「一日の長(イチジツノチョウ/イチニチノチョウ)」ということわざがあります。言葉の意味は、単純に「少し年上」として使われることもあるようですが、一般的には、「経験や技量が相手より少し優れていること」といった意味で使われるのが普通です。
ことわざとしてはよく知られている方だと思うのですが、最近ではあまり耳にしないようです。ただ、このことわざをベースにしたというわけではありませんが、「年齢によって上下関係を厳しく守らせる」という手法は、わが国では広く行われてきました。
例えば、わが国で長く定着してきた「年功序列」「年齢給」といった企業等における身分や給与の体制は、多くの批判を受け、「職能給」「実力主義」といった考え方に押しまくられているようですが、未だに姿を消し去ってはいません。
学校のスポーツクラブなどでよく見られる、先輩・後輩の関係も、似たような部分があります。
以前に、ある人の講演でこんな話を聞いた記憶があります。
「高齢者と言われる年齢になれば、体力的にも、能力・気力ともに下降線をたどることは避けられない。しかし、年齢を重ねるほどに見えてくるものもある。複雑な見方をする能力が生まれてくる部分もある」といった内容でした。
かつて、私たちの祖先の社会には、一家ごとに、また、村ごとに「長老」といわれる存在の人がいて、その経験に基づく知識を大切にする風潮があったようです。
誰も彼もが長老になれるわけではないのでしょぅが、「一日の長」という考え方も働いていたのかもしれません。
折から、新型コロナウイルスによる感染症の拡大は、いよいよ厳しい状況になってきました。
首都圏を中心に緊急事態宣言が再び出されるようですが、さて、どのような具体策が示されるのでしょぅか。
前回の時には、緊急事態宣言の前に学校を全面閉鎖させるといった思い切った手段が打ち出され、その後も、緊急事態宣言も含めて、多くの施策は試行錯誤を重ねながらも、結果オーライの状態を実現させることが出来ました。あれからの半年余り、途中で第二波らしいものも経験しながら、私たちはどれだけのものを学んできたのでしょうか。
半年前に比べ、ワクチンは実現しつつありますが、医療体制は切迫した状況は改善されておらず、さて私たちは、対コロナに関しては、「一日の長」の教えは何の役にも立たなかったのでしょうか。
緊急事態宣言において、これまでとは違う斬新かつ効果的な対策が打ち出されることを期待していますが、もし、そうしたものがない場合には、現時点においては、これまでに防止対策として有効とされてきた手段以上のものは無いということになります。
そうだとすれば、それらの手段を私たちは愚直に守っていくしか対策はないということになります。ただ、その場合でも、私たちは一年近くの経験というものがあります。「一日の長」の何百回か分になるほどの経験です。つまり、私たちは誰もが、コロナ社会を最も経験しているのです。それを生かして、ひとりひとりが「対コロナの長老」として知恵を働かせることこそが、この難儀に打ち勝つことが出来る秘策ではないかと思うのです。
ところで、この「一日の長」という言葉は、孔子の「論語」が出典だそうですが、この言葉は自らの謙遜と共に用いる言葉なのだそうです。
感染対策には、「対コロナの長老」としての行動を率先するとともに、このウィルスに対して謙虚であることも忘れてはならないようです。
( 2021.01.07 )
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