キャットスマイル
⑦ 家路を求めて
トラはお母さんに抱きしめられて、小さく二度ばかり鳴いた。
その後は、大騒ぎする皆の動きに反応することなく、じっとしていた。
ボクはお姉さんに抱きあげられ、チビは誰にも相手にされなかったが、お母さんの足にまつわりついていた。
みんなが、トラがお腹を空かしているのではないかとしきりに心配したが、お母さんはトラを抱きしめて、なかなか離そうとしなかった。
*
ようやく少し落ち着いたお母さんは、トラを両手で持ち上げて、「こんなに汚れてしまって・・・」とまだ泣き声のままで、それでも少し微笑んだ。
そして、それからのお母さんは、矢継ぎ早に命令を出し始めた。
「お父さん、洗面器にお湯を入れてくださいな」
「お姉さん、トラはお腹を空かしているのよ、早く何か食べさせないといけないわよ。スープか何かが良いわね」
「チビくんも、チロくんも、じゃまをしては駄目よ」
と、次々に指示を出している。確か先ほどまでいたと思ったお兄さんはいなくなっていたが、お母さんの口ぶりを聞いていると、この家の大将は、やはり思っていた通りお母さんのようだ。
やがてトラは、全身を濡れタオルでごしごしと拭かれた。
一目見た時から、「痩せたな」と感じていたが、濡れタオルで拭かれると一層小さくなってしまった。トラはもともと痩せているが、頭から尻尾の先までの長さはとても長大で、あたりを威圧するような威厳に満ちていた。
それが、全身が濡れて毛並みが張り付いてしまったこともあって、とても小さく感じられて、それがとても悲しかった。
お姉さんが器に食事を入れて持ってきた。いつもの缶詰を水を加えて温めスープ状にしたものらしく、とても良い匂いが漂っていた。
「もう、熱くないと思うわ。ゆっくりと食べるのよ」
と、お姉さんはトラの前に置いた。
トラは、二、三歩食器に近づくと、ブルブルッと全身を震わせた。濡れタオルで拭いただけだが、それでもずいぶんと水分を含んでいたらしく、あたりに水滴が散った。
「ワアッ、大変」
と、お姉さんもお母さんも大声を出したが、トラの体は大分膨らみを取り戻し、特に尻尾はふさふさと逞しさを取り戻した。
そして、トラがやおら食器に顔を近づけると、その横からチビが大きな頭を押し付けて行った。トラは、チビに視線をやったが、何かを思い出したかのように、その場を譲ろうとした。
「だめよ、チビ!」
とお姉さんは厳しくチビを叱った。
当たり前でしょう、とボクは思った。いったいチビは何を考えているのだろうか、こんなときでもトラの食事を狙うなんて、まったく。
まあ、チビの図々しい行動のお陰で、ボクたちもお相伴できたのだが。
その夜は、トラはいつもの指定席で横になった。
自分の城をしっかりと覚えていたようだが、すぐには寝付けないらしく、何度も寝がえりを打っていた。ボクも気になって眠れなかったが、チビも同じらしく、トラに近づいていったが、どうやらトラは誰も近くに寄せつけたくないらしく、チビはボクの近くに戻ってきて、トラの方を見ながら腹這いになった。
その後もチビは寝付けない様子に思われたが、もしかすると、チビは一晩中トラを見守っているつもりだったのかもしれない。
図々しいし、食いしん坊だし、どうしようもない奴だけれど、このあたりがチビのいいところなんだろう。
翌朝、お母さんは、起きてくると最初にトラを見つけると、「いた、いた」と頭を撫でて、「もう、どこへも行っちゃだめよ」と、何度も何度も話しかけた。
ボクもチビも近くまで寄って行っているのに、まるで気がつかないように無視して、ひたすらチビと話し続けている。
しばらく経ってから、ようやくボクたちに気がついたのか、「あら、どうしたの? チビもチロも、お腹が空いたの?」と、お愛想みたいな声をかけてきた。
いつもより早い食事は、全員が昨夜トラが食べたのと同じようなスープだった。
トラは、さすがにお腹が空いていたらしく、いつになく早く食べ終わり、例によってチビが横取りするために頭を押し付けて行った時には、もう食べ終わっていた。するとチビは、今度はボクの食器を狙って迫ってきたが、ボクはトラとは違い、簡単に取られたりしない。
チビは不満そうに、もう一度チビの食器を覗いて何もないことを確認すると、お母さんに追加を請求した。トラも、まだ食べ足りない様子だったので、全員にいつもの缶詰を追加してくれた。
ひとしきり食べ終わると、チビは外に出て行ったが、遠くに行く気はないらしく、テラスに寝そべって部屋の中を見ていた。トラを見守っているつもりかもしれない。
ボクは自分の寝床近くで座っていたが、トラは次々と起きてくる人たちに声をかけられ、嬉しそうな、そして迷惑そうな声を出していたが、やがて朝の慌ただしい時間が過ぎると、いつもの定位置である食卓の下で横になり、この日は食事とトイレ以外は一日中眠っていた。
トラがようやく元気を取り戻したのは、三日経った頃からだった。
それまでは、ボクやチビが近付くのを嫌がっている様子だったので、ボクは近くまで行っても体を寄せるのを遠慮していたが、その点チビは違う。奴には遠慮なんて感覚はないらしく、トラが嫌がっても大きな頭を押し付けて行く。トラがはっきりと拒絶の低い声を出すと、ようやくあきらめて離れるが、すぐ近くで寝そべっていたり眠ってしまったりする。外へ出て行くのはいつも通りだが、遠くへは行かないらしくすぐに戻って来る。そしてトラに頭を押し付けては叱られている。
トラに変化があったのは、帰ってきてから四日目の朝の食事の後、トラは自分の指定席で寝そべり、ボクは自分の寝床近くで毛繕いをしていた。
チビはいつものように外に出て行ったが、すぐに戻って来ると、当然のようにトラに大きな頭を押し付けて行った。すると、昨日まで嫌がっていたトラが、チビの大きな頭を舐めはじめたのである。チビは、のどを鳴らしてさらに体を押し付けて行った。
ボクも、慌ててトラに近づき、チビを押しのけるようにトラに頭を押し付けた。
トラは、チビより遥かに小さなボクの頭を舐めてくれ、ボクがトラのお腹のあたりを舐めようとしても怒らなかった。
三匹は、互いに体を寄せ合って、互いに頭や足や体を舐めあった。
トラが、家に帰って来なかった間のことを断片的に話し始めたのは、それからのことである。
家の庭から飛び出したトラは、隣家の庭も突っ切ってその次の家の高い塀も越えた。
後ろからネコが戦う大きな声が聞こえていたが、別にそれから逃れるつもりなどなかったが、反射的に走りだしていたのである。
今から思うと、駆け込んだ何軒目かの家で犬と遭遇したことが、道に迷ってしまった最初の原因となった。その犬は、チビと大して大きさの変わらない程度の大きさの白っぽい犬で、しかも紐で繋がれていたのだが、これでもかというほど激しく吠えかけてきたのである。
何分知らない家に入りこんでしまった弱みのあるトラは、一目散に逃げ出して、道路や公園などを突っ切って草原のような所に出た。もしかすると、畑だったのかもしれない。
そこでしばらく休んだ後、走ってきた通りに戻ろうとしたが、犬のいる家を避けるために少し方向を変えた。どうも、それがとんでもない方向に向かわせたらしい。
夕暮れてきて、懸命に走ったが、とうとう自分がどこを走っているのか分からなくなってしまった。
夜はどこかの林の中で少しばかり眠り、水は川の水を飲んだ。空腹が激しくなり、何かを捕まえて食べてみたが、とても食べられそうにも思えないのをむりやり飲み込んだが、しばらくするとむかむかして吐き出してしまった。激しい下痢もしてしまった。
その後は、食べ物はあきらめ、水だけは何でもいいから口にした。
次の夜も少しうとうとしたが、下痢の後は体力が奪われたらしく、足が少し震えるようになった。
しかし、とにかく家が集まっているところを探し、何か目印がないか探した。
日頃家からあまり離れたことがないので、見覚えのある景色は限られたもので、それらしいと思って知って近づくと、まったく違う家だった。
走ってはうずくまり、少しばかり眠ると少しばかり体力が回復して、帰り道を探した。急がなくてはと思うが、もう走ることが出来なくなっていた。
小さな誰も住んでいないらしい小屋があったので、その軒下で体を休めた。もう、動けそうもないので、ここでぐっすりと眠ることにしようと思った。
どのくらい眠っていたのか、何かの声を聞いて目が覚めた。あたりはすでに薄暗くなっていた。頭を持ち上げて周りを見回したが誰の姿も見えなかった。気のせいかと思って、再び頭を腹のあたりに入れようとすると、今度ははっきりと聞こえてきた。
「トラ、さあ、起きるんだ。みんな待っているから、帰るんだ」
「お兄さんの声だ」と、思った。姿は見えなかったが、その声は確かにお兄さんの声だ。
「ニャオー」と、大きな声で鳴いて立ち上がった。しかし、その声は自分でもびっくりするほど弱々しくなっていた。
「よし、立てたな、さあ、走るんだ。みんなが待っている家に向かって走るんだ」
やはり、お兄さんの声に間違いなかった。
「ニャオー、ニャオー」と、帰り道が分からないことを告げた。
「大丈夫だよ、さあ、こっちだ」
トラは声のする方に向かって走ったが、すぐに足がもつれてしまって、うずくまってしまった。
「トラ、元気を出して、ゆっくりでいいから進むんだ。みんなが待っているんだから、こんな所で倒れてはいけない」
と、お兄さんは励まし、その声が少し離れて行った。
トラは立ち上がった。よろよろと声に向かって必死に走った。苦しくなって座りこむと、お兄さんの声がまた聞こえてきた。
何度か、何十度か覚えていないが、そんなことを繰り返した。
そして、ある家の角を曲がった時、確かに見覚えのある光景が、うすぼんやりと街灯の中に浮かんでいた。
「ニャオー、ニャオー」
「そうだよ、あそこがお前が帰る家だよ。さあ、あと少しだ、お前の家に向かって走るんだ」
トラは、よろよろと、しかし懸命に走りだした。
お兄さんの声はそれが最後だった。
*
トラの話を聞いた夜は、三匹が集まって寝た。
いつもトラが寝る場所に、チビもボクも体を寄せ合って眠った。こんなことは、ボクがこの家にきてから初めてのことだった。
「お母さん、見て! この子たち一緒に寝ているよ」
お姉さんが大きな声でお母さんを呼んでいる。ボクは夢の中のような気持ちでその声を聞き、「ああ、この家に来ることが出来てよかったなあ」と思いながら、深い眠りに落ちて行った。
「ほら、お母さん、チロ、笑っているよ。きっと何か良い夢見ているんだね、きっと・・・」
* * *
⑦ 家路を求めて
トラはお母さんに抱きしめられて、小さく二度ばかり鳴いた。
その後は、大騒ぎする皆の動きに反応することなく、じっとしていた。
ボクはお姉さんに抱きあげられ、チビは誰にも相手にされなかったが、お母さんの足にまつわりついていた。
みんなが、トラがお腹を空かしているのではないかとしきりに心配したが、お母さんはトラを抱きしめて、なかなか離そうとしなかった。
*
ようやく少し落ち着いたお母さんは、トラを両手で持ち上げて、「こんなに汚れてしまって・・・」とまだ泣き声のままで、それでも少し微笑んだ。
そして、それからのお母さんは、矢継ぎ早に命令を出し始めた。
「お父さん、洗面器にお湯を入れてくださいな」
「お姉さん、トラはお腹を空かしているのよ、早く何か食べさせないといけないわよ。スープか何かが良いわね」
「チビくんも、チロくんも、じゃまをしては駄目よ」
と、次々に指示を出している。確か先ほどまでいたと思ったお兄さんはいなくなっていたが、お母さんの口ぶりを聞いていると、この家の大将は、やはり思っていた通りお母さんのようだ。
やがてトラは、全身を濡れタオルでごしごしと拭かれた。
一目見た時から、「痩せたな」と感じていたが、濡れタオルで拭かれると一層小さくなってしまった。トラはもともと痩せているが、頭から尻尾の先までの長さはとても長大で、あたりを威圧するような威厳に満ちていた。
それが、全身が濡れて毛並みが張り付いてしまったこともあって、とても小さく感じられて、それがとても悲しかった。
お姉さんが器に食事を入れて持ってきた。いつもの缶詰を水を加えて温めスープ状にしたものらしく、とても良い匂いが漂っていた。
「もう、熱くないと思うわ。ゆっくりと食べるのよ」
と、お姉さんはトラの前に置いた。
トラは、二、三歩食器に近づくと、ブルブルッと全身を震わせた。濡れタオルで拭いただけだが、それでもずいぶんと水分を含んでいたらしく、あたりに水滴が散った。
「ワアッ、大変」
と、お姉さんもお母さんも大声を出したが、トラの体は大分膨らみを取り戻し、特に尻尾はふさふさと逞しさを取り戻した。
そして、トラがやおら食器に顔を近づけると、その横からチビが大きな頭を押し付けて行った。トラは、チビに視線をやったが、何かを思い出したかのように、その場を譲ろうとした。
「だめよ、チビ!」
とお姉さんは厳しくチビを叱った。
当たり前でしょう、とボクは思った。いったいチビは何を考えているのだろうか、こんなときでもトラの食事を狙うなんて、まったく。
まあ、チビの図々しい行動のお陰で、ボクたちもお相伴できたのだが。
その夜は、トラはいつもの指定席で横になった。
自分の城をしっかりと覚えていたようだが、すぐには寝付けないらしく、何度も寝がえりを打っていた。ボクも気になって眠れなかったが、チビも同じらしく、トラに近づいていったが、どうやらトラは誰も近くに寄せつけたくないらしく、チビはボクの近くに戻ってきて、トラの方を見ながら腹這いになった。
その後もチビは寝付けない様子に思われたが、もしかすると、チビは一晩中トラを見守っているつもりだったのかもしれない。
図々しいし、食いしん坊だし、どうしようもない奴だけれど、このあたりがチビのいいところなんだろう。
翌朝、お母さんは、起きてくると最初にトラを見つけると、「いた、いた」と頭を撫でて、「もう、どこへも行っちゃだめよ」と、何度も何度も話しかけた。
ボクもチビも近くまで寄って行っているのに、まるで気がつかないように無視して、ひたすらチビと話し続けている。
しばらく経ってから、ようやくボクたちに気がついたのか、「あら、どうしたの? チビもチロも、お腹が空いたの?」と、お愛想みたいな声をかけてきた。
いつもより早い食事は、全員が昨夜トラが食べたのと同じようなスープだった。
トラは、さすがにお腹が空いていたらしく、いつになく早く食べ終わり、例によってチビが横取りするために頭を押し付けて行った時には、もう食べ終わっていた。するとチビは、今度はボクの食器を狙って迫ってきたが、ボクはトラとは違い、簡単に取られたりしない。
チビは不満そうに、もう一度チビの食器を覗いて何もないことを確認すると、お母さんに追加を請求した。トラも、まだ食べ足りない様子だったので、全員にいつもの缶詰を追加してくれた。
ひとしきり食べ終わると、チビは外に出て行ったが、遠くに行く気はないらしく、テラスに寝そべって部屋の中を見ていた。トラを見守っているつもりかもしれない。
ボクは自分の寝床近くで座っていたが、トラは次々と起きてくる人たちに声をかけられ、嬉しそうな、そして迷惑そうな声を出していたが、やがて朝の慌ただしい時間が過ぎると、いつもの定位置である食卓の下で横になり、この日は食事とトイレ以外は一日中眠っていた。
トラがようやく元気を取り戻したのは、三日経った頃からだった。
それまでは、ボクやチビが近付くのを嫌がっている様子だったので、ボクは近くまで行っても体を寄せるのを遠慮していたが、その点チビは違う。奴には遠慮なんて感覚はないらしく、トラが嫌がっても大きな頭を押し付けて行く。トラがはっきりと拒絶の低い声を出すと、ようやくあきらめて離れるが、すぐ近くで寝そべっていたり眠ってしまったりする。外へ出て行くのはいつも通りだが、遠くへは行かないらしくすぐに戻って来る。そしてトラに頭を押し付けては叱られている。
トラに変化があったのは、帰ってきてから四日目の朝の食事の後、トラは自分の指定席で寝そべり、ボクは自分の寝床近くで毛繕いをしていた。
チビはいつものように外に出て行ったが、すぐに戻って来ると、当然のようにトラに大きな頭を押し付けて行った。すると、昨日まで嫌がっていたトラが、チビの大きな頭を舐めはじめたのである。チビは、のどを鳴らしてさらに体を押し付けて行った。
ボクも、慌ててトラに近づき、チビを押しのけるようにトラに頭を押し付けた。
トラは、チビより遥かに小さなボクの頭を舐めてくれ、ボクがトラのお腹のあたりを舐めようとしても怒らなかった。
三匹は、互いに体を寄せ合って、互いに頭や足や体を舐めあった。
トラが、家に帰って来なかった間のことを断片的に話し始めたのは、それからのことである。
家の庭から飛び出したトラは、隣家の庭も突っ切ってその次の家の高い塀も越えた。
後ろからネコが戦う大きな声が聞こえていたが、別にそれから逃れるつもりなどなかったが、反射的に走りだしていたのである。
今から思うと、駆け込んだ何軒目かの家で犬と遭遇したことが、道に迷ってしまった最初の原因となった。その犬は、チビと大して大きさの変わらない程度の大きさの白っぽい犬で、しかも紐で繋がれていたのだが、これでもかというほど激しく吠えかけてきたのである。
何分知らない家に入りこんでしまった弱みのあるトラは、一目散に逃げ出して、道路や公園などを突っ切って草原のような所に出た。もしかすると、畑だったのかもしれない。
そこでしばらく休んだ後、走ってきた通りに戻ろうとしたが、犬のいる家を避けるために少し方向を変えた。どうも、それがとんでもない方向に向かわせたらしい。
夕暮れてきて、懸命に走ったが、とうとう自分がどこを走っているのか分からなくなってしまった。
夜はどこかの林の中で少しばかり眠り、水は川の水を飲んだ。空腹が激しくなり、何かを捕まえて食べてみたが、とても食べられそうにも思えないのをむりやり飲み込んだが、しばらくするとむかむかして吐き出してしまった。激しい下痢もしてしまった。
その後は、食べ物はあきらめ、水だけは何でもいいから口にした。
次の夜も少しうとうとしたが、下痢の後は体力が奪われたらしく、足が少し震えるようになった。
しかし、とにかく家が集まっているところを探し、何か目印がないか探した。
日頃家からあまり離れたことがないので、見覚えのある景色は限られたもので、それらしいと思って知って近づくと、まったく違う家だった。
走ってはうずくまり、少しばかり眠ると少しばかり体力が回復して、帰り道を探した。急がなくてはと思うが、もう走ることが出来なくなっていた。
小さな誰も住んでいないらしい小屋があったので、その軒下で体を休めた。もう、動けそうもないので、ここでぐっすりと眠ることにしようと思った。
どのくらい眠っていたのか、何かの声を聞いて目が覚めた。あたりはすでに薄暗くなっていた。頭を持ち上げて周りを見回したが誰の姿も見えなかった。気のせいかと思って、再び頭を腹のあたりに入れようとすると、今度ははっきりと聞こえてきた。
「トラ、さあ、起きるんだ。みんな待っているから、帰るんだ」
「お兄さんの声だ」と、思った。姿は見えなかったが、その声は確かにお兄さんの声だ。
「ニャオー」と、大きな声で鳴いて立ち上がった。しかし、その声は自分でもびっくりするほど弱々しくなっていた。
「よし、立てたな、さあ、走るんだ。みんなが待っている家に向かって走るんだ」
やはり、お兄さんの声に間違いなかった。
「ニャオー、ニャオー」と、帰り道が分からないことを告げた。
「大丈夫だよ、さあ、こっちだ」
トラは声のする方に向かって走ったが、すぐに足がもつれてしまって、うずくまってしまった。
「トラ、元気を出して、ゆっくりでいいから進むんだ。みんなが待っているんだから、こんな所で倒れてはいけない」
と、お兄さんは励まし、その声が少し離れて行った。
トラは立ち上がった。よろよろと声に向かって必死に走った。苦しくなって座りこむと、お兄さんの声がまた聞こえてきた。
何度か、何十度か覚えていないが、そんなことを繰り返した。
そして、ある家の角を曲がった時、確かに見覚えのある光景が、うすぼんやりと街灯の中に浮かんでいた。
「ニャオー、ニャオー」
「そうだよ、あそこがお前が帰る家だよ。さあ、あと少しだ、お前の家に向かって走るんだ」
トラは、よろよろと、しかし懸命に走りだした。
お兄さんの声はそれが最後だった。
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トラの話を聞いた夜は、三匹が集まって寝た。
いつもトラが寝る場所に、チビもボクも体を寄せ合って眠った。こんなことは、ボクがこの家にきてから初めてのことだった。
「お母さん、見て! この子たち一緒に寝ているよ」
お姉さんが大きな声でお母さんを呼んでいる。ボクは夢の中のような気持ちでその声を聞き、「ああ、この家に来ることが出来てよかったなあ」と思いながら、深い眠りに落ちて行った。
「ほら、お母さん、チロ、笑っているよ。きっと何か良い夢見ているんだね、きっと・・・」
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