雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

「アレのアレ」をありがとう

2023-11-06 19:02:01 | 日々これ好日

      『 「アレのアレ」をありがとう 』

    阪神タイガースが 38年ぶりの日本一を手にした
    第七戦は 阪神の快勝だったが
    日本シリーズ全体としては 実にすばらしいシリーズだった
    一日たった今も 様々な映像やエピソードが
    次々と 放映されている
    満喫しすぎるほど ありがたいけれど
    その前後に流される ガザやウクライナの映像は 実に辛い
    どうすることも出来ないが
    一日も早く 何らかの妥協点を見つけてくれるよう
    祈るしか ないらしい

                    ☆☆☆
    

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須磨の浦に

2023-11-06 08:01:13 | 古今和歌集の歌人たち

     『 須磨の浦に 』


 わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に
         藻塩たれつつ わぶとこたへよ

          作者  在原行平朝臣

( 巻第十八 雑歌下  NO.962 )
        わくらばに とふひとあらば すまのうらに
                もしおたれつつ わぶとこたへよ


* 歌意は、「 もし誰かが 私の消息を聞いてくれる人があれば 須磨の浦で 藻塩から海水がしたたるように 涙を流しながら 心細く暮らしている と答えて下さい 」といったもので、苦しい環境での詠歌のようです。
この和歌の前書き(詞書)には、「 田村の御時に、事にあたりて津国の須磨という所にこもり侍りけるに、宮のうちに侍りける人につかはしける 」とあります。
つまり、作者が、何かの事件に関係して、罰を受けたか、自ら身を慎んだかで、須磨の地に隠棲していた時に詠んだものです。
なお、田村の御時は、文徳天皇の御代のことで、850 年
- 858 年の間のことになります。 

* 作者の在原行平朝臣(アリハラノユキヒラアソン)は、阿保親王の次男(三男とも)として誕生しました。母は不詳です。生没年は( 818 - 893 )、行年は七十六歳です。
阿保親王は、平城天皇の第一皇子と誕生しましたが、薬子の変・承和の変に巻き込まれるなど、皇位に就くことなく数奇な生涯を送った人物です。
阿保親王には多くの子供がいたようですが、ほとんど生母の名前が伝えられていないのは、天皇の第一皇子という立場を考えますと不思議な気がします。ただ、弟に当たる在原業平の生母だけは、桓武天皇の皇女である伊登内親王と明確に伝えられています。

* 作者の行平は、826 年、九歳の頃でしょうか、兄弟たちと共に「在原朝臣」の姓を賜って臣籍降下しています。天皇の第一皇子の子供としての生活が8年ほどにもなりますから、まだ幼いとはいえ皇室を離れることにそれなりの感慨があったことでしょう。
しかも、父の阿保親王は、藤原氏が強引なまでに台頭していく中で、悲運な生涯を強いられており、行平にも様々な軋轢がかかる生涯だったのではないでしょうか。

* ただ、そうした阿保親王の御子たちの中では、比較的順調に昇進し、武官や地方官を中心に勤め、正三位中納言まで上っていますので、貴族・公卿として十分日の当たる生涯であったと推定されます。
また、掲題の和歌が詠まれたのは、おそらく行平が三十歳台のことで、須磨の地に逼塞せざるを得ない状態だったのでしょう。
その事情は伝えられていませんが、その地での生活の中で、一弦琴である須磨琴を制作したと伝えられいます。
さらに加えますと、家庭で使われる「雪平(行平)鍋」は、この在原行平に因んで名付けられた物とされています。

* 実務においては、民政に勝れていたとも伝えられていますが、歌人としても、古今和歌集に4首、勅撰和歌集全体では11首が採録されており、百人一首にもその名を残しております。
もしかすると、有り余る才能を発揮するには制限の多い環境だったのかもしれませんが、ある時点からは、悠々たる生活を送ったのではないかと、勝手に想像させていただいています。

     ☆  ☆   ☆

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