雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

自らの決断を ・ 小さな小さな物語 ( 62 )

2010-01-20 19:38:03 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
臓器移植法改正案が国会で審議されています。
大変微妙な問題を含んでいますので、個人的な意見は差し控えるべきだと思ってきましたが、同時に、それだからこそ国民の多くがもっと関心を持ち、立法府も広く一般国民の意見を聴取する必要があるように思われます。
いくら選挙で選ばれた国会議員だとしても、人間の尊厳にかかわる問題までも白紙委任されているわけではないように思うからです。


この問題、すなわち臓器移植に関する問題の難しいところは、医学的見地、あるいは科学的見地からだけでは絶対に公平と思われる結論は出ないと思われるからです。
医学的見地に立てば、現代医学では臓器移植以外に救われる方法がない人々が大勢いるという事実があります。わが国で治療できないため海外に救いを求めていった人々がいる事実があります。お金の力でその国の患者の治療機会を奪っているのではないかという意見もあります。
しかし、同時に、臓器移植については、どの状態をもって人間の死とするのか、という問題を避けて通ることができません。そして、それは、いくら立派な学者や国家の指導者が意見を陳述されても、まったく受け入れることができない人も少なくないのです。


私たちの肉体は、およそ六十兆個という細胞から成り立っているそうです。
そして、その細胞は毎日何百億、何千億個という単位で死んでいっています。もちろん同じように新しい細胞が生まれ、私たちの肉体は維持されています。死んでいく膨大な数の細胞は、人間という個体の死とは結びついていません。しかし、細胞の死は、やはり死です。
これまで先人たちは、心臓の停止、呼吸の停止、瞳孔の散大の三つをもって死と考えてきました。しかし、この考え方を人間の死と決めてしまうと、心臓、肝臓、肺などの臓器移植は死者からはいただけないことになってしまうのです。


その解決手段として「脳死」という概念が生まれてきたのです。もちろんそれは、科学的な裏付けがされてのことですが、「脳死」を人間の死と考えようとする必要性の大きな理由は、臓器移植という医学的必要性であることは否定できないと思うのです。
しかし、「脳死」をもって人間の死とするという考え方に、どうしても納得できない人が少なくありません。宗教的に、哲学的に、あるいは人間の尊厳の問題として、などと意見を述べられる人もいますし、現に呼吸している愛している人を「脳死」という一言で諦めることなどできないのも、人情というものではないでしょうか。
結局、自らの死にあたって、可能な限り臓器を提供したいという人々によって臓器移植治療は守られるのではないでしょうか。いくら法治国家だといっても、法律で伝統的な死の概念を全面否定することは無謀だと思うのです。
「脳死」をもって自らの死と認め、臓器を提供することによって救われる命があることを、嬉しく思い誇りに思う人も決して少なくないはずです。

( 2009.06.18 )

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