雅工房 作品集

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運命紀行  人の心を種として

2012-08-05 08:00:06 | 運命紀行
       運命紀行

          人の心を種として


『やまと歌は 人の心を種(タネ)として よろづの言の葉とぞなれりける。
  世の中にある人 こと わざ しげきものなれば 心に思ふことを
  見るもの聞くものにつけて 言ひいだせるなり。

  花に鳴く鶯 水に住む蛙(カハヅ)の声を聞けば 生きとし生けるもの
  いづれか歌をよまざりける。

  力をも入れずして 天地を動かし 目に見えぬ鬼神をも あはれと思はせ
  男女のなかをも やわらげ 猛きもののふの心をも 慰むるは 歌なり。

  この歌 天地の開け始まりける時より いできにけり ・・・・・   』

これは、「古今和歌集」の仮名序の冒頭部分である。
「古今和歌集」は、わが国最初の勅撰和歌集であり、この後、二十一代集とも呼ばれる数多くの勅撰和歌集が編纂されていくが、それらに大きな影響を与えた和歌集といえる。

わが国の歌集といえば、万葉集が最古のものであり、その存在感には圧倒的なものがある。万葉仮名という特別な手法も加えて、やまと歌を今日に伝えている。しかし、その中心を成しているものは長歌である。短歌も数多く載せられていて、今日なお名歌として伝えられているものも多いが、それらは主として反歌として作られたもので、長歌優位の感が強い。

「古今和歌集」に収録されている歌は、そのほとんどが短歌で占められている。つまり、このわが国最初の勅撰和歌集は、やまと歌、つまり和歌とは短歌を指すという先鞭となったように思われる。
そして、この歌集誕生に際して重要な役割を担ったのが、紀貫之である。

「古今和歌集」は、醍醐天皇の勅命により編纂されたもので、撰者には紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の四人が任じられた。当初は紀友則が筆頭であったようであるが、途中で没したため紀貫之が筆頭であったらしい。
編纂されたものは、延喜五年(905)四月に奏上されたが、その後に詠まれた作品も収録されていることから、奏上後も修正がなされたらしく、実際の完成は延喜十二年(912)の頃ともいわれている。

総作品集は1111首。長歌5首、施頭歌4首の他はすべて短歌である。冒頭に挙げた紀貫之による仮名序と紀淑望による真名序が載せられている。
作者としては、万葉の時代から伝えられているものも多く加えたこともあってか、「詠み人知らず」とされているものが四割を占めている。収録数の最も多いのは紀貫之の102首と群を抜いており、凡河内躬恒の60首、紀友則46首、壬生忠岑36首と撰者四人の作品が二割以上を占めている。
後世、「古今和歌集」の文学的価値を低評価する文学者が出ているが、この収録の片寄りにも一因があるかもしれない。
ただ、平安王朝期においては、「古今和歌集」の全作品を暗誦し理解することが教養の一つとして重視されていたし、紀貫之の仮名序は、その後の文学に大きな影響を与えたことは確かであると考えられる。

「古今和歌集」の編纂に重きを成した紀貫之は、三十代の半ばの頃であったろうか。
撰者に選ばれることからして、すでに和歌の上手として知られていたのであろうが、宮廷での身分は高くなかった。
紀氏は、古くからの豪族ではあるが、朝廷は藤原氏が激しい競争を繰り広げている時代であった。
紀貫之はまだ貴族の身分には遠く、下級官僚として忍従の時を送りながら、やまと歌の未来に夢を描いていたのかもしれない。


     * * *

紀貫之の生年は、はっきりしていない。本稿では貞観十四年(872)とするが、八年、十年、十三年、十六年など諸説がある。
歌人としては早くから認められていたらしいことは推察できるが、若い頃の公的な資料は残されていない。
紀氏は、古代から伝わる名門豪族であるが、先に述べたように、藤原氏の台頭とともに一族の力は衰え、貫之の頃には、軍事的、政治的な面での勢力は、ごく限られたものになっていた。

延喜五年(905)に、わが国最初となる勅撰和歌集の撰者に選ばれるが、その頃はまだ六位以下の下級官吏に過ぎなかった。三十四歳の頃と考えらるが、当時としてはすでに脂の乗り切った年齢といえる。
古今和歌集は同年四月十八日に醍醐天皇に奏上されたとされているので、撰者の選定などはもっと早い時期であったのかもしれない。
古今和歌集はその後も修正が続けられたらしく、実際の完成は延喜十二年(912)の頃とも言われているので、その間は貫之もその任にあたっていたと考えられる。

貫之が、貴族の末席といえる従五位下に昇進したのは、延喜十七年(917)年のことで、四十六歳の頃である。古今和歌集完成からすでに五年を経ており、天皇自ら命じた勅撰和歌集を完成させた評価は意外に低いものであったのか、それとも貫之の官位が相当低かったのかもしれない。
その後、加賀介、美濃介等々に就いたあと、延長八年一月に土佐守となり、中下級の貴族としては一つの目的ともいえる国司に任じられている。
そして、承平五年二月に任を終えて京に戻るが、その時の様子を描いたのが「土佐日記」である。

天慶六年(943)一月、従五位上に昇叙、じつに、官位を一段上るのに二十六年を要したのである。
天慶八年(945)三月に就いた、木工権頭が最終の役職である。
そして、同年五月十八日に没したとされる。享年、七十四歳の頃であったか。

『 人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける 』
これは、小倉百人一首に採録されていることもあって、現代人によく知られている紀貫之の和歌である。
しかし、その他にということになれば、よほど彼やこの時代に興味があるか研究している人以外は、簡単に上げることが出来ないのではないだろうか。もっとも、彼に限らず、同時代の他の歌人にして同じかもしれないが、実は、この時代の歌人としては相当抜きん出ていた存在なのである。
例えば、「古今和歌集」に採録されている数が最も多いことはすでに述べたが、これに続く勅撰和歌集である「後撰和歌集」「拾遺和歌集」の三つを三代集というが、そのいずれでも収録されている和歌の数は、第一位なのである。

理知的な歌風は高い評価を受けており、古今和歌集が当時の教養書であったことなどから、当時の文学会の最高峰に位置していたと考えられる。
その例として挙げるなら、「大納言藤原師輔が父の太政大臣藤原忠平への返礼に添える和歌の代作を頼むために、五位の下級貴族に過ぎない紀貫之の屋敷に足を運んだという」「紀貫之の詠んだ歌の力で、幸運が持たされたという伝説が幾つもあるという」

また、紀貫之と聞けば、むしろ「土佐日記」の方が連想されるかもしれない。
『 男もすなる日記(ニキ)というものを、女もしてみんとてするなり・・・ 』で始まるこの作品は、日記文学という分野を生み出す役割を果たしているが、それ以上に、古今和歌集の仮名序とともに、仮名による文学の可能性を世に示したものであって、その後の宮廷を中心とした女流文学に大きな影響を与えたことは紛れもあるまい。

しかし、平安時代最高の文学者も、官人としては恵まれない生涯だった。貴族としては最下級の五位から脱出することが出来ないまま生涯を終えている。
そして、遥か千年にも近い時を経た明治三十七年(1904)に、従二位が贈られている。
『贈従二位』というのが、現在の紀貫之の冠位ともいえるが、あまりにも遅い栄誉である。

                                         ( 完 )

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