雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

長い長い夏も終りらしい

2023-11-09 19:10:17 | 日々これ好日

     『 長い長い夏も終りらしい 』

    本日 当地は 絶好の秋日和だった
    朝のうちは 雲が多く 少しヒンヤリしていたが
    日が高くなるにつれて 快晴となり 
    温度もどんどん高くなった
    当地は夏日に至らず 絶好の秋日和となった
    ただ今夜は 日が変る頃から 雨が降り出し
    明日は一日中 若干荒れ模様の 雨の予定
    そして どうやらこれで
    長い長い夏も 終りになりそうだ
    むしろ 明日からは 一日ごとに温度が下がり
    数日のうちに 冬の気配を感じる日も ありそうだ
    くれぐれも 体調にご注意を

                  ☆☆☆   
    

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女院御逝去 ・ 望月の宴 ( 94 )

2023-11-09 08:15:32 | 望月の宴 ③

      『 女院御逝去 ・ 望月の宴 ( 94 ) 』


さて、殿(道長)がお戻りになってから、若宮(媄子内親王。生母は定子。)の御乳母や然るべき女房たちに命じて、姫宮(媄子の姉姫の脩子内親王。)のお住まいの所にお送り申し上げる。
女院(東三条院詮子。一条天皇の生母。)が転居なさるのを、御車から牛を離して、お伏せになっている御座のまま、殿の御前(道長)、弾正宮(為尊親王。女院の甥にあたる。)などが担いで御車にお乗せして、そのまま殿は御車にお付き添いなさる。
ご転居先でも、御車を牛から離して、お乗せした時と同じようにお下ろし奉った。
帥宮(ソチノミヤ・敦道親王。為尊親王の同母弟。この時二十一歳。)や弾正宮は夜も昼もお世話なさっていたので、こちらでも同じようにお仕え申し上げている。この親王たちは女院の甥に当たられるが、帝の御身に次いで、お目を掛けていらっしゃった女院のお心遣いをよくわきまえてお世話なさっていて、涙に溺れていらっしゃる。

所をお変えになられたので、それなりの効験があろうかと望みを繋いでいらっしゃったが、お移りになって二、三日後に、女院は遂にお亡くなりになられた。
殿の御心地は何にも例えようがない。
帝もお聞きになって、これまでも生きた御心地でもなくいらっしゃったが、何もかも一段と塞ぎ込まれ、御薬湯さえお召し上がりにならず、まったくたいそうなお嘆きである。無理からぬ御有様なれば、申し上げようもない。
長保三年( 1001 )閏十二月二十二日のことであった。時候柄まことに寒く、雪などもたいそう降り積もって、おおよその月日も残り少なくなって、暦の軸もあらわに見えるようになっているのも、悲哀をつのらせるばかりの御事であった。

かくて、三日ばかり過ぎてから、鳥辺野において御葬送がが行われることになった。
雪がひどく降っている中、殿をはじめとして、すべての殿上人で、残ってお仕えしない人などおらず、参列なさっての儀式の有様は口にするのも愚かである。
殿が心を込めて執り行い申し上げ、さらに、帝の御心ざしの限りなさも加わった有様は、並一通りの儀であるはずがない。
こうして、夜もすがら殿は万事お世話申し上げて、暁になると、一同はお帰りになった。
雪がなお降り続き、いつもの御幸(ミヤキ・女院の行啓を指す。)で、このような事があっただろうかと思い出すにつけても、涙で濡れた袖は凍り隙間もない。
暁には、殿はお骨を首にお懸けになって、木幡(コハタ・藤原氏の墓所。)へお出向きになり、日が差し出でてからお帰りになった。
そして、ほどなく御衣の色が喪服の色に変った。
帝におかれても、悲しみの日々をお過ごしになる。天下は、諒闇(リョウアン・天皇が父母の喪に服する期間。一年間で、臣下もこれに従う。)になった。


女院、東三条院詮子さまの御逝去は、一条天皇や道長殿に大きな悲しみを与えましたが、同時に、時代を大きく動かせる出来事でもありました。
詮子さまは、応和二年( 962 )に誕生しました。父は摂政関白太政大臣・藤原兼家殿、母は摂津守藤原中正の娘時姫です。詮子さまは次女として生まれましたが、同母の兄弟姉妹には、冷泉天皇の女御となり三条天皇を生んだ姉の超子さま、兄には、道隆殿、道兼殿、そして四歳下の弟に道長殿がいらっしゃいます。

天元元年( 978 )八月、円融天皇のもとに入内なさり、十一月に女御となりました。十七歳の時でした。
同三年( 980 )六月、第一皇子である懐仁親王(後の一条天皇)を生みました。
寛和二年( 986 )に、円融天皇(法皇)が崩御されました。詮子さまは九月に出家され、皇太后宮職を止めて、院号宣下を受けました。お住まいの名前に因んで東三条院を称しましたが、これが、わが国で最初の女院の誕生でございます。
父の後を継いで、一条天皇が即位なさいました。一条天皇の在位期間は二十五年に及ぶ長い期間でございますが、即位の時はまだ七歳でございましたから、政治は外戚の兼家殿、道隆殿が実権を担いましたが、道隆殿御逝去の後の頃からは、国母である女院の発言力が増していきました。

女院は、道長殿を早くからたいそう可愛がられ、支援なさいました。その類い希なご器量を見抜かれていたのでしょうが、女院のご支援がなければ、いくら道長殿といえども、あれほどのご繁栄をお手にされていたでしょうか。
ただ、その裏返しとして、長兄の道隆殿のお子様方の、伊周殿、定子皇后などに厳しい運命を導いてしまったかもしれず、中関白家は没落の一途を辿ります。
しかし、定子皇后が自らの命と引き換えに誕生させた媄子内親王を引き取って、それはそれはお可愛がりになられました。女院が、せめてあと十年お元気であれば、定子皇后のお子様方も、違う生涯を送られたのではないかと、四十一歳での御逝去が残念でなりません。

平安王朝文化の絶頂期ともいえる一条天皇の御代は、東三条院詮子さまの御逝去により、その舞台が大きく変化していきます。
大変な支援を受けて参りました道長殿にとって、女院の御逝去は大きな悲しみに加え、後ろ盾をなくしたことになりますが、道長殿は、この大事を切っ掛けに、そのご繁栄に拍車が掛かって参るのでございます。名実ともに頂点へと上り詰めて行くのでございます。

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