雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  次の時代を紡ぐ

2012-04-19 08:00:39 | 運命紀行
       運命紀行

          次の時代を紡ぐ


ふと疑問を感じた。
何かが間違っているような気がしてならなかった。都における戦闘は膠着状態となっているも、関東をはじめ全体としては味方有利の展開であるはずだが、何かが自分の意志とは違う方向に動いているように思えてならなかった。
その動きは、当面の相手と戦うほどの激しさは感じられないが、もっと大きな、それも遥かに強大な力が時代そのものを動かせているような気配が感じられるのである。

細川勝元にとって、山名宗全率いる一族は、後ろ楯になってくれるものであって、戦う相手ではなかったはずである。それがいつしか対立する二つの陣営の将に立っているのだ。
勝元が父持之の死により家督を相続したのは、嘉吉二年(1442)のことで、この時、七代将軍足利義勝から一字を賜り勝頼を名乗った。そして、叔父にあたる細川持賢の後見を受けて、摂津、丹波、讃岐、土佐の守護となり、中央政界に登場したのである。
その頃の山名宗全は、前年の嘉吉の乱により赤松氏を降し、一族が支配する領国は細川氏に匹敵するほどになり、中央政権での存在感も増してはいた。しかし、宗全には中央政権での野望はそれほど感じられず、武士としての風貌を色濃く持っていた。

宗全は勝元より二十六歳上であるから、すでに四十歳に近く、勝元には宗全と武力をもって争う考えなど全くなく、むしろ積極的によしみを結ぼうとしていた。
勝元の戦いの相手は、管領職を競い合う斯波氏であり畠山氏であった。特にこの頃は、畠山氏の勢いが強く、これに対抗するためには強力な味方が欲しく、中央政治への野心が薄いと見える宗全は最も頼りに出来る人物であった。
宗全も若い勝元に対して好感を抱いていたらしく、もちろん少なからず打算はあるとしても、養女を勝元の正妻として娶せたのも、同盟を結ぶに適した人物と評価したからに違いなかった。

文安二年(1445)三月、勝元が十六歳で管領職に就くことが出来たのも、家柄とはいえ決して持ち回りなどではなく、細川一族の実力に加え、山名宗全の強大な軍事力が後押ししていたことも確かであろう。
その後も宗全が窮地に追い込まれた時には勝元が積極的に支援しているし、畠山氏の力を抑えるのに宗全の存在が役立つなど、暗黙のうちの同盟関係は続いてきていた。

しかし、現在三回目の管領職にある勝元は、宗全に危険な匂いを感じるようになってきていた。
それは、自分を裏切るといったものではなく、管領職という強力な権力を通して幕府の運営の実権を握ろうとしている勝元にとって、畠山氏や斯波氏とは違う圧力を宗全に感じ始めたのである。
宗全に中央政権への野心が薄いことは確かなようであるが、その裏返しとして、幕府権力を軽視するような面が多々見られるのである。宗全が頼りとするものは自らの武力であり、一族や同盟者との結束が基盤であり、幕府のしきたりや官位などに縛られない不気味さを感じさせるのである。

二人の関係がはっきりと対立したのは、寛正五年(1464)の頃であったか。畠山氏の家督をめぐる争いに絡んで、両者の対立があり、その後は足利将軍家の後継争い、斯波氏の家督争いなどにおいてことごとく対立するようになっていった。その遠因には、山名氏の宿敵ともいえる赤松氏に対して勝元が支援していることがあることも確かであった。
そして、気がついてみると、いつの間にか両者を頂点とした二つの陣営が全国を真っ二つにして戦っていた。

何かが違う。
この思いは、勝元の胸の中で膨らみ続けていった。宗全の幕府権力を軽視するかの振る舞いは許し難いが、かといって、山名氏を敵に回して利するものは少ないと思うようになっていった。
勝元は、後継者と考えていた猶子の勝之を廃嫡し、宗全の養女である正室の子である政元を後継者に変えた。すると、これに呼応するかのように、宗全は自殺を図ったという騒ぎがあり隠居したのである。この両者の阿吽の呼吸のごとき行動を背景に和睦の交渉がなされたが、勝元陣営の有力者である赤松正則の抵抗で実現させることが出来なかった。

そして、翌年の文明五年(1473)三月、宗全の死去が伝えられてきた。死因は自殺騒ぎの折の傷の悪化によるとも伝えられたが、ここ数年体調を悪くしていたことも事実であった。
いずれにして、隠居しているとはいえ実質的な敵大将の死は何よりの朗報であったが、勝元は素直に喜ぶことが出来なかった。

何かが違う。彼と戦うつもりなどなかった。
幕府権力を背景に国家の安泰を図ろうとしている自分とは、明らかに違う価値観を持っている舅でもある宗全の存在に恐怖を抱いていたが、何か、とてつもなく大きなものを失ったような虚脱感に、勝元は襲われていた。


     * * *

細川氏は、清和源氏の末裔であり、名門足利氏の支流にあたる。
細川の名乗りは、鎌倉時代に三河国額田郡細川郷に土着したことに由来する。
南北朝時代には、細川氏は足利尊氏のもとで北朝・室町幕府方として活躍し名声を得た。やがて、畿内を中心に一門で八カ国の守護職を占める守護大名となる。
三代将軍足利義満の時代、細川頼之は管領としてよく補佐し、以後嫡流である京兆家は代々管領に任ぜられる斯波・畠山と共に、三管領の一つに数えられるようになった。
なお、戦国時代後期以降活躍する肥後細川家の祖である細川幽斎は、傍流の和泉上守護家の出身である。

細川勝元は、細川氏の嫡流京兆家の嫡男として生まれた。父は細川持之、母は京極高光の娘である。永享二年(1430)のことである。
嘉吉二年(1442)八月、父の死により十三歳で家督を相続、勝元と名乗る。そして、叔父細川持賢の後見を受けて四カ国の守護となり、中央政権に登場する。
文安二年(1445)三月、十六歳で管領となり、幕府政治運営の中心に立つ。この後、三度にわたって、合計二十三年間管領職の地位に就いており、実に生涯の半分以上を管領として過ごしたことになる。

勝元が家督を引き継いだ頃、幕府政治の実力者は勝元の父から管領職を引き継いだ畠山持国であった。
細川一族の頂点に立った勝元の当面の敵は持国を当主とする畠山一族であった。勝元の最初の管領職は四年半で交代するが、その後の管領に就いたのも持国だった。
管領職を務めるのは、この両家と斯波氏を加えた三家であるが、第一の名門である斯波氏の力はすでに脅威というほどではなかった。細川氏の幕府内の地位を盤石にするためには、何としても畠山氏を圧倒する必要があった。勝元が山名宗全と同盟関係を持ったのは、実にそのためのものであった。

しかし、畠山氏との勢力争いで有利な立場に立って見ると、次の壁が見えてきていた。皮肉なことであるが、それが宗全であった。しかも彼は、勝元とは少し違う価値観を持つ人物であった。
畠山氏との争いは、同じ土俵の上での争いといえるが、宗全の場合は、少し異質の面を持っていた。
幕府勢力の重要な地位にあり、守護大名として力を蓄えていることは同じなのだが、宗全には、どこか幕府の組織を超越しているかのような部分が感じられるのである。自らの力だけを信じているような振る舞いが見られるのである。
勝元は、いつのまにか宗全のとらまえ難い発想に恐怖を感じ始めていたのである。そして、自ら意図したわけではなかったが、天下を二分する戦いに突入し、勝元と宗全はそれぞれの陣営を率いるようになっていたのである。

文明五年(1473)三月、山名宗全死去の報が伝えられた。
応仁の乱と呼ばれることになる戦いはすでに七年目を迎えており、膠着状態が続き両陣営に厭戦気分が高まっていた。そのような時の敵軍の大将の死は、この上ない朗報のはずであった。
しかし、勝元は、素直に喜ぶことが出来なかった。それよりも、むしろ喪失感のようなものが心の奥で吹き荒んでいた。
勝元が世を去るのは、この二カ月足らず後の事であった。享年四十四歳である。

やがて戦いは、それぞれの後継者の手により和睦が結ばれ集結する。
勝元の死去により家督を相続した政元は、勝元を上回る権力を掌握し、勝元が求めていた幕府内で絶対的な権力をつかむ。しかし時代は、勝元が漠然と恐れを感じていたように、幕府権力を絶対と感じない勢力が、全国各地に続々と登場し始めていた。
勝元と宗全が、全国を二分するほどの戦乱を展開させたことによって、次の時代の主役たちの孵化を促したかのように見える。彼もまた、次の時代を紡ぐ人物の一人であったことは間違いあるまい。

                                         ( 完 )




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