクターサーブ」問題が提起されてきた。それは何故なのか?当事者の側の人々が心の底から人権回復を訴えてきたから今ではハンセン病と一般に呼ぶようになったのである。当事者の立場にたって歴史を考えていけば大きい間違いはおかさないで済むのではないだろうか?

6月12日:映画「道ー白磁の人」は本当によかった!!

2012年06月21日 15時13分22秒 | Weblog
映画が全国ロードショーとなるのを待っていました。
今から100年前の韓国、独立運動や独立宣言文を読み上げるシーンもあり、本とは違う印象、涙がでます。映画上映後拍手が聞こえたのでびっくり・・・。韓国スタッフが多いのもいいです。

2011年10月10日、韓国・ソウル近郊にある浅川巧のお墓をお参りしました。韓国の山と芸術を愛し、韓国の人々の心に生きた人です。書物「白磁の人」、「朝鮮の土となった日本人」(高崎宗司)に詳しいです。生誕120年にあたり、日本では、「浅川巧生誕120年記念 浅川伯教・巧兄弟の心と眼―朝鮮時代の美」展が各地を回っていました。ソウルから地下鉄で清涼里に行きそこから201,720のバスに乗り東部第一病院で下車、忘憂里墓地までタクシーで行く。山を登り浅川巧のお墓に着きました。連れ合いは、思わず朝鮮式におじぎをしました。

そのすぐ後、25日の夜行バスで山梨県甲府駅へ向かった。「浅川伯教・巧兄弟資料館」に行くためであった。甲府からJRで長坂駅へ、タクシーで高根町生涯学習センターに到着。その中に資料館があるが非常に充実しているように思えた。伯教に学んだ韓国の人間国宝池順鐸の白磁・青磁の作品、同じく人間国宝柳海剛の青磁の作品も寄贈され展示しているので見ることができる。韓国利川に訪ねたことがあったのでなんとなく懐かしい感じがしたが失礼な感情かもしれない。
映画撮影も行なわれ、来年は全国ロードショーと聞いた。9時半の開館までに1時間以上あるので、兄弟の生家跡、浅川家の墓所、兄弟を育てた祖父小尾四友の句碑などフイールドワークをする。朝から3キロ位は歩く。生家跡近くの道端にはりんごの実が大きくなっていた。
高根町から見える北アルプス、八ケ岳の麓に広がる地域である。富士山も見える。感慨深い地である。高根町五反田の公園は生家跡に近く「生家跡の碑」が建っているし、 空き地になっている生家跡には大きな杉の古木が今もあり、石垣など少し名残りを残している。

資料館の出している「韓国の民芸を愛し、交流の架け橋となった北杜市のきょうだい『浅川伯教と巧』」には「朝鮮古陶器の神様 兄・伯教」として「朝鮮人像「木履の人」が帝展に入選した時、伯教は新聞記者の取材に「朝鮮人と日本人との親善は、政治ではなく、芸術によって図っていかなければならないと語りました」と書かれている。「朝鮮の民芸を紹介 弟巧」として 「パジ・チョゴリの朝鮮服を着、朝鮮の人々と交わり、朝鮮の言葉を話し、朝鮮の工芸品を使って暮らした巧は、朝鮮の人と暮らしを愛し、名著「朝鮮の膳」を著しました。」とある。
兄は1913年、7歳違いの弟は1914年韓国に23歳で渡ったが韓国併合直後であった。巧は40歳で亡くなり勤めていた林業試験場で告別式は行なわれ、友人知人によって朝鮮の土になったのである。ソウル在住の故金成鎮さんが兄伯教から解放後譲りうけて守りぬいた貴重な巧の日記が「浅川伯教・巧兄弟資料館」に寄贈されている。
資料館見学後知人の車で八ケ岳麓の清里高原を案内して頂き、美味しいおそばをご馳走になった。富士山も高原から眺めることができ、雄大な景色に気分は爽やか、感謝の気持ちでいっぱいになりながら、甲府から新宿行きの特急に乗って山梨を後にした。

6月2日~4日広島・小倉・筑豊の旅(その2:筑豊編)

2012年06月20日 16時25分28秒 | Weblog

6月3日の早朝、北九州から東録さん(福岡で在日二世として学校公演を続けておられる)の車に乗せていただいて飯塚市穂波公民館へ急いだ。17年前から毎年(1年だけお休み)6月の第1日曜日は筑豊に出かけている。自分の個人的事情が許す限り続けたいと思う旅である。1995年の筑豊修学旅行でお世話になった方々の写真を見ながら、この17年という年月をかみしめている。何人かの方があの世に旅立たれお会いすることができない。本当に「千の風になって」と言うなら大阪の空をも吹き渡ってください・・・。
第29回「筑豊」から日本人と在日韓国・朝鮮人の歴史を訪ねる会」に大阪から参加したが29回目ってひと口でいうけどね、赤ちゃんなら30歳近いんだから・・・・。

今年は、碓井琴平文化館(嘉麻市)が最初の目的地、平和祈念館、郷土館、織田廣喜美術館が人口6000人の町にあるのはすごい。同記念館は、戦争資料を中心に展示した筑豊で唯一の公的施設。旧碓井町長松岡俊雄が町長時代に発案し、1996年に開館している。設立趣旨で「戦争の歴史を未来への証としてたじろがず語り継いでいきます」とうたっているとか。平和祈念館では庶民の立場から展示がされているので貴重と思う。郷土館では福岡と朝鮮半島とのつながりから学芸員の方が説明してくれたのが楽しく聞けた。「だから福岡は面白い!」といつも思うのである。美術館では山本作兵衛さんの原画128点所蔵中、50点展示され、これも説明を聞くとよかった。思い入れがある。
世界遺産に登録された田川石炭資料館より、作品が多いとのである。
大阪では、「リバテイおおさか」「ピースおおさか」など存続を打ち切ろうとする動きがある。小さな町でこのような文化施設を持っているのは誇りだ。大阪に住むものとして恥ずかしい。「大阪の人は何とかしなさいよ」と沖縄でも福岡でも言われる。政令指定都市堺市には、美術館もない。
ところで今年の訪ねる会のメインは飯塚市にあった「官営日鉄鉱業二瀬炭鉱」の跡を歩くことだった。資料「二瀬炭鉱位置図」(当時の)から現在の跡地を確定してそこに足を運んで考えるという1日だった。今回の参加者には近くの方が多く、家族や親族に炭鉱関係者がおられると自己紹介でお聞きすると温かい雰囲気になる。かつての炭鉱跡に立って考えてみることは、近代化の歴史の学び直しになる。
 
官営八幡製鉄は筑豊に二瀬炭鉱をもち中央坑・高雄坑・潤野坑で採掘した石炭が八幡製鉄に運ばれた。連行された朝鮮人は三坑あわせて「特高の連行朝鮮人資料」によると2555人(逃走者数1076人、死亡5人、発見再就労195人、不良送還者数25人)「朝日1993・11・4)とのことである。国策に対応した鉄鋼増産のために石炭がどんどん採掘され、朝鮮人、中国人が動員されていく。
中央坑の跡地は、イオンのショッピングタウン、駐車場(飯塚市枝国)になっていて、職員・所長・幹部社宅があった道路沿いに碑が立っている。正門が移築され高い煙突の写真もはめ込まれている。これだけが炭鉱のあった証というのか? かつて300m以上の竪坑があった付近にイオンの食料品売り場入口があると説明を聞いた。1993年11月2日「朝日」では捕虜の元オランダ兵ら4人が中央坑と元収容所跡を訪れたと報じている。中央坑から少し北に上がった場所にある体育館で昼食・休憩を取ったがその手前の右側に道に沿ってあったそうだ。資料中の飯塚市史の中に「日鉄二瀬六十年史」の引用で昭和19年までに800名余りの中国人が就労とある。捕虜には昭和18年にはインドネシア、豪州人400人、昭和19年には米国人400人が収容され軍人が管理していたという。
 飯塚市相田の高雄団地は日鉄二瀬高雄坑の跡地にある。一九六九年の造成工事の際、多くの遺骨が出た。そのため工事に従事した人々が、旅人墓「倶会一処」を建てた。倶会一処の墓石の裏には「共立鉱業栗原利男、明星菊一建立」とある。基壇のうしろには納骨庫がある。そこには骨壷や骨が破砕されたまま散らばっている。朝鮮人のものも含まれているだろう。この「倶会一処」の墓は石松工業横の跡地を入ったところの小墓地にある。以前にも訪ねていたが、誰の遺骨か判別しようがない状況は私たちに強く呼びかけてくる。
潤野坑本部事務所跡は現在飯塚市立若菜小学校になっている。坑口やエンドレスのあった場所を現在の場所に炭鉱位置図を重ねた地図で説明してもらった。説明を聞くと炭鉱を思い起こすような地図の街と言える。
そして小正の了専寺に到着。住職細川義朋さんのお話を本堂でお聞きした。潤野坑と契約し、外国人の葬儀もしたお寺であり、先代住職は1週間に一回ほど葬儀があったと話されていたとのこと。現住職は「仏教が戦争に加担した」歴史を話された。嘉穂高校前墓地が開発される県道工事(30年前)で日本人、外国人の区別なく身元不明の62体の遺骨が出たが「潤野大日寺線(嘉穂高校前墓地)無縁仏諸霊」と記した木箱に収めてまつっていると話された。
木箱の無縁仏を預かった以上は、このままずっと供養して、“遺骨のメッセージ”を後世に伝えていきたいと・・・。
いいお話を聞くと聞く方に元気が伝わってくる。
その後、「無窮花堂」へ、2008年6月に亡くなられた来善さんが大阪にいると亡くなった実感がない。今でも車を飛ばして現れそうに思えてならない。戦後50年の節目に、彼が「筑豊に眠る無縁仏を集めて供養する納骨堂を生涯の課題として成しとげたい」と宣言されたと考える会の占部さんから電話でお聞きしたことも忘れない。大阪の地で瓦の1枚でもと知人に一生懸命呼びかけてから10年以上、2002年には17枚のレリーフをはめ込んだ歴史回廊が完成、2011年にはハングルの碑文も出来上がったそうである。韓国に遺骨の主を探しに行かれた話もご本人からお聞きしたし、いろいろお世話になったことが次々思い出されます。
今回、阪神の地震の直後に脳梗塞で倒れた友人が右半身不自由になり、筆を左手に持ち替えて釘彫りした小さな陶板「無窮花」を納骨堂にささげた。焼いたのは連れ合いである。116体の遺骨が発するメッセージを聞くために沢山の方が訪ねてくれるように願いながら帰路についた。細かく今の地図にかつての炭鉱を思い描きながら下見されたことに感謝したいと思う。訪ねる会で感じたことを新たな出発点として自分の歩みを始めていきたい。
4日は考える会代表の大野節子さん宅を訪ねてゆっくりお話を聞いた。前日のフイールドワークの感想も話題になった。官営炭鉱の引き際のよさ、何も炭鉱の面影を残さない見事さ!国策で石炭採掘が大規模に行われたのに!!
今筑豊に残るのは主に中小の遺構だろうか?大阪に帰ってから、日鉄二瀬炭鉱がどうしても気になった。「戦時外国人強制連行関係資料集 朝鮮人1上下」(林えいだい)に関連する資料が掲載されていると分かり幸いにも貸出ししてくれる図書館を見つけたので、借りて目を通した。また、ハンセン病関係の資料を読んでいたら「救援米のこと」(上野英信)が書かれていた。麻生の朝鮮人労働者の争議を支援した九州嘉穂の花山清さんが今は廃墟になった日鉄二瀬中央坑のかたほとりに住んでいたというのである。点が線となってつながるように感じられた。
最後に、今回のフイールドワークの感想用紙に大野節子さんの舞姫「崔承喜(チェ スンヒ)」(絵)がそっとのっていたのに気づいた方がどのくらいおられるだろうか?2010年、生誕100年に描かれたものである。新聞に載った白黒写真から想像して描かれたもので植民地政策に怒りを表現する肩の線、首筋! 原画を見せて頂いたがやはり実物の方が伝わる。大野さんが中国東北部瀋陽にいた女学生時代にあこがれた崔承喜(チェ スンヒ)!




6月2日~4日「広島・北九州・筑豊」の旅(その1:広島・北九州編)

2012年06月19日 21時16分38秒 | Weblog
6月2日、新幹線で広島へ、大阪に何度も被爆体験の証言に足を運んでくださった山岡ミチコさんを訪ねるためだった。広島市内の被爆遺跡を何度案内して貰ったか分からない。1泊2日で36ケ所も歩いて案内してくれたことが忘れられない。放射能影響研究所(旧ABCC)も山岡さんの紹介で予約もないのに職員さんがたった1人の私の為に案内して下さった。福島の問題を考える度に思い出している。感謝!今、山岡さんは話は聞いてくれるけど、そして話しかけようとしてくれるけど言葉がでない。2006年の8月6日に「広島の碑めぐりなど無事に終わったよ」と電話を貰ってその翌日に倒れられた。大阪の友人の小学生が最後の証言を聞いたことになると思う。一緒に沖縄に行こうと約束していたのにごめんなさい。実現してないのです。

軍都広島の歴史を語り、原爆を落とさせた国についてきちんと話してくれた。
講演では、高校生に「歴史を知り、判断力を持って生きなさいよ」といつも結ばれた。

「また、来ます。ありがとう」と声掛けして部屋を出ようとするとずっと目で追って見送ってくれました。涙が滲みました。

その後、広島城堀ばたにある図書館に行くと5月末に亡くなった新藤兼人監督の写真・書籍など展示されていた。、
8月6日、広島城付近も焼け野原になった。「野砲兵第五聯隊」があった場所であり、戦後バラックや戦災孤児の為の養護施設があったが現在は、基町小学校、高層の市営住宅が立ち並んでいる。
堀端に面していた養護施設も移転し広い散歩道になっていた。    

16時には博多行き「こだま号」に乗り、小倉までゆっくりの旅、小倉に着くと在来線でスペースワールド駅下車、夕方なので遊ぶ人はいないが、ゴーゴーと遊具の唸る音、その夜泊めて頂く岡添さんに電話したが電話の声が聞き取れない。やっと分かって八幡東区のお宅にタクシーで向かう。その夜は、ビールを飲み飲みおしゃべりは続いた。岡添貞子さんとは先日のハンセン病市民学会(青森)のレセプションで再会したばかりだった。
松下竜一さんからきっかけを得てハンセン病問題に関わってこられた人である。菊池楓風園との交流の深い人である。「檜の山のうたびと」(松下竜一・1974)を紹介していただき、大阪に帰ってすぐにネットで探して買った。
民衆史の立場から見ると当事者性に狂いがない。菊池事件(今はこういう)のこと、ハンセン病問題への視点にはなるほどとうなずく思いであった。「豆腐屋の四季」も買って読み始めている。
私たちが宿泊するので大掃除をされたという。申し訳ない。感謝の一言!!

5月19日(土)「高野山とハンセン病問題」フイールドワーク

2012年06月18日 12時08分57秒 | Weblog
ハンセン病回復者支援サポーターズ「虹の会おおさか」の高野山フイールドワークがありました。
案内は社団法人和歌山人権研究所の矢野治世美さん。テーマに関心が強かったのか、世界遺産である「高野山」とハンセン病のフイールドワークに20人以上の参加がありました。
高野山駅に11時集合し、バスで移動。一之橋近くの「禿法師(とくほうし)」(ハンセン病者)墓石群、阿弥陀堂、

重い刑に処せられた人が石子詰めにされた「蛇柳供養塔」前を通って中の橋へ、
さらに進むと参道左手に「高麗陣敵味方戦死者供養碑」が建っています。文禄・慶長の役で、戦死や病死した人々を供養するために、慶長4年(1599)、島津義弘とその息子忠恒によって建てられた供養碑です。この供養碑の特徴は、味方の軍兵だけではなく、李氏朝鮮・明国など、敵方の戦死者供養をも行なっていることにあります。
供養碑に記されている内容は次の通りです。

    慶長二年八月十五日於全羅(道)南原表大明国軍兵数千騎被
    討捕之内至當手前四百廿人伐果畢
    同十月朔日於慶尚(道)泗川表大明人八萬餘兵撃亡畢
     為高麗國在陣之間敵味方閧死軍兵皆令入佛道也

    右於度々戦場味方士卒當弓箭刀仗被討者三千餘人海陸之間
    横死病死之輩具難記矣 薩州島津兵庫頭藤原朝臣義弘 
    慶長第四己亥歳六月上澣 同子息少将 忠恒  建之 


奥ノ院から近い場所に「愛生園・光明園大師講慰霊碑」があるのも訪ねて、線香をそれぞれ供えて手を合わした。
当日資料にある1965年9月8日「朝日」によると「・・愛生園に収容されているハンセン氏病の全快者89人が高島重孝園長に引率されて10日高野山に集団参拝する・・・」とある。集団外出は初めて、高野山金堂でハンセン病療養所物故者追悼法会。以後も団体参拝は、続いた。岡山の西大寺市宝琳寺住職向井雅章大僧正と高野山の好意により実現した」という。
その後、昼食会場で精進料理をおいしく頂き、午後は、壇上伽藍(金堂・根本中堂・鎮守明神など)に移動した。また、当日資料の「大阪朝日」(1937年3月26日)によると、「大塔落慶法要を目ざし 大阪からレプラ群 大慌てゞ防止策に苦心」との記事がある。「・・・大阪府住吉管内に屯している浮浪患者十九世帯約六十名が大挙押しかけ物乞ひする車などを用意し準備中であると大阪府からの報に県衛生課はスワ大変と二十五日県下各署に管内への立ち入りを取り締まる一方、県内在住らい患者約百二十名(自宅療養)についても十分監視し“観光和歌山”を汚さないようにと通牒を発し・・・」とは、ちょうど、1937年2月の節分の日に「我孫子観音」で物乞いに集まった病者が検挙されるという事件直後のことである。大和川河川敷・その周辺で生活をしていた(故郷に住めず、やむなく)人たちだと推測できる。
高野参詣道(町石道・・大門付近、不動坂・・女人堂下の不動坂)添いの山中2ケ所に禿法師の居住地があったらしいが、1921年5月25日「大阪朝日」(和歌山版)には天幕を張って暮らしていた35名の患者を大阪府西成郡外島保養院に送ったとある。
1909年に第3区:2府10県連合立ハンセン病療養所「外島保養院」の収容の実態をする機会となった1日でした。大阪との関連に思わず案内の矢野さんの話に聞きいった。
西高野街道は堺の大小路が起点だが、どのくらいかけて高野山に移動したのだろうか?

さらに、奥ノ院近くの転軸山山麓に参詣道の患者を収容したと1931年4月24日「大阪朝日(和歌山版」にある。金剛寺より建物と敷地を寄付して52坪の敷地、間口6軒奥行割間の収容所を建築、先ず女4名、男14名を収容したとある。レプラ患者を発見次第同所へ一時収容するはず・・・との記事だ。
世界遺産となった高野山に外国人も多く訪れる時代である。隠れた民衆史を忘れてはいけないと思う。