空白の時代 ( 3 )
仲哀天皇の足跡
仲哀二年春正月、天皇は気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト・神功皇后)を立てて皇后とされた。
これより先に、叔父の彦人大兄(ヒコヒトノオオエ)の娘である大中姫を娶って妃(ミメ)とし、麛坂皇子(カゴサカノミコ)・忍熊皇子(オシクマノミコ)を生んだ。
次に、来熊田造(ククマタノミヤツコ)の祖大酒主(オオサカヌシ)の娘である弟媛(オトヒメ)を娶って、誉屋別皇子(ホムヤワケノミコ)を生んだ。
二月、角鹿(ツヌガ・越前国敦賀)に行幸され、そこに行宮(カリミヤ)を建てて滞在した。これを笥飯宮(ケヒノミヤ)という。その月に淡路の屯倉(ミヤケ・朝廷直轄の倉庫や管理地)を定めた。
三月、天皇は南国(ミナミノクニ・南海道。畿内から四国に至る国々で、紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐を指す)を 巡幸された。この時、皇后と百寮(モモノツカサ・百の役所という意味で、従者の殆どという意味らしい)を留められ、二、三人の卿大夫(マエツキミ・高官)と官人数百を従者として速やかに向かわれた。
紀伊国(キノクニ)に至ると徳勒津宮(トコロツノミヤ・和歌山市辺りか)に滞在した。
この時、熊襲(クマソ・九州南部の薩摩半島・大隅半島辺りに拠点を持つ豪族)が背いて、朝貢しなかった。そこで天皇は、熊襲国を討伐しようと決意され、ただちに徳勒津を出発され、船で穴門(アナト・山口県西部。長門)に向かった。
到着すると、その日に、使者を角鹿に遣わし、皇后に勅(ミコトノリ)して「ただちに角鹿の津を出立して、穴門で逢うようにされよ」と仰せられた。
☆ ☆ ☆
皇后、天皇のもとに
仲哀二年夏六月、天皇は豊浦津(トユラノツ・下関市)に泊られた。
また、皇后は角鹿を出立して渟田門(ヌタノト・敦賀沖辺りか)に至り、船上で食事をされた。その時、鯛がたくさん船のそばに集まってきた。皇后は、酒をその鯛に注がれた。鯛はたちまち酔って浮かび上がった。それで、海人(アマ)はたくさんその魚を獲ることが出来たので、大喜びで、「聖王(ヒジリノキミ・神功皇后を指す)が与えてくださった魚だ」と言った。
そして、渟田門の魚が、六月になると決まって海面に浮かび上がり酔ったようになるのは、この事が端緒である。
秋七月、皇后は豊浦津に泊まられた。この日に、皇后は如意の珠(如意宝珠ともいう。一切の願いが叶うという不思議な珠)を海中から得られた。
九月に、天皇は宮殿を穴門に建てて滞在された。これを穴門の豊浦宮(トユラノミヤ)という。
仲哀八年春正月、天皇は筑紫に行幸された。その時、岡県主(オカノアガタヌシ)の祖先である熊鰐(ワニ)は、天皇の行幸を知ると、前もって五百枝の賢木(イオエのサカキ)を根こそぎ抜き取って、九尋(ココノヒロ・尋は大人が両手を広げた端から端までの長さ)の船の舳先に立てて、上枝には白銅鏡(マスミノカガミ・白銅は銅と錫の合金)を掛け、中枝には十握剣(トツカノツルギ・ツカは長さの単位で凡そ10cm)を掛け、下枝には八尺瓊(ヤサカニ・大きな玉)を掛けて、周芳(スワ・山口県内で、交通の要衝であった)のサバの浦までお迎えに参り、魚塩の地(ナシオのトコロ・天皇の御料として魚や塩をとる地域)を献上した。
そして、「穴門より向津野大済(ムカツノオオワタリ・大分県辺りにある港か)に至るまでを東門(ヒガシノミト)とし、名籠屋大済(ナゴヤノオオワタリ・北九州市辺りの港か)までを西門(ニシノミト)とし、没利島・阿閉島(モトリシマ・アヘシマ・・下関近くの島々か)だけを御筥(ミハコ・丸い箱であるが、ここでは穀物を提供する二島を指している)とし、柴島を割いてミナヘ(瓶の意味らしいが、ここでは魚菜を提供する島のことらしい)とし、逆見海(サカミノウミ・北九州市辺りの海岸の一部を指すか)を塩地といたしましょう」と申し上げた。
こうして、熊鰐は海路を案内し、山鹿岬(ヤマカノサキ・筑前国)から廻って岡浦に入った。水門(ミナト・湊や河口の入り口)に至ると、御船が進むことが出来なくなった。
天皇は熊鰐に尋ねられた。「私が聞いているには、お前は清い心を持って迎えに来たと。何ゆえ船が進まないのか」と。
熊鰐は、「御船が進まないのは、私めの罪ではありません。この浦の入り口に男女二柱の神がいます。男神を大倉主といい、女神をツブラ媛といいます。きっとこの神の御心でしょう」と申し上げた。
天皇は、ただちにお祈りになり、船頭の倭国の菟田(ウダ)の人である伊賀彦を祝(ハフリ・神主のような役)としてお祭りさせた。すると、たちまち船は進んだ。
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仲哀天皇の足跡
仲哀二年春正月、天皇は気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト・神功皇后)を立てて皇后とされた。
これより先に、叔父の彦人大兄(ヒコヒトノオオエ)の娘である大中姫を娶って妃(ミメ)とし、麛坂皇子(カゴサカノミコ)・忍熊皇子(オシクマノミコ)を生んだ。
次に、来熊田造(ククマタノミヤツコ)の祖大酒主(オオサカヌシ)の娘である弟媛(オトヒメ)を娶って、誉屋別皇子(ホムヤワケノミコ)を生んだ。
二月、角鹿(ツヌガ・越前国敦賀)に行幸され、そこに行宮(カリミヤ)を建てて滞在した。これを笥飯宮(ケヒノミヤ)という。その月に淡路の屯倉(ミヤケ・朝廷直轄の倉庫や管理地)を定めた。
三月、天皇は南国(ミナミノクニ・南海道。畿内から四国に至る国々で、紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐を指す)を 巡幸された。この時、皇后と百寮(モモノツカサ・百の役所という意味で、従者の殆どという意味らしい)を留められ、二、三人の卿大夫(マエツキミ・高官)と官人数百を従者として速やかに向かわれた。
紀伊国(キノクニ)に至ると徳勒津宮(トコロツノミヤ・和歌山市辺りか)に滞在した。
この時、熊襲(クマソ・九州南部の薩摩半島・大隅半島辺りに拠点を持つ豪族)が背いて、朝貢しなかった。そこで天皇は、熊襲国を討伐しようと決意され、ただちに徳勒津を出発され、船で穴門(アナト・山口県西部。長門)に向かった。
到着すると、その日に、使者を角鹿に遣わし、皇后に勅(ミコトノリ)して「ただちに角鹿の津を出立して、穴門で逢うようにされよ」と仰せられた。
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皇后、天皇のもとに
仲哀二年夏六月、天皇は豊浦津(トユラノツ・下関市)に泊られた。
また、皇后は角鹿を出立して渟田門(ヌタノト・敦賀沖辺りか)に至り、船上で食事をされた。その時、鯛がたくさん船のそばに集まってきた。皇后は、酒をその鯛に注がれた。鯛はたちまち酔って浮かび上がった。それで、海人(アマ)はたくさんその魚を獲ることが出来たので、大喜びで、「聖王(ヒジリノキミ・神功皇后を指す)が与えてくださった魚だ」と言った。
そして、渟田門の魚が、六月になると決まって海面に浮かび上がり酔ったようになるのは、この事が端緒である。
秋七月、皇后は豊浦津に泊まられた。この日に、皇后は如意の珠(如意宝珠ともいう。一切の願いが叶うという不思議な珠)を海中から得られた。
九月に、天皇は宮殿を穴門に建てて滞在された。これを穴門の豊浦宮(トユラノミヤ)という。
仲哀八年春正月、天皇は筑紫に行幸された。その時、岡県主(オカノアガタヌシ)の祖先である熊鰐(ワニ)は、天皇の行幸を知ると、前もって五百枝の賢木(イオエのサカキ)を根こそぎ抜き取って、九尋(ココノヒロ・尋は大人が両手を広げた端から端までの長さ)の船の舳先に立てて、上枝には白銅鏡(マスミノカガミ・白銅は銅と錫の合金)を掛け、中枝には十握剣(トツカノツルギ・ツカは長さの単位で凡そ10cm)を掛け、下枝には八尺瓊(ヤサカニ・大きな玉)を掛けて、周芳(スワ・山口県内で、交通の要衝であった)のサバの浦までお迎えに参り、魚塩の地(ナシオのトコロ・天皇の御料として魚や塩をとる地域)を献上した。
そして、「穴門より向津野大済(ムカツノオオワタリ・大分県辺りにある港か)に至るまでを東門(ヒガシノミト)とし、名籠屋大済(ナゴヤノオオワタリ・北九州市辺りの港か)までを西門(ニシノミト)とし、没利島・阿閉島(モトリシマ・アヘシマ・・下関近くの島々か)だけを御筥(ミハコ・丸い箱であるが、ここでは穀物を提供する二島を指している)とし、柴島を割いてミナヘ(瓶の意味らしいが、ここでは魚菜を提供する島のことらしい)とし、逆見海(サカミノウミ・北九州市辺りの海岸の一部を指すか)を塩地といたしましょう」と申し上げた。
こうして、熊鰐は海路を案内し、山鹿岬(ヤマカノサキ・筑前国)から廻って岡浦に入った。水門(ミナト・湊や河口の入り口)に至ると、御船が進むことが出来なくなった。
天皇は熊鰐に尋ねられた。「私が聞いているには、お前は清い心を持って迎えに来たと。何ゆえ船が進まないのか」と。
熊鰐は、「御船が進まないのは、私めの罪ではありません。この浦の入り口に男女二柱の神がいます。男神を大倉主といい、女神をツブラ媛といいます。きっとこの神の御心でしょう」と申し上げた。
天皇は、ただちにお祈りになり、船頭の倭国の菟田(ウダ)の人である伊賀彦を祝(ハフリ・神主のような役)としてお祭りさせた。すると、たちまち船は進んだ。
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