在日コリアン・ハンセン病問題・沖縄―平和・人権―

自分の足で訪ねた関連の地紹介
知ることは力、学んでこそ生きる。

1年ぶりの沖縄(4)観光コースにない首里散策

2013年02月12日 17時23分50秒 | Weblog
現在の首里高校は、琉球王朝の王族の教育機関であったが松山御殿(沖縄県立博物館跡)に移る。その向かって左側に「耳チリ坊主」の説明版が立っている。北谷王子に耳を切られた黒金座主の話だが「悪さすると耳チリ坊主がでるよ」と民謡になっている。そこから、首里当蔵町の細い坂を下って行くと「安谷御殿(アダニウタキ)」があり、クバの木と石がある。高級女神官の所管であった。その下に「仲田御殿跡」(王族の屋敷跡)があるが玉那覇味噌・醤油の会社が琉球王朝末期に献上した製法を守り、製造を続けている。味噌・醤油を記念に求めて持ち帰った。美味しいし、高くない。

玉那覇醤油の横の道から歩いて下りると安谷川(アダニガー)に到る。雰囲気のある場所であり、歴史感あふれる古井戸は首里城から浦添城に至る宿道の水飲み場であった。
   
次に訪ねたのは儀保4丁目(ユイレール儀保駅近く)にある、宝口樋川(タカラグチ ヒージャー)1807年に住民が開いたそうだが、庶民の水汲み場であり、昭和初期の洗濯場の跡も残っている。水は今も湧き出している。横を流れる川には生活用水が流れて残念である。


ガイドブックでは行けない首里の裏を案内してくれる那覇の友人仲里正雄さん。ありがとう。

次に沖縄の嘉穂劇場と言われる首里劇場(首里大中町)へ。
1950年につくられた劇場で沖縄芝居や演説会も開かれたそうである。当時のまま現在も映画館として維持されている。
建物がどこか福岡県飯塚市の嘉穂劇場に似ているらしい。米軍の資材置き場を買って資材も利用して建設したとお聞きした。

さらに城北にあたる御茶御殿(迎賓館)跡を見て御殿山そばをと訪ねたが定休日だった、残念!

大嶺實清さんの元の窯跡と知りびっくり、読谷「やちむんの里」の窯、実家と縁がある屋我地島の「花季(はなごよみ)」を訪ねているのが線でつながる話であった。次回は手作りそばをぜひ味わいたい。


1年ぶりの沖縄(3)変わりつつある基地変換跡地・・・読谷村

2013年02月12日 17時22分10秒 | Weblog
平和の郷、自治の郷「読谷村」役場も1997年に新庁舎に移った時に居合わせてから16年「オスプレー配置反対」の横断幕が見える


新しくなった読谷中学校

役場付近の道路整備は進む
1年ぶりに訪ねると
一方通行ありで迷う
計画的に村つくり
ちょうど、読谷では生涯フエスタをやっていて偶然「沖縄県ハンセン病資料集」発行の委員長だった大城貞俊さんの講演も聞くことができました。
テーマは「沖縄文学へのいざない」でした。


1年ぶりの沖縄(2)金城幸子さんとゆんたく

2013年02月12日 16時43分58秒 | Weblog
1年ぶりにお会いした幸子さんは変わらないようでうれしい1日半のゆんたくで元気を貰う

筑紫哲也さんと岡部伊都子さんの写真が見守ってくれている

先日の筑紫哲也さんを報道した番組“明日への伝言~「残日録」をたどる旅”を思い出す
「今こそ、権力を監視・・・」「色々な考えの違う人が意見を述べ合う・・・多事総論」が大切・・・。
この書は国賠訴訟勝利後の控訴断念の時に幸子さんが「ニュース23」に出た後プレゼントされた書で幸子さんの宝物

屋我地島のレストラン「花季」に向かう途中に「ワルミ大橋」から幸子さんと本島一美しい海を眺める。風がやさしく頬をなぜる。平和なひと時!レストランは臨時休業で残念

金武町のキャンプハンセン基地ゲート前の「タコライス」は美味しい!
隣合わせの米軍さんは上手に食べていたが、私たちはたっぷりのレタスを鳥のようにこぼしてばかり!量が多い!

名護のオオシッタイの「しゃしくまーる」でお茶をした時に写した桜とパパイア(もう少しでシリシリして食べれるかな。ゆったりした時間が流れる。
 
近くの「御真影壕」を何度訪ねたことだろう!

1年ぶりの沖縄(1)ノーオスプレー

2013年02月11日 19時33分01秒 | Weblog
昨年の県民大会以後普天間基地ゲート前で毎日立って呼びかける市民の1人は友人である。那覇に着いた2日目の朝、ゲート前に朝7時半に訪ねた。6時から8時まで毎日であり、宜野湾市役所では毎日座り込みもしておられます。
米軍には英語のフレーズで、沖縄の車には「ウチナンチュー頑張れ!」と。8時過ぎると朝食を食べに帰宅する日課、ストレスがたまると言われる。恥ずかしい思いがしてならない。

8時になってゲート前を離れる

ゲートのすぐ横にある大山地区400人の住民を祀る慰霊碑に初めて手を合わせた

その近くにあるマヤ―(猫)ガマ



嘉手納の道の駅に行くと米軍戦闘機が続いて飛び立ち、普天間の空を飛ぶオスプレーも見えた。
大阪に帰って新聞でオスプレーの後ろから水筒が落ちたというニュース、沖縄で読んだ新聞では米兵がオスプレーから宙づりになっている写真も載っていた。

山岡ミチコさんが逝く・・・沖縄で広島の姪からメールをもらって知る

2013年02月05日 21時34分01秒 | Weblog
2月2日に山岡ミチコさんが亡くなったと那覇の民宿で知った
私は、沖縄にいて広島に駆けつけることができない。
いろいろ思い出されて涙が滲む・・・・。
12月にお見舞いしようと思っていたのに疲れていて、次の機会にしようと延ばしたのが悔やまれる
昨年6月に訪ねた時、言葉に出して答えてはくれなかったが、「大阪に帰ります」と声掛けすると ずっとずっと目で追って見送ってくださった

かなり前だが、広島の妹とお見舞いした時も、お話はできなかったがすべて聞いておられて「山岡さん証言また頑張ろうよ」と言うと、はっきり「うん」と答えられたことが脳裏に焼き付いている。

私のいた学校には2回講演にお招きした。
広島になぜ原爆が落とされたのかという歴史的背景を歯切れよく話しながらご自身の体験を話してくれる貴重は証言者でした。
「判断力を持って生きなさい」と高校生に語りかけて話を終える山岡さん!近くの中学校で講演された時も、私の学校で講演された時も私の家に泊まっていただく「民泊」だった。
グアムの高校講演には「母さんの声」の英語版を私の学校の生徒が吹き込んで持っていってくれたので音楽部の生徒も教師も一所懸命だった。
また、出張で広島に出かけた時は、半日に36ケ所も案内してくださった。本当のヒロシマを伝えようと・・・。
個人的にも何度も一緒に歩いてくださった。山岡さんの紹介で「放影研」もたった1人だけで職員さんが案内してくれた。
そして、お自宅に泊めていただいた。
声を出すことが大事と2人でカラオケを家でしたことも!

2006年8月6日に脳梗塞でたおれたと新聞に報道されているが
私には忘れられないことがある
その8月6日の夜、私は山岡さんから電話をいただいた
私は、肝炎治療で入院して7日に退院予定だった。
「今日は、被爆の碑めぐり、済ましたよ」と山岡さん
「よかったですね。私は明日退院です」と話しあったのに
その後たおれるなんて、ビックリしました。
沖縄にご一緒する約束でしたね。一時回復して修学旅行の小学生にお話ししてくださったのは大阪の友人の学校でした。
山岡さんが制作された黄色のワンピースが形見になりました。8月6日にはこれからも身につけ続けます。
山岡さんありがとうございました。もっともっとお話し聞きたかったです。
元気であれば「原爆・原発・沖縄・在日・ハンセン病問題は根っこがいっしょだよ」ときっと言われるでしょう!