雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

貨物船が乗っ取られた

2023-11-21 19:13:53 | 日々これ好日

      『 貨物船が乗っ取られた 』

    紅海で 日本郵船が運航する貨物船が 乗っ取られた
    イエメンのフーシ派によるもので
    わが国から見れば 海賊行為だと思うが
    彼らにすれば 戦争の一部なのかもしれない 
    イスラエルとガザの戦乱が わが国にも及んでいることになる
    それにしても この貨物船
    運行は日本の海運会社 船籍はバハマ
    所有者は英国系の企業だが 実質的な所有者はイスラエルの実業家らしい
    そして 乗員には多数国の人がいるが 
    日本人もイスラエル人も乗っていないらしい
    限られた地域の戦乱も 世界中に関係する ということらしい

                      ☆☆☆

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淑景舎女御の急死 ・ 望月の宴 ( 95 )

2023-11-21 07:59:43 | 望月の宴 ③

      『 淑景舎女御の急死 ・ 望月の宴 ( 95 ) 』


むなしくその年(長保三年、1101 )も暮れていった。
正月一日に涙を流すことは不吉だというのも、平安な時のことであって、いずこも女院(東三条院詮子)のご恩顧を蒙っていた人々は皆途方に暮れている。
念仏はもちろんのこと、長年行われている不断の御読経や、すべてのなすべき御事は、法要がすべて終る日まで欠かさず行うとお決めになる。
帝(一条天皇)は、引き続き御手づから御経をお書きになる。
正月七日は子の日(ネノヒ・野遊びをする行事が行われた。)に当たっていたが、船岡山の遊びも今年は張り合いのない有様なので、左衛門督公任(キントウ・正三位で、当時の代表的な文化人。)君が女院の御所の台盤所にあてて、
『 誰(タ)がためか 松をも引かん 鶯の 初音かひなき 今日にもあるかな 』
と詠まれていたが、女房たちはこれをご覧になって、誰も返歌をなさらなかった。
御忌みの間も、しみじみとあわれな事などがたくさんあった。

こうして、御法事の頃になったので、花山の慈徳寺(詮子の御願寺。現存していない。)にて催すことになった。
二月十余日に御法事は行われた。その間の諸行事はご想像いただきたい。
帝が手づからお書きになった御経などを添えて供養をなさる。院源僧都(インゲンソウズ・延暦寺の僧。道長の信頼が厚かった。)が講師としてご奉仕なさった様子は想像いただきたい。
このように悲しみの内に御忌みの期間は過ぎた。

その年の賀茂祭はたいそう見栄えのしない事が多かったが、例年の公事(オオヤケゴト)なので中止できるものではなく、近衛司などは見物のしがいがあるが、それも立たなかったりして、いかにも寂しいことである。

こうして、五、六月の頃にもなったが、宣耀殿女御(センヨウデンノニョウゴ・東宮(居貞親王)の女御)は、一の宮(敦明親王)をお世話申し上げなくなって久しくなっていたが、その後、もうこれが最後ではないかと思われるほど重病になられたので、東宮は御心を痛めていらっしゃった。
たいそう悪くなっておいでであったが、昨日今日あたりは良くおなりになった。

弾正宮(為尊親王。冷泉天皇の皇子。)は、相変わらず御夜歩き(女性のもとへ通う。)をなさる恐ろしさを、世間の人は心中穏やかならず、ご身分にふさわしくないことと差し出がましくお噂申していたが、今年は何かとたいそう騒がしく(疫病のことか?)、いつぞやと同じような心地がして、道端や大路も惨憺たる状態で、その死骸を見ながらも、情けなくも御夜歩きをなさった為であろうか、ひどく患ってお亡くなりになった。
最近では、新中納言(不詳)や和泉式部(為尊親王、弟の敦道親王との恋愛は「和泉式部日記」に書き残されている。)などにご執心で、情けないほどの御有様を北の方(藤原伊尹の娘)は辛くお思いであったが、為尊親王の御逝去を悲嘆なされて、四十九日の頃に尼におなりになった。
北の方は、もともとたいそう信心深いお方で、二、三千部の経を読んでお過ごしであったので、世の無常もよく悟られていて、さらにいっそうのご修行である。

こうして、弾正宮が亡くなられたということを、御父の冷泉院はそれとなくお耳にされて、「宮は亡くなってはいまい。よく捜せば、どこぞにいるだろうに」と仰せになる。おいたわしい親心というものである。
東宮(居貞親王。為尊の同母兄。)もたいそうお嘆きになる。帥宮(敦道親王。為尊の同母弟。)もたいそう哀れで残念なこととお思いであろう。
まことに、為尊親王は、今年二十五歳におなりであったのだ。
花山院(為尊の異母兄。)が、格別にご葬儀をすべてお世話申し上げておいでであった。

しみじみと哀れな世であるのに、さらにどうしたことか、八月二十余日に、聞くところによれば、淑景舎女御(シゲイサノニョウゴ・東宮女御、原子。定子の妹。)がお亡くなりになったとの噂で持ちきりである。
「ああ、大変なことだ。これは一体どういう事か。そのような事は、まさかあるまい。最近お患いだということも聞こえてきていなかったのに」などと、不審がる人が多かったが、「ほんとうの事だったのだ。御鼻や口から血をお流しになり、まことに、あっという間にお亡くなりになられた」と言う。
情けないとか忌まわしいとかも世の常である。世の中は無常であると言うが、その中でもそうそうない辛く情けない御有様である。

この事を世間の人も口うるさくされていたので、宣耀殿女御がたいそうな重病であられたのが平癒なさったので、こうした意外な御有様を、「宣耀殿女御が、尋常ならざる事を仕掛けられたので、このようになったのだ」と、まことに聞きづらいことまで申しているが、「女御ご自身が、あれこれとお考えつくことなどない。少納言の乳母(宣耀殿女御の乳母)などが、どうにかしたのではないか」などと人々が取沙汰しているが、それはともかく、まだお若い御身(淑景舎女御は二十三、四歳位。)でこのようにお亡くなりになったことを、帥殿も中納言殿(伊周と隆家。淑景舎の兄たち。)も大変なお嘆きであるが、東宮におかれても、格別に深く御寵愛というわけではなかったが、いつか、帝の位に就くような時があり、思い通りの事が出来るようになれば、然るべくお扱い奉り、華やかで栄えあるお立場にとお考えであったので、まことに哀れで口惜しく、また恋しくお忍び申されている。
その中でも、「御衣の重ね具合や袖口などは、他の女人を見る度に思い出されるものを」などと、悲しいお気持ちを仰せになられるのであった。
御対面などはそう容易くはなかったが、御心ざしは、宣耀殿女御と同等にお寄せであったものを、かえすがえすも哀れで口惜しい事とお思いであった。

     ☆   ☆   ☆




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