雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

ぎりぎりの交渉

2023-11-30 18:47:49 | 日々これ好日

      『 ぎりぎりの交渉 』

  イスラエルとハマスの 一時戦闘休止の延長交渉は
  期限切れ10分前に 延長合意に達した
  ただ 1日だけの延長なので
  日本時間で 明日の午後2時には 再び期限切れになる
  この数日で 世界の世論は
  大きく 休戦に動いているはずだ
  双方共に 妥協できない言い分があるのだろうが
  失われていく命に 思いを寄せて欲しい

                   ☆☆☆

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秋の時雨と

2023-11-30 08:00:32 | 古今和歌集の歌人たち

      『 秋の時雨と 』


 をしむらむ 人の心を 知らぬまに
        秋の時雨と 身ぞふりにける

         作者  兼覧王

( 巻第八 離別歌  NO.398 )

      をしむらむ ひとのこころを しらぬまに
               あきのしぐれと みぞふりにける


* 歌意は、「 名残を惜しんでくれる あなたの心を 知らないでいたが 私自身こそ知らない間に 秋の時雨が降るように この身も古りて(年老いて)しまいました 」といった、老いていく感慨を詠んだものでしょうが、後で述べますように、内裏での集まりの場で、詠み交わした歌のようです。

* 作者の兼覧王(カネミノオオキミ)は、平安時代前期の皇族です。( 86
6 ?- 932 )行年六十七歳か。
父は、文徳天皇の第一皇子である惟高親王です。惟高親王は、時の権力者藤原良房の強引な政治力で、皇位の地位を第四皇子(後の清和天皇)に奪われた人物です。
ただ、兼覧王の父を国康親王とする説もあるようです。国康親王は、仁明天皇の第六皇子なので、文徳天皇の異母弟に当たる人物です。この親王は、生年は不詳ですが、854 年に上野太守に就いていますが、病弱のため辞して 856 年に出家し、898 年に亡くなっています。兼覧王の生年や生母が不詳であることや、国康親王が出家していることなどを勘案しますと、この説を完全無視することが出来ないような気がします。同時に、有力な記録も無いようで、父を惟高親王とする説の方が有力と思われます。

* 兼覧王は、886 年に、二世王として、従四位下を授けられています。これは蔭位(オンイ・高位者の子孫に、それに応じて一定以上の階位を叙位する制度。)によるもので、順調な叙位でしたが、その後は、地方官・中央官を無難に勤めたようですが、最終官位は  925 年の正四位下宮内卿ですので、二世王としては物足りないものだったのではないでしょうか。

* 古今和歌集の掲題の和歌の前には、紀貫之の『 秋萩の 花をば雨に 濡らせども 君をばまして をしとこそ思へ 』という和歌があり、
これを受けて、兼覧王の掲題の和歌の前書き(詞書)には、「とよめりける返し」とあり、「をし」を受けています。
そして、その次には凡河内躬恒が、「兼覧王にはじめて物語して別れける時によめる」と前書きして、『 別るれど うれしくもあるか こよひより あひ見ぬさきに なにを恋ひまし 』とあります。
これらの歌は、醍醐天皇に召されて酒など頂戴したおりに、内裏のかんなりの壺(襲芳舎)で詠まれたものと、貫之の前書きにあります。

* 上記のことから、兼覧王が帝近くに身を置いていたことや、当時の一流歌人と交流があったことが分ります。また、古今和歌集に五首、後撰和歌集に四首入集しており中古三十六歌仙にも選ばれていますから、歌人としてそれなりの評価を受けていたようです。ただ、当時の一流とされる家人たちとは歴然とした差があったとも言われていたようです。
また、公務面においても、疎い面があったとのエピソードがあるようです。

* 藤原氏が台頭していく時代に、不遇の第一皇子を父に持った兼覧王、生母は伝えられておらず、実父さえ異説が流れる環境の中で、それでも、大きなトラブルに巻き込まれることなく、二世王としては不足かもしれませんが、貴族として職務を果たし、一流歌人との交流しながらの生涯は、心の奥底はともかく、表面的には平安な日々だったのではないか、と思うのです。

     ☆   ☆   ☆

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