雅工房 作品集

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運命紀行  美貌の剣士

2012-04-25 08:00:19 | 運命紀行
       運命紀行

          美貌の剣士


甲斐姫は、ついに開城を決意した。
小田原城が落ちた後も、唯一北条方として籠城を続けていた忍城であるが、北条氏が滅亡したとあっては、これ以上の戦いは無意味であった。甲斐姫は、継母や二人の妹とも計り開城を決めたのである。
甲斐姫は、継母や妹たちと共に甲冑に身を固め馬に乗り先頭に立った。その後には、家臣たちが続き、さらに農民や商人など共に籠城戦を戦った者たちを率いて、堂々の隊列を組んで城門を出て、石田軍に降ったのである。

豊臣秀吉が、北条討伐のため二十二万ともいわれる大軍を関東に向けたのは、天正十八年(1590)のことであった。
武蔵国忍城城主である成田氏長は、北条氏からの求めに応じ、三百五十騎を率いて小田原城に入った。
出陣にあたって氏長は、十九歳の長女の甲斐姫に後事を託した。氏長には三人の子供がいたが、いずれも娘ばかりだった。しかし、長女の甲斐姫は、東海一の美女と噂されるうえに、東海一の女剣士といわれる程の武技に優れ、武略にも非凡なものを有していた。
氏長は、甲斐姫の並の武将に引けを取らない器量を見込んで、「忍城は要害であるのでもっぱら守備を固めて守り抜くように」と言い残した。

氏長の妻は、甲斐姫にとっては継母にあたるが、太田道灌の曾孫で岩槻城主太田三楽斎の娘で、この女性も武勇の人であった。甲斐姫には十五歳の妹が二人いたが、一人は継母の娘であり、もう一人の生母は別の女性であったが、この四人はとても仲が良かった。
氏長出陣後の忍城には、侍は三百余りに足軽も四百余りしかいなかったが、敵軍襲来の噂を聞いて城下の農民や町人が続々と入城して来た。そして、籠城する人数は五千人にも膨れ上がっていった。

城主夫人を中心に甲斐姫と二人の妹が力を合わせることを誓い合った。
城主夫人が開いた軍議では、数少ない武者たちの配置に工夫を凝らし、農民なども総動員して、城を守りぬくことを決定した。戦闘要員が少ないことを悟られないための工夫や、城壁を上ろうとする敵に対する攻撃方法や、兵糧の管理などきめ細かな作戦がなされた。

やがて、秀吉勢の大軍が忍城を取り囲んだ。有り余る軍勢を動員した秀吉勢は、忍城一つに対して、石田三成を大将として、浅野長政、大谷吉隆、真田昌幸ら二万余の大軍であった。
忍城は利根川と荒川に挟まれた湿地帯に築かれていた。その中の小島を要塞化したもので大軍で攻め込むには困難な地形であった。
三成は、梅雨の時期でもあったことから、周囲に七里にも及ぶ堤を築いて水かさの増すのを待ったが、測量の稚拙さもあって、逆に堤の一部が決壊して数百の兵を失うという損害を出した。

三成は、この失態を挽回すべく、忍城への突入を強行した。
これに対して、甲斐姫は敢然として立ち向かったのである。
烏帽子形の兜に小桜縅の鎧、猩々緋の陣羽織をまとった甲斐姫は、黒駒に打ち乗り銀の采配を手に先頭に立ち、その後ろには二百の武者が続いていた。甲斐姫は事前に城外に伏兵を出していて、敵軍を混乱させ、退却させたうえで城内に戻った。
十九歳の麗しい乙女の颯爽たる指揮ぶりは、城内の士気をさらに高めた。
別の日には、乱戦の中、一騎打ちとなった真田軍の若武者を弓で打ち果たしたという。

しかし、甲斐姫らの忍城での奮闘も、北条方の劣勢に役立つものにはならなかった。
関東一円の北条方の城塞はすべて落とされ、ついに小田原城も開城となり、甲斐姫も収束を決意する。
城主夫人と三人の娘、そして家臣たちに続く農民たちも胸を張って城を出る。
甲斐姫が秀吉勢に敗れた瞬間であったが、歴史は、甲斐姫に新しい展開の舞台を用意していたのである


     * * *

甲斐姫の誕生は、元亀三年(1572)の頃である。
父は、忍城城主成田氏長で、彼が三十歳の頃の誕生と思われる。
母は、金山城主由良成繁の娘である。この母は、氏長が家督を相続すると同時に二十一歳で嫁いできたが、大変美人で武技にも優れた人であったらしい。
二人の結婚は、当時としてはごく当然である政略が絡んだものであった。つまり、北条方の氏長を古河公方方の成繁が味方に引き入れようとしたものらしいが、結局うまくいかず、天正元年に離縁、実母は二歳の甲斐姫を残して金山城に戻ったのである。

その後氏長は、大田道灌の血を引く女性を後妻に迎えているが、この女性も武勇に優れ、甲斐姫に対してもやさしい継母であったらしい。すでに述べたように、甲斐姫は実の母親とは早くに別れることになったが、継母に恵まれ、それぞれ母の違う二人の妹とも仲が良かったらしい。
そんな環境の中で、甲斐姫は実母や祖母(妙印尼)の美貌と、同じくその人たちの武勇と、加えて継母の教育もあって、美しくて、しかも東海一の剣士といわれる程の女性に成長していった。

やがて、小田原城が落ち、甲斐姫も秀吉勢の軍門に降ることになったが、忍城攻防戦での華麗な働きぶりは秀吉に伝えられ、奥州の仕置きに向かう途中で召し出されることになった。
そして、帰路上方に招かれ、側室となるのである。
甲斐姫が秀吉の寵を得たことで、氏長は助命され烏山城に移って二万七千石の所領を与えられたのである。

十九歳で秀吉の側室となり、大坂城に入った後の甲斐姫の消息は極めて少ない。
秀吉が亡くなるのは慶長三年(1598)八月のことで、およそ九年程の側室としての日々を過ごしている。その間のことについて伝えられているものはないようだが、甲斐姫の気持ちはともかく、物質的には栄華の頂点のような生活であったことは想像できる。当時の大名の側室の通例として、この時甲斐姫も落飾したものと考えられるが法名なども伝えられていない。
そして、元和元年(1615)五月、大坂夏の陣より大坂城は落城、淀殿と秀頼は自害、武者ばかりでなく城内にいた女性たちも含めて多くの命が失われている。甲斐姫、四十四歳の頃である。

豊臣秀頼には、二人の子供がいた(三人という説もある)。それぞれに別の側室から生まれた子供である。
嫡男にあたる男児は捕らえられ処刑されたが、もう一人の女児は秀頼の正室であり家康の孫娘である千姫の養女となっていたことから、尼となることを条件に助命されている。
千姫の懸命の働きかけに家康・秀忠がしぶしぶ承知したのであろうが、この運命の女児は、縁切り寺として有名な鎌倉の東慶寺に入り天秀尼となる。女児が八歳の頃である。
この天秀尼の生母は、成田氏と伝えられている。おそらく、甲斐姫の侍女として大坂入りした女性と考えられ、甲斐姫はこの女児の養育係を務めていて、東慶寺にも一緒に入山しているらしい。

そして、さらに時代は下って、東慶寺で大きな事件が起こっている。
寛永二十年(1643)、会津四十万石の藩主加藤明成と家老堀主水が衝突、堀が殺害される事件が起こった。当時の風潮として、事の正否に関わらず主人の主張が絶対視されていた時代であるが、堀の家族は加藤の振る舞いに不満を抱き逃亡、男子は高野山に逃げ込んだが高野山は女人禁制であり、妻や女子は東慶寺に逃げ込んだのである。
これに対して、加藤明成は藩の威信をかけて東慶寺に対し逃げ込んだ妻子の引き渡しを求めたの対し、天秀尼は、男子禁制、女性保護を盾にして拒絶、険悪な状態となった。
天秀尼は、千姫を通じて幕府に事態を訴え、その結果会津加藤藩は改易となったのである。
この事件により、東慶寺の力が全国に知られることとなり、縁切り寺としての権威はさらに増したのである。

この事件を考える時、秀頼の血筋を引く天秀尼だとはいえ、七歳までは深窓に育ち、過酷な経験をしたとはいえ、その後も出家の身とはいえ多くの女性に囲まれての生活を考えると、戦国の荒々しさを色濃く残している加藤藩と互角の交渉が出来たことに不思議を感じる。
幕府に訴え出た段階では、千姫の尽力が大きく、豊臣の匂いがする加藤家を退けたいという幕府の思惑も働いたのであろうが、そこに至るまでの交渉には、天秀尼には強力な側近がついていたと思われてならない。もし、そうだったとすれば、それは、甲斐姫をおいて他にはいないだろう。

天秀尼に、豊臣の誇りと東慶寺の権威を植え付けた人物こそ甲斐姫だったとすれば、その頃は甲斐姫も、七十二歳に達している。
当時の七十二歳は決して若くはないが、甲斐姫の祖母にあたる妙印尼は、七十七歳にして嫡孫を後見して、凛々しい馬上姿で戦場を疾駆したと伝えられている。
甲斐姫もまた、祖母に負けない若々しさで不運の天秀尼を力強く補佐していたとしても、何の違和感も感じられない。

                                          ( 完 )














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