『 再び上陸か? 』
紀伊半島沖にある 台風10号は
再び上陸する可能性が 高いようだ
予想されているコースを 進めば
東海・近畿辺りは かなりの影響が心配されるが
この台風の特徴として 離れている地域での被害が
中心地と変らないほど 発生している
当ブログも 6日続けてテーマにしているが
影響が予想される地域の方々 今しばらくは
くれぐれも 慎重な行動を!!
☆☆☆
『 小さな小さな物語 目次 』
NO.1741 ちょっとした出会い
1742 痛いの痛いの飛んで行け
1743 経験から学ぶもの
1744 討たれし公達哀れ
1745 青葉茂れる
1746 天才誕生の背景
1747 人生という稜線
1748 願いに差はないように見えるが
1749 自分らしく生きられる時間
1750 免疫力を高める
1751 桜前線停滞中
1752 後悔は先に立たないが
1753 別れと出会いの季節
1754 覚悟は有るや無しや
1755 落とし所
1756 踏み止まるチャンス
1757 虹を見るためには
1758 指導者の条件
1759 嘘も方便なのか?
1760 孤高の星
いつも拝見しているブログの中に、『おめでたいことだが、少し寂しい』といった記事に出会いました。
そのお方は、三週間余り前に手術されて、現在はリハビリに頑張っておいでです。ご本人も言われていますが、「命に別状のない部分の手術」ではありますが、相当の大手術ですのに、病院での様子を実に明るく伝えていらっしゃいます。蔭ながら無事を祈っているつもりだったのですが、実際は、その明るさに元気をもらっています。
そのお方が、病室で知り合った人が退院していくにあたって、「知り合えたことに感謝。おめでたいことだが、別れることは寂しい」といったことを記されていました。
( 許可を得ないで勝手に引用させていただきました。ご勘弁下さい。)
「一期一会」という言葉があります。
この言葉は、千利休の言葉とされていますが、茶席に臨む際の心構えとして諭した言葉のようです。つまり、「その機会は、二度と繰り返されることのない一生に一度の出会いと心得て、亭主も客も互いに誠意を尽くす心構え」を表現しているようです。
現在でも、この言葉にお目に掛かる機会は多いですが、茶会など限られた場面に限らず、「人との出会いを大切にしなさい」といった意味で使われているようです。また、「一生に一度だけの機会」といった意味で使われることもあるようです。
現在は、千利休の時代に比べますと、交通手段も、通信手段も桁違いに広がっていますが、それでも、私たちが一生の間に出会う人の数は限られています。たとえ数日の、それも会っている時間にすればごくごく短いものであっても、「別れるのが少し寂しい」という出会いをしたいものです。
しかし、私たちは、知らないうちに他人を傷つけていることは少なくないようです。時には、ちょっとした心ない言動が、ある人の生涯にわたっての傷になったり、時には生死に関わってしまうことさえあるものです。
もちろん、人の出会いは五分と五分ですから、相手の意志にかかわらず、自分が大きな屈辱を感じたり、大変な憎悪を抱くこともあるかも知れません。「人を憎むのも自分、人を許すのも自分」と教えて下さった先輩もおりますが、なかなか簡単なことではありません。
「君子の交わりは淡きこと水の如し」という言葉は、中国の古典「荘氏」の中にある言葉ですが、「君子の交わりは淡泊で、小人の交わりは濃密」と対比されていますが、おそらく、「立派な人どうしの交わりは、営利や情愛などの絡まない」ものであって、大切なことは、「水の如く、いつまでも変らない」ということだと思うのです。
私たちは、生涯に何人の人と出会うのでしょうか。出会いの基準をどこに置くかによってその数は大きく変るのでしょうが、確かなことは、「出会いの数だけ別れがある」ということです。
生涯のうちの長い時間を共にする人もいます。ごく短い期間であっても、とても心に刻み込まれる人もいます。この身に替えても守りたいと思う人もいれば、たとえ自分の一生が破滅してもあいつだけは許せないという人と出会ってしまうかも知れません。
けれども、出会った相手のすべてが、それぞれの命があり生涯があるのです。自分と同じように、もしかするとそれ以上に、懸命の生涯を模索しているのです。
接する期間が長くとも短くとも、私たちは、この世を去ることによって、すべての出会いを清算することになります。ちょっとした「あたたかな出会い」をもっともっと大切にしなければならないと思うのです。
( 2024 - 02 - 24 )
とても怖い夢を見ました。
恐いと言うより、苦しいと言った方が正しいのかも知れませんが、ずいぶん昔の仕事に関係した夢です。その出来事は、私が当事者だったわけではないのですが、危うく大事に至りそうなミスだったのですが、夢の中では私が中心人物になって、何かを背負って色々な人に助けを求めていました。もちろん、昔の出来事とは内容は一致していないのですが、いやに具体的で、鮮明でした。
目覚めたとき、「ああ、夢でよかった」と、かなり本気で嬉しかったのです。
夢については、当コラムでも、何度か取り上げた記憶がありますが、つくづく不思議なものです。
目覚めた後、起床時間には少し早かったのですが、そのまま起き出しました。「こんな夢の続きを見せられてはたまらない」という気持ちがあったからのようで、顔を洗っているうちに、さすがに自分が可笑しくなりました。そして、こういうのを「悪夢」というのだろうなあ、と思いましたが、同時に、「本当にそうかなあ」という気持ちも湧いてきました。
確かに、夢の中ではとても苦しい思いをしましたが、目覚めて夢だと認識した時の、あのほっとした時の気持ちは、そうそう経験できないほど有り難かったのです。もしかすると、あの夢は悪夢でも何でもなく、むしろ「良い夢」だったのではないかと思いました。逆に、夢の中で大変良い思いをしていて、まさに願いが成就するという寸前に目覚めた場合、夢の中でいくら幸福感を味あわせてもらっても、目覚めて落胆するようでは、それを良い夢といえるのでしょうか。
「禍福は糾(アザナ)える縄の如し」という言葉があります。中国の歴史書にある言葉のようですが、禍と福が目まぐるしく入れ替わることを見事に言い表していますし、禍と福が、簡単に判別できないことを示しているような気もするのです。
まだ幼い頃、あるいは青少年期に、不幸な時期や苦しい時に、周囲の人から差し伸べられた手によって、禍と思っていた事を福に変えていき、あるいは、福であるゆえに堕落への道へと進んでしまう例も、決して特殊なことではないでしょう。
乳幼児に関する悲しい事件が跡を絶ちません。青少年の残虐な、あるいは非常識すぎる事件も同様です。
これらの事件や当事者に対して、周囲から適切な手を差し伸べてくれる人がいてくれたなら、その寸前で立ち止まれたり、禍を福に変える切っ掛けが生まれていたかも知れないと思うのです。
「手当て」という言葉は、広い意味を持っていますが、痛みのある場所に手を当てることによって和らげることが出来る、という意味も持っています。お母さんが幼い子供の痛みの場所に手を当てて、「痛いの、痛いの、飛んで行け」と唱える呪文のような言葉は、きっとその子供は、折りに付けて思い出すでしょうし、お母さんがそうした気持ちを持ち続けている限り、子供たちは逞しく成長してくれることでしょう。
もちろん、子供は母親だけが育てるわけではなく、父親はもとより、家族や近隣の人々、学校や職場、社会全体のあらゆる影響を受けながら育っていきます。
幼い子供や少年たちが、悲しい環境に追込まれたり、とんでもない事件の当事者になってしまうのを、親や家庭の責任だけにして良いのか、地域の問題としてどう手当てすることが出来るのか、情けないことに全く無知なのですが、子供たちが育つ環境、つまり「社会力」のようなものが、劣化しつつあるのではないかという懸念を抱いております。
( 2024 - 02 - 27 )
春と冬とが引っ張り合いながら、三月を迎えました。
「三月はライオンのようにやってきて、子羊のように去って行く」というのは、イギリスのことわざですが、わが国においても、三月が登場するまでの天候は、春と冬の勢力争いばかりでなく時には初夏まで加わって、なかなか荒々しいものです。
当地は、しばらくは安定しないお天気が続きそうですが、地域によっては大雪が心配されており、本格的な春はもう少し先という気がします。
最近はあまり耳にしないような気もしますが、関西では、「お水取りが終ると春がやって来る」という言い伝えがあります。
この「お水取り」とは、東大寺二月堂で行われる「修二会(シュニエ)」という法会の中の行事の一つです。ただ、三月一日から三月十四日まで行われる修二会を「お水取り」と呼ぶことも多いようです。
正確に言えば、修二会の中で、十二日の深夜に、観音菩薩にお供えする「お香水」を、二月堂の前にある若狭井という井戸から汲み上げる行事を指すそうです。
また、修二会の行事としては、期間中毎日、暗くなった頃に行われる「お松明」があります。二月堂の舞台状の廊下を、十本(十二日は十一本)の大松明が火の粉をまき散らしながら走る勇壮な行事は、多くの人々を魅了させます。
今日から二週間にわたって行われる修二会は、西暦 752 年に始まった宗教的な重要行事で、今日まで一度も欠けることなく続けられています。火災により伽藍が焼け落ちた時も続けられてきて、今年は 1273 回目に当たるそうです。
そして、この行事が終ると、関西は本格的な春の訪れとなるのです。
私たちの身の周りには、このような経験則のようなものが幾つも伝えられています。
農業を生活の基盤としていた人々は、こうした行事や、山の雪解けの状態や草木の状態や鳥獣の動きなどから、季節の動きを感知し農作業の適切時期を実行し伝えていったのでしょう。漁を専らにする人々も、海の色や風の方向や匂いを、適切な行動の手助けにしていたのでしょう。
これらは、いずれも、ご先祖たちが経験をもとに培った知恵を子々孫々に伝えてきたのでしょうし、私たちの知識や知恵の多くは、そうした物をベースにして学び、あるいは真似て身につけていくのだと思うのです。
ところが、先日、当コラムの資料として、株式投資や相場に関する諺を調べている中で、『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』という言葉に出合いました。
この言葉は承知していましたが、株式投資の諺としては、どう理解すれば良いのか私には重荷で割愛しました。
この言葉は、ドイツ統一に貢献した鉄血宰相と呼ばれたビスマルク( 1815 - 1898 )の言葉とされていて、座右の銘とされている著名人もいらっしゃるようです。
この言葉面(ヅラ)だけを見ますと、「経験に学ぶものは愚者だ」という面が強調されているようで気になります。素直に頷くことも出来ません。
ただ、ビスマルクが語ったということでは諸説あるようですが、もともとの意味は、「愚者だけが自分の経験から学ぶと信じているが、自分は、自分の誤りを避けるために他人の経験から学ぶ」といったものだとされています。かなり意味が違っています。
私たちは、ご先祖から多くのものを学んでいますが、それらの多くは貴重な経験をベースにしていることは確かです。しかし、間違ってはならないことは、自分が体験した事を、たとえそれがいくらすばらしい成功体験であっても、それを知恵として過大評価することだけは避けるべきだと思うのです。
たとえ、功成ったという自負があるとしても、然るべき年齢の人が若い人に向かって、自らの成功体験を繰り返すことは、あまり耳障りの良いものではないことだけは、この言葉から学びたいものです。
( 2024 - 03 - 01 )
『 一ノ谷の軍(イクサ)破れ 討たれし平家の 公達あわれ
暁(アカツキ)寒き 須磨の嵐に 聞こえしはこれ 青葉の笛・・ 』
偶然、この歌を聞く機会がありました。ああ、まだまだ健在なのだと、何だか嬉しくなりました。
この歌は「青葉の笛」という題名ですが、1906 年(明治 39 年)に尋常小学唱歌として発表されたものです。
「平家物語」には、『 いくさやぶれにければ、熊谷次郎直実、「平家の君達(キンダチ)たすけ舟に乗らんと、汀(ミギワ)の方へぞおち給ふらむ。あっぱれ、よからう大将軍にくまばや」とて、磯の方へあゆまするところに・・・ 』と、平敦盛が熊谷直実に討たれる場面が展開されていきます。平家物語の名場面の一つといえます。
今から840年の昔、1184 年 3 月、須磨の浦の戦いにおいて、源氏方の一ノ谷を駆け下るという奇襲もあって、平家方は総崩れとなり、海上へと逃れようとしました。平家方の若き武将敦盛が熊谷直実に討たれたのは、その乱戦の中でした。
この時敦盛は、十六歳とも十七歳とも伝えられていますが、満年齢で言えば十五歳くらいだったのでしょう。敦盛は、平清盛の異母弟経盛の末子です。
この歴史哀歌は、平家物語に止まらず、様々な形で伝えられていきました。能、幸若舞、歌舞伎などで定番化され、明治に至っては、小学唱歌として前記のような名歌が誕生しているのです。
幸若舞というのは、語りを伴う曲舞の一種ですが、私たちが目にする機会としては、織田信長が登場するドラマでは、必ずと言っていいほど描かれるシーン、信長が桶狭間の戦いの前夜に『敦盛』を謡いながら舞う場面があります。
信長公記には、『 此時、信長敦盛の舞を遊ばし候。「人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり 一度生を得て 滅せぬ者のあるべきか」と候て、・・・ 』と記されています。
信長は、この時に限らず、折々に『敦盛』を謡ったとされていますが、信長自身も、まさに夢幻の如くに、五十年にも及ばない生涯を駆け抜けていったのです。
敦盛と縁の深い須磨寺や須磨浦公園などは、育った地と比較的近いため数え切れないほど訪ねています。最近になってからでも、須磨寺には何度か訪れています。
敦盛の生涯は僅かに十五年。信長のあの波瀾万丈の生涯であっても、五十年に至りません。
どちらも、歴史物語の一つ一つに過ぎないといえばその通りなのですが、ふと聞いた「青葉の笛」の哀愁ある歌と、指を折るにも指が足りなくなるほどの自分の年齢を重ね合わせながら、いやに感傷的になってしまいました。何が原因なのでしょうねぇ・・・。
( 2024 - 03 - 04 )
『 青葉茂れる 桜井の
里のわたりの 夕まぐれ
木(コ)の下陰に 駒とめて
世の行く末を つくづくと
忍ぶ鎧の 袖の上(エ)に
散るは涙か はた露か 』
この歌は、1899 年(明治 32 年)に発表された唱歌「桜井の訣別」の一番の歌詞です。
一般に、この歌は六番までが歌われることが多いようですが、もともとは、『楠公の歌』として「桜井の訣別」「敵軍襲来」「湊川の奮戦」の三部仕立てで十五番まである大作です。
この『楠公』というのは、南北朝時代の南朝の武将楠木正成(マサシゲ・ 1294 ? - 1336 )のことです。
正成は、敗戦を覚悟しながらも、五百余騎を率いて都をたって、摂津兵庫に向かいました。その途中の西国街道の桜井の宿駅(現在の大阪府島本町)で、わが子正行(マサツラ・ ? - 1348 )を呼び寄せて、「父は兵庫に赴いて、討ち死にする。お前は故郷に帰って、再起の時を待て」と言い聞かせます。この時、正行はまだ十一歳であったと「太平記」は切々と訴えています。
兵庫に向かった正成は、湊川において、数倍とも数十倍ともいわれる北朝・足利尊氏軍に敗れ、討ち死にします。
現在、その地には湊川神社という立派な神社が建立されていて、今なお「楠公さん」と親しみを込めて呼ばれています。
「桜井の訣別」という歌は、太平記の名場面を彷彿させるかのように歌い上げています。
実は、前回に引き続き今回も明治時代の唱歌にテーマを頂戴しましたのは、前回の「青葉の笛」から「青葉茂れる桜井の・・」の歌が連想されて、「青葉」を主題にすることにしたのですが、やはり、楠木正成について触れないわけにも行かず、少しばかり紹介させていただきました。もちろん、太平記の世界となりますと、相当本腰を入れて勉強しなくてはなりませんので、今の私には荷が重すぎます。
そこで、ようやく本題の「青葉」ですが、「青葉若葉」と並べて使われることがあるように、現代の私たちには「新緑」という言葉もありますように、本来は「緑」と表現されるものも「青」が多く使われています。
その理由は、色を現わす「緑」という言葉は、比較的新しいものだそうで、使われるようになったのは平安時代になってからのことのようです。それまでは、私たちが緑と感じる色は、青と表現されていたのです。
それまでの「緑」というのは、「みずみずしい状態」を指す言葉であったようです。「緑の黒髪」という言葉は、現在でも目にすることがありますが、「みずみずしい黒髪」を指しているのですから、納得できます。
「青葉の笛」も「青葉茂れる桜井の」も、切ない物語に繋がっていきますが、「青葉」や「新緑」といった言葉は、みずみずしさや、希望のようなものに繋がっているような気もします。
昨日今日あたりは、「春は名のみ」そのもののお天気ですが、すでに二十四節気の「啓蟄」になっていますので、桜前線が動き出すのも間もなくです。
すくみがちの身体をぼつぼつ伸ばして、今年は「青葉」をじっくりと味わいたいと考えています。
( 2024 - 03 - 07 )
大谷翔平選手が絶好調のようです。
ファンも専門家の方たちも心配されていた手術後の経過は、ご本人も話されているように、予定以上に順調なようで、オープン戦の成績は、僅かな試合数だとはいえ、本番に残しておいて欲しいほど好調です。
それにしても、連日のように伝えられているニュースからも、恵まれた心身を、さらに人並み外れた鍛練を重ねることによって、あのような体力や、多くの人を惹き付ける個性が育って来たと思うのですが、先天的な能力や、たゆまぬ努力を重ねる人は、決して少なくないと思うのですが、これほどの人材が誕生するのはそうそう簡単なことではないでしょう。
それは、何も野球選手に限らず、あらゆる分野において言えることでしょう。
スポーツに限らず、芸能や芸術、あるいは学問の世界などで、その分野の最高と言えるような賞などを受けた人の多くは、その受賞のインタビューなどで、幼い時や成長途上において、大きな影響を受けた人物や機会について語ることがよくあります。
その分野で成長した後も、指導者やアドバイスやヒントを与えてくれる人の有無が、その後の成績や成果に大きな影響を与えているようです。
一般に、指導やアドバイスを提供する人は、その対象者より勝れている必要があります。岡目八目という言葉もあるにはありますが、それだけで人を指導することは出来ません。
ただ、そうした考え方に立てば、超一流の人を指導するためには、超々一流の人物が必要になってきます。それは簡単なことではありませんが、現実としては、大谷選手を始め、多くの一流選手はその体制を作り上げていそうです。芸術や学問の世界でも同様のことが言えると思うのですが、やはり、天才誕生の背景は謎めいているように思われます。
よく言われることですが、「名選手、必ずしも名監督に非ず」という名文句があります。野球の例ばかりになりますが、例えば、プロ野球の打者としてはとてもレギュラーにもなれないような選手が、指導者になると才能を発揮して、一流のホームランバッターを育てることがあり、名監督として脚光浴びることもあります。
私たちは、名選手だとか、強打者だとか、一言で表現してしまいますが、一人の名選手が誕生するのには、本人の努力は当然として、走るとか、投げるとか、打つとか、あるいはそれらを鍛えるに堪えられるだけの体力・精神力の強化も必要で、それらの分野ごとの専門家、それも達人といわれる程の才能の持ち主が必要であり、昨今では、それに加えて近代科学の粋を利用しているようです。
ただ、そうした条件を、考えられる限りを集積しても、簡単には「大谷翔平選手」は誕生しないでしょう。
私たちは、経験していないことでも知ることが出来ますし、指導することも可能かも知れません。
このブログですでに紹介させていただいていますが、鉄血宰相と呼ばれたドイツのビスマルクは、『愚者だけが自分の経験から学ぶと信じているが、自分は、自分の誤りを避けるために、他人の経験から学ぶ』といった言葉を残しています。難解な言葉ではありますが、「自分の経験を重要視しすぎることを戒めている」ように私は受け取っています。
私たちが経験してきたものは、良い結果のものにせよ、悪い結果のものにせよ、貴重な人生の一頁です。しかし、その経験だけをベースに物事の善し悪しを考えたり、いわんや他人に考え方を押しつけるのは、よほど注意が必要です。むしろ、真実であればもちろん、誇張が含まれているとしても、他人の経験談や生き様に学ぶことは、意味あることのように思われます。
現実のニュースを見るにつけ、あるいは虚実混ざっていると思われる物語などに接するにつけ、自分の人生の貧弱さに落ち込むことがあります。
しかし、考えようによっては、それらの一つ一つから何かを受け取ることが出来て、私たちの人生に滋味のようなものを与えてくれるような気もするのです。
( 2024 - 03 - 10 )
ふと思ったのですが、『老後』って言葉、何とも不思議な言葉なぁと感じると、どうも気になって辞書で調べてみました。
調べた辞書には、ごくごく簡単に、「年老いた後。年とってのち。」とありました。
辞書にクレームを付けても仕方がありませんが、「老+後」という言葉を、ごく簡潔に、しかも何の漏れもなく説明してくれていますが、何だか今一つ、ピンとこないのです。
私たちの周辺には、『老後』という言葉は満ちあふれています。満ちあふれているというのは少々オーバーですが、見聞きすることも多いですし、使うことも稀ではありません。
「老後の楽しみ」「老後の心配」「老後をどう生きるか」「老後の設計」などといった言葉を目にすることもありますし、「七十歳からの生き方」「七十歳台をどう生きるか」などと、『老後』という文字は直接使われていませんが、『老後』を意識していることが窺えます。しかも、この「七十歳」は、高齢化社会が進むのに歩調をあわせるように、「八十歳」となり「九十歳」となり、最近では、「百歳からをどう生きるか」といったキャッチコピーも目立ってきています。さすがに、「百十歳からをどう生きるか」というのにはお目に掛かっておりませんが、時間の問題かも知れません。
ところで、『老後』という言葉が不思議に感じたのは、現代の私たちに、『老後』って存在しているのか、と思ったからです。確かに、ある段階で見事に生き方に区切りを付けて、「老後を生きる」人もいるのでしょうが、多くの人は、口にはしていても老後生活だと強く認識しているのでしょうか。私などはその典型で、年を重ねても、今を生き続けている感覚があり、世間からはまるで世捨て人のように見られているとしても、今なお明日への欲望を抱き続けています。
『老後』という言葉がいつ誕生したのかは知らないのですが、たとえば、江戸時代の物語や、落語などにもよく登場しますが、「ご隠居さん」は、一線から離れて、それまでとは全く違う生き方を選択しているようなので、これなどは、まさに『老後』を生きているような気がします。武士などでも、子供に家長の立場を譲って、職務からも離れて生活しているようなドラマもありますから、やはりこうした人なども『老後』を生きているのかも知れません。
同時に、平安時代の文献や、それ以後の時代においても、命の限りを尽くして何かに取り組んでいたと思われる人物も数多く伝えられています。
私たちにとって、年を重ね老いていくことは厳然たる事実です。
しかし私たちは、「老いてしまってから、その後を生きる」ということなどありえません。十分に年老いたはずの人であっても、明日の自分よりは今日の自分は間違いなく若いのです。つまり、老いていってはいるけれども、まだその途上なのです。老いが終った後ではないはずです。
かなり理屈っぽくなってしまいましたが、私たちは年老いていることは承知するとしても、その後を生きている期間など存在しないのです。自らは隠居生活だと自負している人も含めて、『老後』を生きているのではないような気がするのです。
さて、この論理を認めるとすれば、私たちは、背負っている荷物に差はあるとしても、たとえ何歳になろうとも、人生という稜線の上を歩き続けているということになります。
ここは、ひとつ、人生という稜線の下り歩きの達人を目指すとしますか。
( 2024 - 03 -13 )