運命紀行
平安女流文学の主役
一条天皇の御代、平安王朝文学はその絶頂期を迎えようとしていた。
一条天皇が即位したのは、寛和二年(986)のことで、数え年で七歳の時である。そして、寛弘八年(1011)に三十二歳で没するまでの二十五年間天皇の地位にあった。
もちろん、即位時は幼年天皇であり父円融天皇が存命していたので、その影響はあったとしてもいわゆる院政とは違う。むしろこの時代は、藤原氏による摂関政治が最も力を有している頃で、院政時代と呼ばれるのは半世紀余り後のことである。
一条天皇が即位した時の摂政は、天皇の母詮子の父である藤原兼家である。兼家の死没後は長男の藤原道隆が外戚として、また摂政関白として政治の実権を握り藤原氏の全盛期を築いていく。
道隆の娘定子が一条天皇のもとに入内したのは、正暦元年(990)のことで、定子十四歳、天皇は三歳下であった。
やがて定子は中宮となり、天皇との仲はとても良く、仕える女房たちには才媛が多く集まった。定子自身もとても優れた女性であったらしく、側近く仕えた清少納言はその著書「枕草子」の中で褒め称えている。
しかし、長徳元年(995)に道隆が没すると、中関白家と呼ばれた一族は急速に勢いを失っていった。
ほどなくして、藤原氏の絶頂期を築き上げた道隆の弟である道長が氏長者となり、朝廷を牛耳るようになる。道長が、わが娘彰子を入内させたのは長保元年(999)のことで、彰子十二歳の頃である。
一条天皇の中宮定子に対する想いは深く、また文化面にも造詣が深く、定子を取り巻く清少納言をはじめとした女房たちの作り上げた文芸サロンのような雰囲気は、天皇にとって心休まる場所であった。
彰子を入内させた道長は、定子を取り巻く女房たちに負けないような才媛を集めるように腐心した。
彰子入内の翌年には、中宮定子を皇后とし、彰子を中宮に付けることに成功する。地位的には、中宮より皇后の方が上位に映るが、天皇の寵愛の中心となるのは中宮であった。さらに、皇后となった失意の定子は、その翌年、皇女誕生後に没した。
名実共に内裏の中心となった彰子のもとには、才能豊かな女房たちが次々と集められていった。紫式部、和泉式部、伊勢大輔など今日にまで伝えられる女房たちが集められた。道長と面識があった清少納言にも誘いがあったらしいが、定子を敬愛する彼女は応じなかったらしい。
このように定子、彰子を中心とした一条天皇を取り巻く后妃や女房たちによって、平安王朝に絢爛と輝く女流文学の全盛期が築かれたのである。
そこで、この女流文学の中心人物を選ぶとなると、もう一人の女房が登場してくるのである。
同じく彰子に仕えた、赤染衛門である。
赤染衛門は、道長の妻であり彰子の母である倫子に仕えていたが、その後に彰子に仕えているが、これは彰子入内に伴い、多くの女房たちの文芸面でのリーダー役として道長が送り込んだものと考えられるのである。
現代からみれば、他にもそうそうたる女流文学者がいるかに見えるが、いずれも彰子入内後に集められた女房たちで、彰子や母の倫子はもちろん、道長も衛門の才能と人柄に多くを託したに違いない。
清少納言という女性は、紫式部がその日記の中でなじるほどに才能豊かな女房であったが、定子に仕えていて、定子没後は文芸面での活動は力を失っている。紫式部は、果たして現代ほどの評価を得ていたのかどうか疑問が残る。当時の文学や教養の中心となるものは和歌であった。その点では明らかに見劣りする。
伊勢大輔となれば、彰子入内時は十一歳くらいで、いささか年齢が若すぎる。
和歌となれば、当時の第一人者は間違いなく和泉式部であろう。作品の良否については個人的な好き嫌いがあるとしても、勅撰和歌集に収録されている和歌の数が圧倒的に多いことは客観的な評価と考えることができよう。ただ、容貌特に優れていたとされるこの女性は、あまりに情熱的であり、当時の奔放な風俗の社会にあっても、世間からの非難は小さなものではなかったらしい。
和歌の上手として、この和泉式部と並び称されたのが赤染衛門である。
情熱をほとばしるような和泉式部の歌風に対して、赤染衛門のそれは穏やかで典雅なものと評されている。激しさの面で見劣りするとしても当時としては双璧と評価されており、何よりもその人柄に魅せられて、多くの歌人との交流が伝えられている。
平安女流文学の興隆には、多くの女房に后妃も加わり、さらには為政者や男性歌人などの影響も無視することは出来ないが、もし、そこに一人の主役を求めるとすれば、赤染衛門を挙げたい。
* * *
『 やすらはで寝なましものを小夜更けて かたぶくまでの月を見しかな 』
この和歌は「小倉百人一首」の五十九番歌で、赤染衛門の作品である。
歌の意味は、「おいでにならないのが分かっていれば、ためらうことなく寝てしまったでしょうに、ずっとお待ちしているうちに、夜が更けてしまって、西の山に沈もうとする月を見てしまいました」といった実に切ない歌である。
赤染衛門の代表歌の一つと思われるこの歌を、単に歌意だけで受け取ると情熱的な恋の歌ということになるが、真相は少し違う。
この和歌は、後拾遺和歌集に収録されているものであるが、その詞書には、「中関白少将に侍りける時、はらからなる人に物言ひわたり侍りけり、頼めてまうで来ざりけるつとめて、女に代わりてよめる」とある。
つまり、若き日の関白道隆が衛門の妹(あるいは姉)のところに通っていたが、ある夜、約束していながらついに来なかったことに対して、妹に代わってその感情を詠んだものなのである。
妹に対してこのように親身になって詠うことのできる衛門は、実は、身内ばかりでなく、同僚の女房たちにも親しく接しており、仕える中宮が違うことから微妙な関係と思われる清少納言とも交流があったのである。どうやら、多くの人たちから慕われ、頼りにされる存在であった節が見られるのである。
赤染衛門の誕生は、天暦十年(956)の頃と推定されている。
父は、大隅守などを務めた赤染時用とされているが、複雑な経緯もある。
母は、もと平兼盛の妻であったが、離縁し赤染時用と再婚した。しかし、その時すでに妊娠していたらしく、実際の父は平兼盛というのが定説である。後に、兼盛は娘の親権を求めて裁判を起こしているが敗れており、公式には父は赤染時用となる。
因みに、平兼盛は従五位上駿河守などを務めており、時用より若干うえ程度の同じ受領階級であるが、父は光孝天皇の曾孫であり、兼盛自身も歌人として知られていた。衛門の文才はこの人の血を引いているのかもしれない。
赤染衛門は、最初道長の妻倫子に仕えたが、その後その娘彰子に仕えている。これは先にも述べたように、彰子の入内にあたって、中宮定子を取り巻く女房たちと対抗できる陣容を整えるための文芸面での指導役として送り込まれた可能性が高い。
彰子入内の時、衛門は四十四歳の頃と考えられるが、女房としてはかなり高齢である。
当時の女性の生没年を正確に知ることは難しいが、清少納言より十歳、紫式部より十四歳、和泉式部より二十四歳、伊勢大輔とは三十三歳ほども年長であった。従って、年齢面でも、現在私たちがよく知る女流作家とは張りあうような関係ではなく、頼りとされるような年齢差があり、実際にアドバイスなどをしていたようなのである。
例えば、和泉式部に贈った和歌が残されている。
『 うつろはでしばし信太の森を見よ かへりもぞする葛のうら風 』
これは、和泉式部が夫橘道貞との仲が壊れかけた時、ほどなく敦道親王との交際が始まったと聞いた時に贈ったものである。歌意は、「心移りせずに、しばらくは和泉国の信太の森を見守りなさい。葛に吹く風で葉が翻るように、あの人が帰ってくるかもしれませんから」といったものであろう。
これに対する和泉式部の返答は、
『 秋風はすごく吹くとも葛の葉の うらみがほには見えじとぞ思ふ 』
というものであった。この後和泉式部は、激しい恋にのめり込んでいくが、その様子は「和泉式部日記」に残されている。
他にも、伊勢大輔の相談に応じたり、清少納言と交際があったことなども残されている。
また、二十一歳の頃、菅原氏と並ぶ学問の家柄である、文章博士大江匡衡(マサヒラ)と結婚しているが、その仲はとても良かったらしく、「匡衡衛門」とあだ名されたらしいことが「紫式部日記」に残されている。
匡衡は尾張国の国司などを務めているが、地方官としてその地の教育などに尽力しており、同行した衛門の内助の功もあったらしい。
子孫にも恵まれ、曾孫には平安期屈指の学者といわれる大江匡房がおり、その子孫には鎌倉幕府草創期の重臣大江広元がおり(他説もある)、そこから安芸毛利氏など有力氏族を誕生させている。
夫とは、五十七歳の頃に死別、匡衡が六十一歳の頃である。
『 君とこそ春来ることも待たれしか 梅も桜もたれとかは見む 』
『 五月雨の空だにすめる月影に 涙の雨ははるるまもなし 』
などの挽歌を残している。
仲の良い永年の伴侶を失くした衝撃は大きかったと思われるが、衛門はその後も文芸面での活動を続けていった。
藤原道長の栄華を記した「栄花物語」の作者であるとされており、少なくとも全四十巻のうちの正編三十巻には衛門が関わっていると考えられている。さらに、道長という時の権力者近くに仕えていたこともあって、当時の一流といわれる文学者との交流はきわめて広かったようである。
長久二年(1041)、後に大学者となる曾孫匡房の誕生には、産衣を縫い、喜びの歌を残している。
『 雲のうへにのぼらむまでも見てしがな 鶴の毛ごろも年ふとならば 』
「鶴が雲の上まで羽ばたくように、この子が成長して雲上人として栄達するまで見たいものだ」と意気軒高と歌い上げた赤染衛門であるが、この後まもなく没したらしい。
享年は、八十五歳前後と考えられるが、最期のその時まで、作歌の感性は衰えることがなかった。
ゆったりと、激しく人と争うこともなく、多くの女流文学者に影響を与えた赤染衛門こそ、平安女流文学界の主役のように思われてならないのである。
( 完 )
平安女流文学の主役
一条天皇の御代、平安王朝文学はその絶頂期を迎えようとしていた。
一条天皇が即位したのは、寛和二年(986)のことで、数え年で七歳の時である。そして、寛弘八年(1011)に三十二歳で没するまでの二十五年間天皇の地位にあった。
もちろん、即位時は幼年天皇であり父円融天皇が存命していたので、その影響はあったとしてもいわゆる院政とは違う。むしろこの時代は、藤原氏による摂関政治が最も力を有している頃で、院政時代と呼ばれるのは半世紀余り後のことである。
一条天皇が即位した時の摂政は、天皇の母詮子の父である藤原兼家である。兼家の死没後は長男の藤原道隆が外戚として、また摂政関白として政治の実権を握り藤原氏の全盛期を築いていく。
道隆の娘定子が一条天皇のもとに入内したのは、正暦元年(990)のことで、定子十四歳、天皇は三歳下であった。
やがて定子は中宮となり、天皇との仲はとても良く、仕える女房たちには才媛が多く集まった。定子自身もとても優れた女性であったらしく、側近く仕えた清少納言はその著書「枕草子」の中で褒め称えている。
しかし、長徳元年(995)に道隆が没すると、中関白家と呼ばれた一族は急速に勢いを失っていった。
ほどなくして、藤原氏の絶頂期を築き上げた道隆の弟である道長が氏長者となり、朝廷を牛耳るようになる。道長が、わが娘彰子を入内させたのは長保元年(999)のことで、彰子十二歳の頃である。
一条天皇の中宮定子に対する想いは深く、また文化面にも造詣が深く、定子を取り巻く清少納言をはじめとした女房たちの作り上げた文芸サロンのような雰囲気は、天皇にとって心休まる場所であった。
彰子を入内させた道長は、定子を取り巻く女房たちに負けないような才媛を集めるように腐心した。
彰子入内の翌年には、中宮定子を皇后とし、彰子を中宮に付けることに成功する。地位的には、中宮より皇后の方が上位に映るが、天皇の寵愛の中心となるのは中宮であった。さらに、皇后となった失意の定子は、その翌年、皇女誕生後に没した。
名実共に内裏の中心となった彰子のもとには、才能豊かな女房たちが次々と集められていった。紫式部、和泉式部、伊勢大輔など今日にまで伝えられる女房たちが集められた。道長と面識があった清少納言にも誘いがあったらしいが、定子を敬愛する彼女は応じなかったらしい。
このように定子、彰子を中心とした一条天皇を取り巻く后妃や女房たちによって、平安王朝に絢爛と輝く女流文学の全盛期が築かれたのである。
そこで、この女流文学の中心人物を選ぶとなると、もう一人の女房が登場してくるのである。
同じく彰子に仕えた、赤染衛門である。
赤染衛門は、道長の妻であり彰子の母である倫子に仕えていたが、その後に彰子に仕えているが、これは彰子入内に伴い、多くの女房たちの文芸面でのリーダー役として道長が送り込んだものと考えられるのである。
現代からみれば、他にもそうそうたる女流文学者がいるかに見えるが、いずれも彰子入内後に集められた女房たちで、彰子や母の倫子はもちろん、道長も衛門の才能と人柄に多くを託したに違いない。
清少納言という女性は、紫式部がその日記の中でなじるほどに才能豊かな女房であったが、定子に仕えていて、定子没後は文芸面での活動は力を失っている。紫式部は、果たして現代ほどの評価を得ていたのかどうか疑問が残る。当時の文学や教養の中心となるものは和歌であった。その点では明らかに見劣りする。
伊勢大輔となれば、彰子入内時は十一歳くらいで、いささか年齢が若すぎる。
和歌となれば、当時の第一人者は間違いなく和泉式部であろう。作品の良否については個人的な好き嫌いがあるとしても、勅撰和歌集に収録されている和歌の数が圧倒的に多いことは客観的な評価と考えることができよう。ただ、容貌特に優れていたとされるこの女性は、あまりに情熱的であり、当時の奔放な風俗の社会にあっても、世間からの非難は小さなものではなかったらしい。
和歌の上手として、この和泉式部と並び称されたのが赤染衛門である。
情熱をほとばしるような和泉式部の歌風に対して、赤染衛門のそれは穏やかで典雅なものと評されている。激しさの面で見劣りするとしても当時としては双璧と評価されており、何よりもその人柄に魅せられて、多くの歌人との交流が伝えられている。
平安女流文学の興隆には、多くの女房に后妃も加わり、さらには為政者や男性歌人などの影響も無視することは出来ないが、もし、そこに一人の主役を求めるとすれば、赤染衛門を挙げたい。
* * *
『 やすらはで寝なましものを小夜更けて かたぶくまでの月を見しかな 』
この和歌は「小倉百人一首」の五十九番歌で、赤染衛門の作品である。
歌の意味は、「おいでにならないのが分かっていれば、ためらうことなく寝てしまったでしょうに、ずっとお待ちしているうちに、夜が更けてしまって、西の山に沈もうとする月を見てしまいました」といった実に切ない歌である。
赤染衛門の代表歌の一つと思われるこの歌を、単に歌意だけで受け取ると情熱的な恋の歌ということになるが、真相は少し違う。
この和歌は、後拾遺和歌集に収録されているものであるが、その詞書には、「中関白少将に侍りける時、はらからなる人に物言ひわたり侍りけり、頼めてまうで来ざりけるつとめて、女に代わりてよめる」とある。
つまり、若き日の関白道隆が衛門の妹(あるいは姉)のところに通っていたが、ある夜、約束していながらついに来なかったことに対して、妹に代わってその感情を詠んだものなのである。
妹に対してこのように親身になって詠うことのできる衛門は、実は、身内ばかりでなく、同僚の女房たちにも親しく接しており、仕える中宮が違うことから微妙な関係と思われる清少納言とも交流があったのである。どうやら、多くの人たちから慕われ、頼りにされる存在であった節が見られるのである。
赤染衛門の誕生は、天暦十年(956)の頃と推定されている。
父は、大隅守などを務めた赤染時用とされているが、複雑な経緯もある。
母は、もと平兼盛の妻であったが、離縁し赤染時用と再婚した。しかし、その時すでに妊娠していたらしく、実際の父は平兼盛というのが定説である。後に、兼盛は娘の親権を求めて裁判を起こしているが敗れており、公式には父は赤染時用となる。
因みに、平兼盛は従五位上駿河守などを務めており、時用より若干うえ程度の同じ受領階級であるが、父は光孝天皇の曾孫であり、兼盛自身も歌人として知られていた。衛門の文才はこの人の血を引いているのかもしれない。
赤染衛門は、最初道長の妻倫子に仕えたが、その後その娘彰子に仕えている。これは先にも述べたように、彰子の入内にあたって、中宮定子を取り巻く女房たちと対抗できる陣容を整えるための文芸面での指導役として送り込まれた可能性が高い。
彰子入内の時、衛門は四十四歳の頃と考えられるが、女房としてはかなり高齢である。
当時の女性の生没年を正確に知ることは難しいが、清少納言より十歳、紫式部より十四歳、和泉式部より二十四歳、伊勢大輔とは三十三歳ほども年長であった。従って、年齢面でも、現在私たちがよく知る女流作家とは張りあうような関係ではなく、頼りとされるような年齢差があり、実際にアドバイスなどをしていたようなのである。
例えば、和泉式部に贈った和歌が残されている。
『 うつろはでしばし信太の森を見よ かへりもぞする葛のうら風 』
これは、和泉式部が夫橘道貞との仲が壊れかけた時、ほどなく敦道親王との交際が始まったと聞いた時に贈ったものである。歌意は、「心移りせずに、しばらくは和泉国の信太の森を見守りなさい。葛に吹く風で葉が翻るように、あの人が帰ってくるかもしれませんから」といったものであろう。
これに対する和泉式部の返答は、
『 秋風はすごく吹くとも葛の葉の うらみがほには見えじとぞ思ふ 』
というものであった。この後和泉式部は、激しい恋にのめり込んでいくが、その様子は「和泉式部日記」に残されている。
他にも、伊勢大輔の相談に応じたり、清少納言と交際があったことなども残されている。
また、二十一歳の頃、菅原氏と並ぶ学問の家柄である、文章博士大江匡衡(マサヒラ)と結婚しているが、その仲はとても良かったらしく、「匡衡衛門」とあだ名されたらしいことが「紫式部日記」に残されている。
匡衡は尾張国の国司などを務めているが、地方官としてその地の教育などに尽力しており、同行した衛門の内助の功もあったらしい。
子孫にも恵まれ、曾孫には平安期屈指の学者といわれる大江匡房がおり、その子孫には鎌倉幕府草創期の重臣大江広元がおり(他説もある)、そこから安芸毛利氏など有力氏族を誕生させている。
夫とは、五十七歳の頃に死別、匡衡が六十一歳の頃である。
『 君とこそ春来ることも待たれしか 梅も桜もたれとかは見む 』
『 五月雨の空だにすめる月影に 涙の雨ははるるまもなし 』
などの挽歌を残している。
仲の良い永年の伴侶を失くした衝撃は大きかったと思われるが、衛門はその後も文芸面での活動を続けていった。
藤原道長の栄華を記した「栄花物語」の作者であるとされており、少なくとも全四十巻のうちの正編三十巻には衛門が関わっていると考えられている。さらに、道長という時の権力者近くに仕えていたこともあって、当時の一流といわれる文学者との交流はきわめて広かったようである。
長久二年(1041)、後に大学者となる曾孫匡房の誕生には、産衣を縫い、喜びの歌を残している。
『 雲のうへにのぼらむまでも見てしがな 鶴の毛ごろも年ふとならば 』
「鶴が雲の上まで羽ばたくように、この子が成長して雲上人として栄達するまで見たいものだ」と意気軒高と歌い上げた赤染衛門であるが、この後まもなく没したらしい。
享年は、八十五歳前後と考えられるが、最期のその時まで、作歌の感性は衰えることがなかった。
ゆったりと、激しく人と争うこともなく、多くの女流文学者に影響を与えた赤染衛門こそ、平安女流文学界の主役のように思われてならないのである。
( 完 )