運命紀行
美しきがゆえに
『 小野小町は、古の衣通姫の流なり。哀れなるようにて、強からず、言わば、良き女の悩める所あるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。 』
これは、古今和歌集の紀貫之による仮名序のうちの小野小町について書かれている部分である。
衣通姫(ソトオリヒメ)というのは、記紀に登場する絶世の美女とされる女性である。古事記と日本書紀とでは伝承は異なるが、第十九代允恭天皇の皇女とも皇后の妹ともされる女性で、その美しさは衣を通して光り輝くほどであったという麗人で、哀しい物語も伝えられている。
紀貫之は、小町をこの衣通姫の流れを汲むものであると評論しているが、この一文が小町の実像に多くの影響を与えてしまったと考えられる。
すなわち、小町は当時すでに伝説上の美人であったとされる衣通姫の流れと評したことにより、小町が絶世の美女という評価を受ける大きな一因になったと考えられる。
同時に、貫之の文章は、和歌の作風についてのものであり、従って小町の容姿とは関係ないという意見も生まれ、それが転じて、小町は美人ではなかったと論じる根拠にされることもある。
しかし、貫之の文章は確かに歌の実力について述べていることは確かであろうが、衣通姫の歌とされるものは、日本書紀に二首伝えられているだけで、おそらく貫之の時代も同じと推定すれば、作風を云々するのも乱暴な話である。
古今和歌集の仮名序は、
『 やまと歌は人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。 』
に始まる名文であるが、後に六歌仙と呼ばれることになる、貫之と近い時代の歌人に対する論評は極めて辛辣である。
貫之によれば、柿本人麻呂と山部赤人を「歌聖」として別格扱いとし、それには遥かに及ばないが、として六人の作風を評している。
引用してみる。
『 * 僧正遍照は、歌の様は得たれども、誠すくなし。例えば、絵にかける女を見て、いたづらに心を動かすがごとし。
* 在原業平は、その心余りて言葉足らず。萎める花の、色なくて匂ひ残れるがごとし。
* 文屋康秀は、言葉は巧みにて、そのさま身におはず。言わば、商人のよき衣着たらんがごとし。
* 宇治山の僧喜撰は、言葉かすかにして、初め終りたしかならず。言わば、秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。
* 小野小町については既述している通りで、情緒はあるも歌に力がない、と評している。
* 大伴黒主は、そのさまいやし、言わば、薪背負へる山人の、花のかげに休めるがごとし。 』
と、「お前はどれほどの歌を詠むのか」と反論したくなるほどの辛辣さである。
ただ、上記の文章に続いて、
『 この他の人々、その名聞こゆる、野辺に生ふるかづらの、這ひ広ごり、林の繁き木の葉の如くに多かれど、歌とのみ思ひて、その様しらぬなるべし。 』
と述べている。つまり、その他の歌人は論評にも値しないというわけである。
そのため、さんざん酷評された六人は、他の人よりは格が上ということになり、後世の人々により、六歌仙と評価されるようになったのである。
いずれにしても、小町は貫之の評価を基にして後世の人から、ただ一人の女性で六歌仙とされているのである。さらに、三十六歌仙や女房三十六歌仙にも加えられている。
三十六歌仙は、平安中期に藤原公任の三十六人撰に載っている歌人のことを指し、女房三十六歌仙は、撰者は不詳であるが、鎌倉中期の頃の女房三十六人歌合に撰出された女流歌人のことを指している。
それぞれの撰定については、撰者の好みや政治的な配慮がなされている面もあるが、いずれにおいても小町は堂々と文句なしに撰ばれているのである。
小町の和歌とされるものは、数多くの作品が現在まで伝えられている。
家集である小野小町集には百余首の和歌が収録されている(七十首弱の異本もある)。しかし、この歌集は、後世に他撰されたものであり、他人の作品が多く混入しているというのが定説となっている。小町の作品として勅撰和歌集に収録されている数は総計六十七首にのぼるが、やはり疑われるものが少なくない。
小町の作品として疑義がないと思われるものは、古今和歌集に収録されている十八首のみともいわれ、さらに加えるとしても、後撰和歌集にある四首程度で、後はいずれも疑わしいとされている。
後世の人が、これほど多くの和歌を小町に成りすまして作品を加えていったことは、それだけその作風に魅力がある証左といえるが、同時に、小町が活躍の場を離れて間もなくに伝説化していたためとも思われる。
そのことは、小町本人に責任があることではなく、むしろ不本意であると思われるうえに、その類まれな美貌までもが、心ない中傷を受けることがあるのは気の毒でならない。
* * *
小野小町の正確な生没年は不詳である。
一説によれば、天長二年(825)に誕生し、昌泰三年(900)に没したという。仁明朝(833~850)文徳朝(850~858)の頃、後宮に仕えていたことは確からしく、生没年についても、正確性はともかく、大きくは相違していないようにも思われる。
出自についても、系図集である「尊卑分脈」によれば、小野篁の息子である出羽郡司小野良真の娘とされているが、篁との年齢差を考えると血縁の孫とするには無理がある。
生誕地として、秋田県湯沢市という説が根強く、晩年もこの地で過ごしたという言い伝えも残されているが、絶対的な確証はない。秋田説の根拠の一つには、古今和歌集の歌人目録に「出羽郡司娘」という記述によると考えられる。また、小野一族には篁など奥羽に縁を持っている人物がいることもこの説を後押ししていると思われる。
しかし、それらを勘案しても断定できるものではなく、他にも、京都府山科区、福島県小野町、福井県越前市、熊本県熊本市など全国に点在していて、それぞれにそれぞれの言い伝えが残されているようである。
さらに、終焉の地や墓所となると、さらに多い。
現に墓石などが残されていたりするが、伝承を合わせて見ても、いずれも断定に到らない。また、小町が没したと推定される頃は、皇族などは別であるが、一般の貴族も含めて、いわゆる風葬のような形が一般的であったと考えられるので、墓石や墓所さえも最初からなかったのかもしれない。
しかし、終焉の地というものはあるはずで、京都はもちろん、秋田、福島、茨城、栃木、滋賀、鳥取、岡山、山口、宮崎など、これまた全国を網羅するほどに伝承が散在している。
このように、小町の生没年や、それぞれの場所を探ろうとすれば、どれも正確なものは分からない。
しかし、平安前期に宮中に仕えた女性であることは間違いなく、優れた歌人としての評価を受けていたことも確かなことである。それは、僧正遍照、文屋康秀らとの歌の交換が記録されており、古今和歌集において紀貫之がその名前を挙げていることなどからも分かる。
ただ、小町があまりにも早くから伝説化されてしまったため、その存在を疑う説もあるという。とんでもないことである。
小町作と伝えられている和歌の多くが、後代の人によって偽作されたものであることは、小町を理解する上で誠に残念である。
そこで、偽作の懸念がないとされる古今和歌集に収録されているうちから何首かを見てみよう。
『 思ひつつ寝(ヌ)ればや人の見えつらむ 夢と知りせばさめざらましを 』
『 うたたねに恋しき人を見てしより 夢てふものはたのみそめてき 』
『 いとせめて恋しき時はむばたまの 夜の衣をかへしてぞきる 』
この三首は、夢三首と呼ばれるもので、この三首からだけでも、小町の歌が持つ、素直で切ない情感は伝わってくる。そして何よりも特徴的なものは、その言葉遣いが現代人がそのまま読んでも、おぼろげながら理解できるという親しみやすさにあると思われる。
(「たのみそめてき」・・頼りにするようになった。 「夜の衣をかへしてぞきる」・・夜着を裏返しにして着ると、夢の続きを見ることが出来る、という俗信があったらしい)
『 人に逢はむ月のなきには思ひおきて 胸走り火にや心やけおり 』
(月がなく、恋しい人に逢う手立てもない夜には、相手のことを思いながら起きていて、胸はさわぎ、飛び跳ねる火の粉に私の心は焼けるようです)
こちらは、かなり情熱的な歌であるが、掛け詞など技巧的な工夫がなされている。
「月」と「付き(手立て)」、「起き」と「熾き」、「胸走り(胸さわぎ)」と「走り火(ぱちぱちと跳ねる炭の火花)」、といった具合である。
『 花の色は移りにけりないたずらに わが身世にふるながめせし間に 』
この歌は、小倉百人一首の九番歌として知られているが、やはり古今和歌集に載っているものである。小町の代表歌とされているが、この歌にも掛け詞が加えられている。また、その内容から、小町の晩年を不幸なものとした物語を誕生させた一因になっている感もある。
小町作という和歌は数多く伝えられているが、すでに述べたように、古今和歌集以外のものには本人以外の作品が多く加えられている。小町が詠んだ和歌が、古今和歌集に収録されているものだけというのも不自然で、伝えられていないものも含めれば相当数であったはずである。
しかし、決して悪意からではなく、おそらくすでに伝説化しつつあった美貌の歌人に対するあこがれからだと考えられるが、多くの偽作が混入してしまい、小町の実像を覆い隠してしまった感がある。
さらに、伝説は伝説を呼び、「深町の少将の百夜通い」に代表されるような物語、能、歌舞伎、御伽草子、近代では舞台や小説の題材とされることも多い。
能には小町物と呼ばれる七つの謡曲があり、鎌倉時代に描かれた「小野小町九相図」と呼ばれるものは、野ざらしにされた美女の死体が動物に食い荒らされ、腐敗し風化していく様を描いた凄まじいものだという。(モデルは、同じく美人として知られる壇林皇后ともされる)
小町を題材とした作品には、晩年零落したとされる悲劇的なものが多いが、それは、和泉式部なども同様であるが、美しきがゆえの宿命かもしれない。
その昔、平安時代前期に、小野小町という類まれな美貌の女房がいた。彼女は、たおやかにして激しい愛を歌い上げ、後の平安女流文学興隆の魁となった。
虚実さまざまの多くの伝説に包まれた小町は、それでもなお、絶世の美貌と感情豊かな歌の数々は、確かに現代に語り継がれている。
( 完 )
美しきがゆえに
『 小野小町は、古の衣通姫の流なり。哀れなるようにて、強からず、言わば、良き女の悩める所あるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。 』
これは、古今和歌集の紀貫之による仮名序のうちの小野小町について書かれている部分である。
衣通姫(ソトオリヒメ)というのは、記紀に登場する絶世の美女とされる女性である。古事記と日本書紀とでは伝承は異なるが、第十九代允恭天皇の皇女とも皇后の妹ともされる女性で、その美しさは衣を通して光り輝くほどであったという麗人で、哀しい物語も伝えられている。
紀貫之は、小町をこの衣通姫の流れを汲むものであると評論しているが、この一文が小町の実像に多くの影響を与えてしまったと考えられる。
すなわち、小町は当時すでに伝説上の美人であったとされる衣通姫の流れと評したことにより、小町が絶世の美女という評価を受ける大きな一因になったと考えられる。
同時に、貫之の文章は、和歌の作風についてのものであり、従って小町の容姿とは関係ないという意見も生まれ、それが転じて、小町は美人ではなかったと論じる根拠にされることもある。
しかし、貫之の文章は確かに歌の実力について述べていることは確かであろうが、衣通姫の歌とされるものは、日本書紀に二首伝えられているだけで、おそらく貫之の時代も同じと推定すれば、作風を云々するのも乱暴な話である。
古今和歌集の仮名序は、
『 やまと歌は人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。 』
に始まる名文であるが、後に六歌仙と呼ばれることになる、貫之と近い時代の歌人に対する論評は極めて辛辣である。
貫之によれば、柿本人麻呂と山部赤人を「歌聖」として別格扱いとし、それには遥かに及ばないが、として六人の作風を評している。
引用してみる。
『 * 僧正遍照は、歌の様は得たれども、誠すくなし。例えば、絵にかける女を見て、いたづらに心を動かすがごとし。
* 在原業平は、その心余りて言葉足らず。萎める花の、色なくて匂ひ残れるがごとし。
* 文屋康秀は、言葉は巧みにて、そのさま身におはず。言わば、商人のよき衣着たらんがごとし。
* 宇治山の僧喜撰は、言葉かすかにして、初め終りたしかならず。言わば、秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。
* 小野小町については既述している通りで、情緒はあるも歌に力がない、と評している。
* 大伴黒主は、そのさまいやし、言わば、薪背負へる山人の、花のかげに休めるがごとし。 』
と、「お前はどれほどの歌を詠むのか」と反論したくなるほどの辛辣さである。
ただ、上記の文章に続いて、
『 この他の人々、その名聞こゆる、野辺に生ふるかづらの、這ひ広ごり、林の繁き木の葉の如くに多かれど、歌とのみ思ひて、その様しらぬなるべし。 』
と述べている。つまり、その他の歌人は論評にも値しないというわけである。
そのため、さんざん酷評された六人は、他の人よりは格が上ということになり、後世の人々により、六歌仙と評価されるようになったのである。
いずれにしても、小町は貫之の評価を基にして後世の人から、ただ一人の女性で六歌仙とされているのである。さらに、三十六歌仙や女房三十六歌仙にも加えられている。
三十六歌仙は、平安中期に藤原公任の三十六人撰に載っている歌人のことを指し、女房三十六歌仙は、撰者は不詳であるが、鎌倉中期の頃の女房三十六人歌合に撰出された女流歌人のことを指している。
それぞれの撰定については、撰者の好みや政治的な配慮がなされている面もあるが、いずれにおいても小町は堂々と文句なしに撰ばれているのである。
小町の和歌とされるものは、数多くの作品が現在まで伝えられている。
家集である小野小町集には百余首の和歌が収録されている(七十首弱の異本もある)。しかし、この歌集は、後世に他撰されたものであり、他人の作品が多く混入しているというのが定説となっている。小町の作品として勅撰和歌集に収録されている数は総計六十七首にのぼるが、やはり疑われるものが少なくない。
小町の作品として疑義がないと思われるものは、古今和歌集に収録されている十八首のみともいわれ、さらに加えるとしても、後撰和歌集にある四首程度で、後はいずれも疑わしいとされている。
後世の人が、これほど多くの和歌を小町に成りすまして作品を加えていったことは、それだけその作風に魅力がある証左といえるが、同時に、小町が活躍の場を離れて間もなくに伝説化していたためとも思われる。
そのことは、小町本人に責任があることではなく、むしろ不本意であると思われるうえに、その類まれな美貌までもが、心ない中傷を受けることがあるのは気の毒でならない。
* * *
小野小町の正確な生没年は不詳である。
一説によれば、天長二年(825)に誕生し、昌泰三年(900)に没したという。仁明朝(833~850)文徳朝(850~858)の頃、後宮に仕えていたことは確からしく、生没年についても、正確性はともかく、大きくは相違していないようにも思われる。
出自についても、系図集である「尊卑分脈」によれば、小野篁の息子である出羽郡司小野良真の娘とされているが、篁との年齢差を考えると血縁の孫とするには無理がある。
生誕地として、秋田県湯沢市という説が根強く、晩年もこの地で過ごしたという言い伝えも残されているが、絶対的な確証はない。秋田説の根拠の一つには、古今和歌集の歌人目録に「出羽郡司娘」という記述によると考えられる。また、小野一族には篁など奥羽に縁を持っている人物がいることもこの説を後押ししていると思われる。
しかし、それらを勘案しても断定できるものではなく、他にも、京都府山科区、福島県小野町、福井県越前市、熊本県熊本市など全国に点在していて、それぞれにそれぞれの言い伝えが残されているようである。
さらに、終焉の地や墓所となると、さらに多い。
現に墓石などが残されていたりするが、伝承を合わせて見ても、いずれも断定に到らない。また、小町が没したと推定される頃は、皇族などは別であるが、一般の貴族も含めて、いわゆる風葬のような形が一般的であったと考えられるので、墓石や墓所さえも最初からなかったのかもしれない。
しかし、終焉の地というものはあるはずで、京都はもちろん、秋田、福島、茨城、栃木、滋賀、鳥取、岡山、山口、宮崎など、これまた全国を網羅するほどに伝承が散在している。
このように、小町の生没年や、それぞれの場所を探ろうとすれば、どれも正確なものは分からない。
しかし、平安前期に宮中に仕えた女性であることは間違いなく、優れた歌人としての評価を受けていたことも確かなことである。それは、僧正遍照、文屋康秀らとの歌の交換が記録されており、古今和歌集において紀貫之がその名前を挙げていることなどからも分かる。
ただ、小町があまりにも早くから伝説化されてしまったため、その存在を疑う説もあるという。とんでもないことである。
小町作と伝えられている和歌の多くが、後代の人によって偽作されたものであることは、小町を理解する上で誠に残念である。
そこで、偽作の懸念がないとされる古今和歌集に収録されているうちから何首かを見てみよう。
『 思ひつつ寝(ヌ)ればや人の見えつらむ 夢と知りせばさめざらましを 』
『 うたたねに恋しき人を見てしより 夢てふものはたのみそめてき 』
『 いとせめて恋しき時はむばたまの 夜の衣をかへしてぞきる 』
この三首は、夢三首と呼ばれるもので、この三首からだけでも、小町の歌が持つ、素直で切ない情感は伝わってくる。そして何よりも特徴的なものは、その言葉遣いが現代人がそのまま読んでも、おぼろげながら理解できるという親しみやすさにあると思われる。
(「たのみそめてき」・・頼りにするようになった。 「夜の衣をかへしてぞきる」・・夜着を裏返しにして着ると、夢の続きを見ることが出来る、という俗信があったらしい)
『 人に逢はむ月のなきには思ひおきて 胸走り火にや心やけおり 』
(月がなく、恋しい人に逢う手立てもない夜には、相手のことを思いながら起きていて、胸はさわぎ、飛び跳ねる火の粉に私の心は焼けるようです)
こちらは、かなり情熱的な歌であるが、掛け詞など技巧的な工夫がなされている。
「月」と「付き(手立て)」、「起き」と「熾き」、「胸走り(胸さわぎ)」と「走り火(ぱちぱちと跳ねる炭の火花)」、といった具合である。
『 花の色は移りにけりないたずらに わが身世にふるながめせし間に 』
この歌は、小倉百人一首の九番歌として知られているが、やはり古今和歌集に載っているものである。小町の代表歌とされているが、この歌にも掛け詞が加えられている。また、その内容から、小町の晩年を不幸なものとした物語を誕生させた一因になっている感もある。
小町作という和歌は数多く伝えられているが、すでに述べたように、古今和歌集以外のものには本人以外の作品が多く加えられている。小町が詠んだ和歌が、古今和歌集に収録されているものだけというのも不自然で、伝えられていないものも含めれば相当数であったはずである。
しかし、決して悪意からではなく、おそらくすでに伝説化しつつあった美貌の歌人に対するあこがれからだと考えられるが、多くの偽作が混入してしまい、小町の実像を覆い隠してしまった感がある。
さらに、伝説は伝説を呼び、「深町の少将の百夜通い」に代表されるような物語、能、歌舞伎、御伽草子、近代では舞台や小説の題材とされることも多い。
能には小町物と呼ばれる七つの謡曲があり、鎌倉時代に描かれた「小野小町九相図」と呼ばれるものは、野ざらしにされた美女の死体が動物に食い荒らされ、腐敗し風化していく様を描いた凄まじいものだという。(モデルは、同じく美人として知られる壇林皇后ともされる)
小町を題材とした作品には、晩年零落したとされる悲劇的なものが多いが、それは、和泉式部なども同様であるが、美しきがゆえの宿命かもしれない。
その昔、平安時代前期に、小野小町という類まれな美貌の女房がいた。彼女は、たおやかにして激しい愛を歌い上げ、後の平安女流文学興隆の魁となった。
虚実さまざまの多くの伝説に包まれた小町は、それでもなお、絶世の美貌と感情豊かな歌の数々は、確かに現代に語り継がれている。
( 完 )