雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  天晴れ女武者

2012-09-22 08:00:21 | 運命紀行
       運命紀行

          天晴れ女武者


『 木曽殿は信濃より、巴、山吹とて、二人の便女(ビンジョ・身の回りの世話をする女性)をぐせられたり。山吹はいたはりあって(病のため)、都にとどまりぬ。
中にも巴は色白く髪長く、容顔まことにすぐれたり。ありがたき強弓精兵、馬の上、徒歩だち、打物もっては鬼にも神にもあはうどいふ一人当千の兵者(ツワモノ)なり。
究竟(クッキョウ・非常に都合のいいさま)の荒馬乗り、悪所おとし(険しい坂を駆け下りること)、いくさといえば、[木曽殿は]さねよき(堅固な)鎧着せ、大太刀(オオダチ)、強弓もたせて、まづ一方の大将にはむけられけり。度々の高名肩をならぶる者なし。
されば、今度も、おほくの者どもおちゆき、うたれける中に、七騎が内まで巴はうたれざりけり。 』
 
 (中略・・その後、今井四郎兼平らと合流するも、総勢三百騎ほどとなる)

『 木曽左馬頭、其日の装束には、赤地の錦の直垂に唐綾威の鎧着て、鍬形うったる甲の緒しめ、いかものづくりの大太刀はき、石うちの矢(鷲の羽を用いた強い矢)の、其日のいくさに射て少々のこったるを、頭高に負ひなし、滋藤(シゲトウ)の弓もって、きこゆる木曽の鬼葦毛といふ馬の、きはめてふとうたくましいに、黄覆輪の鞍おいてぞ乗ったりける。
鐙ふんばり立ちあがり、大音声(ダイオンジョウ)をあげて名のりけるは、
「昔は聞きけん物を、木曽の冠者、今は見るらん、左馬頭兼伊予守朝日の将軍源義仲ぞや。甲斐の一条次郎とこそ聞け。たがひによいかたきぞ。義仲うって兵衛佐に見せよや」とて、をめいてかく。
一条の次郎、「只今なのるは大将軍ぞ。あますな者ども。もらすな若党、うてや」とて、大勢の中にとりこめて、我うっとらんとぞすすみける。

木曽三百余騎、六千余騎が中をたてさま、よこさま、蜘手(クモデ)、十文字にかけわって、うしろへつっと出でたれば、五十騎ばかりになりにけり。
そこをやぶってゆくほどに、土肥の二郎実平二千余騎でささへたり。其をもやぶってゆくほどに、あそこでは四五百騎、ここでは二三百騎、百四五十騎、百騎ばかりが中をかけわりかけわりゆくほどに、主従五騎にぞなりにける。
五騎が内まで巴はうたれざれけり。

木曽殿、「おのれは、とうとう(早く早く)、女なれば、いづちへもゆけ。我は打死せんと思ふなり。もし人手にかからば自害をせんずれば、木曽殿の最後のいくさに、女を具せられたりけりなんど、いはれん事もしかるべからず」と宣ひけれども、なほおちもゆかざりけるが、あまりにいはれ奉って、
「あっぱれ、よからうかたきがな。最後のいくさして見せ奉らん」とて、ひかへたるところに、武蔵国にきこえたる大力、御田の八郎師重、三十騎ばかりで出できたり。
巴その中へかけ入り、御田の八郎におしならべて、むずととってひきおとし、わが乗ったる鞍の前輪におしつけて、ちっともはたらかさず、頸ねぢきってすててんげり。
其後物具ぬぎすて、東国の方へ落ちぞゆく・・・         (以下略) 』
 

     * * *

『平家物語』巻第九「木曽最期」からの抜粋である。
この中に登場する巴は、「巴御前」として知られる女武者である。
『平家物語』には、悲運の女性が数多く登場するが、巴御前もまたその一人といえる。
しかし、この悲運の女性は、見目麗しくも弱々しさなどみじんもなく、並の豪傑など寄せ付けぬ天晴れな女武者であったらしい。

「木曽最期」の主人公である源義仲は、久寿元年(1154)の生まれである。幼名は駒王丸。
討ち果たされることになる源頼朝より七歳年下、義経より五歳年上である。
父は、河内源氏の一族である源義賢、頼朝らの父義朝の弟である。従って、義仲と頼朝・義経は従兄弟という関係である。母は、小枝御前という遊女であったという。
父義賢は兄義朝と対立し、大蔵合戦により義朝の長男義平により討たれた。当時二歳の駒王丸に対しても殺害命令が出されたが、畠山重能らの計らいで信濃国に逃れることが出来た。
吾妻鏡によれば、駒王丸は、乳母の夫である中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曽谷に逃れたという。

巴御前の父は、中原兼遠あるいは樋口兼光という。兼光は兼遠の次男であるので、いずれの娘であったとしても、義仲とは幼い頃から共に過ごしたと考えられる。
年齢は、巴御前の方が二、三歳下と推定されるが(諸説ある)、幼い頃から義仲の武芸の相手役を務めたらしく、早くから合戦にも加わっていたらしい。
しかし、幼い頃の義仲の資料はほとんどなく、従って巴御前に関するものも同様である。

巴御前に関しては、記録として残されているのが軍記物語とよばれる『平家物語』と『源平盛衰記』のみであり、当時の公式資料などには記録されているものがなく、鎌倉幕府編纂の『吾妻鏡』にさえ動向が記されていないことから、その実在さえ疑う研究者もいるそうである。また、たとえ存在していたとしても、一軍の大将となるような女武者など考えられないというのである。
しかし、当時の女性に関する記録は一部の皇族を除けば極めて少ないのは常識であり、女性で男性顔負けの武者働きをしたとされる伝聞は、何も巴御前に限ったことではない。

平氏討伐のためにいち早く立ちあがった木曽の源義仲が、京都の治安維持に失敗した粗雑な武将として評されることが少なくないが、それは、敗軍の将ゆえに後世に正しく伝えられていないためと考えられる。
源平合戦においては、九郎判官義経の神がかり的な活躍が評価されがちであるが、それらは、それに先立つ倶利伽羅峠の戦いにおいて、義仲が平氏の戦力を半減させていたからこそ実現できたともいえるのである。
そして、この戦いにおいても、巴御前は一軍の大将であったと伝えられている。

『平家物語』には何種類かの伝本があるが、巴御前に対する描写も微妙に違っている。
あるものは、「義仲に、自分の後世を弔うことが最後の奉公であると諭されて、東へ向かい、行方知れずになった」と。
又あるものは、「落ちのびた後、越後国友杉に住んで尼になった」と。
又あるものは、「粟津に着いた時には、義仲勢は五騎になっていたが、すでにその中には巴御前の姿はなく、討死したのか逃げのびたのか、その消息は分からない」と。

一方の『源平盛衰記』の中には、宇治川の戦いにおいて、敵将畠山重忠が遠目にも目立つ巴御前の姿を、何者かと問われた半沢六郎は、「木曽殿の御乳母に、中三権頭(中原兼遠)が娘巴という女なり。強弓の手練れ、荒馬乗りの上手。乳母子ながら、おもひものにして、内には童を仕ふ様にもてなし、軍には一方の大将軍して、更に不覚の名を取らず。今井、樋口と兄弟にて、怖ろしき者にて候」と答えている。
別れの部分も、「我去年の春、信濃国を出でしとき妻子を捨て置き、また再び見ずして永き別れの道に入ん事こそ悲しけれ。さらば、無らん跡までも、このことを知らせて後の世を弔はばやと思へば、最後の供よりもしかるべきと存ずるなり。疾く疾く忍び落ちて信濃へ下り、この有様を人々に語れ」と、義仲が懸命になって巴御前を逃そうとしている様子が記されている。

さらに、落ちのびた後についても、頼朝から鎌倉に召し出され、和田義盛の妻になって朝比奈義秀を生んだという。和田合戦で和田一族が滅びた後は、越中国の石黒氏のもとに身を寄せ、出家して九十一歳までの生涯を送ったという。(但し、朝比奈義秀は討たれることなく戦場を脱出、その後の消息は不明)
『源平盛衰記』は『平家物語』よりさらに詳しく巴御前の消息を伝えているが、義仲討死の時には朝比奈義秀は九歳ほどになっているので、このあたりは、贔屓の引き倒しともいえる。
ただ、それも、巴御前という女性が、それほどまでに消息を膨らませたくなるような存在感を持っていた証とも考えられる。

朝日将軍と称された木曽義仲が、粟津の松原で鎌倉軍に討ち滅ぼされたのは、寿永三年(1184)正月二十一日の日没の頃と平家物語は伝えている。享年三十一歳。
たった一騎で東に向かったとされる巴御前は、二十八歳の頃であろうか。その後について、確たる消息を知ることは出来ない。ただ、ただ、颯爽と駆け抜ける天晴れ女武者の姿を思い描くばかりである。

                                      ( 完 )

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