運命紀行
謎の歌集
『 人もをし人もうらめしあぢきなく 世を思ふゆへに物おもふ身は 』
『 ももしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり 』
この二つの和歌は、「小倉百人一首」のうちの九十九番歌後鳥羽院作と、百番歌順徳院作である。
撰者とされる藤原定家は、何故この二人の作者を小倉百人一首の中に加えたのであろうか。
「小倉百人一首」は、宇都宮頼綱の求めに応じて、障子の色紙として古来からの歌人の和歌一首ずつを定家が揮毫したものであるとされる。
その意味では、歌集というには若干性質を異にしているともいえるが、その撰定においては、相応の工夫や推敲がなされたはずである。歌人の撰定しかり、歌人ごとの和歌を選び出すこともしかり、さらには百首となれば、その内容の配置についても検討されたことは当然のことであろう。
障子に張る色紙とはいえ、また、わずか百人であり百首であるということは、歌集として捉えれば小ぶりではあるが、それだけに厳しい選定かなされたと思われるのである。
しかし、歌集として「小倉百人一首」を見た場合、それは、あまりにも謎の多い歌集だといえるのである。
「小倉百人一首」が現在のようなカルタとして広く知られるようになるのは、江戸時代になってからであるが、古来多くの歌人や学者がこの歌集に謎めいたものを感じていたようである。
定家がこの小さな歌集に、和歌の真髄を示そうとしたという意見もあるが、そうであれば、特別に謎めいているという表現など必要がない。
それよりさらに奥深く、和歌の秘伝のようなものが隠されているという意見もあるが、そうなるとその謎を解き明かそうということになり、謎の歌集と呼ぶにふさわしくなってくる。さらに、もっと大きな秘密、例えば、定家の血統である御子左家に関する秘伝を子孫に書き残したものであるとか、易経の秘伝であるとか、卜占に関する秘伝であるとかが隠されているということになれば、これはまさしく謎の歌集ということになる。
そこで、研究者たちが指摘する謎の幾つかを挙げてみよう。
最初にも掲げているが、後鳥羽院と順徳院の歌が入っていることが最大の謎といえる。
障子色紙を依頼したとされる宇都宮頼綱は、下野国の豪族宇都宮氏の第五代当主であるが、鎌倉御家人の一人である。幕府との確執もあり波乱の経歴を有しているが、承久の乱(1221)においては鎌倉留守居を務め、その功により伊予国の守護職に任じられている。定家に色紙を依頼したのは嘉祿元年(1225)とされるので同国守護の地位にあったと考えられる。
後鳥羽院と順徳院は鎌倉幕府討伐を計ったとされる承久の乱により、共に流罪されているのである。これより少し後になるが、新勅撰和歌集においては、定家が撰入していた二人の百余首を幕府の圧力により除外しているのである。
定家が宇都宮頼綱のために完成させた障子色紙は、どうやら二人の作品を除く九十八首から成っていたようであるが、いつの間にか流罪中の二人の上皇が加えられているのには、人物になのか、和歌の内容になのか、どうしても加えなくてはならない理由があるのかもしれない。
「小倉百人一首」には一番歌から百番歌まで順番が付けられているが、その配列方法に規則性がなく、何らかの特別な意図が込められているような雰囲気を漂わせている。
大まかに年代別にされているようにも感じられるが、少し詳しく見れば相当前後されている。
一番歌天智天皇、二番歌持統天皇、そして九十九番歌と百番歌に問題の二人の天皇で締めくくっている辺りは整合性があるようにもみえるが、他にも天皇の歌が撰ばれているので特別な形式でもないらしい。
ただ、何かと手を加えたがる後世の研究者たちも順番について手を付けていないということは、順番そのものに重要な秘密があるのかもしれない。
いにしえからの著名な歌人を集めたのだとすれば、納得し難い撰定が見られる。
例えば、額田王、山上憶良、大伴旅人らが撰ばれていない。また、「三十六歌仙」は定家の父俊成が撰んだもので、御子左家の歌道にとって重要な意味を持っていると思われるが、そのうち十一人が漏れている。俊成の撰がとても優れているとは言えないが、わざわざ撰ぶほどのこともないと思われる歌人が何人も加えられている。そこには、何らかの意図が感じられるようにも思える。
また、撰ばれている歌も、作者の代表歌とはとてもいえないものが多いと指摘する研究者もいる。正岡子規は、「悪歌の巣窟なり」と評したそうである。
和歌の評価は、受け手の感性や環境により大きく変化するものであるから、一概に悪歌・良歌と決められるものではないが、代表歌とされる歌が撰ばれていない点はあるようである。
例えば、菅原道真の『 東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ 』
藤原敏行の『 秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる 』
などは、大変有名な名作であるが別の歌が撰ばれている。
歌人にしても、撰歌にしても、定家としては他では役に立たない、何らかの重大な理由があったのかもしれない。
この他にも、秘伝、秘説が隠されているという研究が数多く行われてきたようである。
室町・戦国の時代に至っても、「古今伝授」という秘伝の継承者に関する出来事が時々登場してくる。これは、古今和歌集に関する秘伝かと思われるが、もしかすると、とてつもない秘伝が込められていたものなのかもしれない。
同じように、「小倉百人一首」にも、藤原定家という人物の渾身の秘伝が隠されているのかもしれないし、案外、後世の人々を思い迷わすだけの思惑だったのかもしれない。
* * *
現代の私たちは、藤原定家といえば、偉大な文学者として知られている。歌人として、「新古今和歌集」や「新勅撰和歌集」の撰者として、あるいは日記「明月記」を書き残したことでも知られるが、特に歌論書などについては鎌倉前期の第一人者としての評価は確定しているかのように見える。
しかし、定家の履歴を辿ってみると、少し違う姿が見えてくる。
定家の生年は、応保二年(1162)、没年は仁治二年(1241)、およそ七十九年の生涯である。
当時としては長命といえるが、その八十年に満たない生涯は、激しい変化の渦中で耐え忍ぶ生涯であったように見える。この期間の、大きな出来事の幾つかを西暦年で列記してみる。
1167年、平清盛が太政大臣となる。
1185年、平氏滅亡。
1192年、源頼朝が征夷大将軍に就く。
1219年、北条氏による執権政治始まる。
1221年、承久の乱。後鳥羽院、順徳院ら、流罪となる。
定家の御子左家は、藤原氏の全盛を誇った御堂関白家道長の流れをくむ家柄である。定家自身は、道長の五代後の子孫にあたる。
しかし、その五代の時間の流れは、藤原氏嫡流である摂関家とはかなりの距離が生まれていた。この頃、御子左家は家格としては羽林家とされていたが、同じような御堂庶流といわれる家柄である中御門や花山院などに比べて高官を輩出することが出来ていなかった。
特に、定家の父俊成は、父に早く死別したこともあり、一時は他家の養子となり諸国の受領を務めたため、中央の高官とのつながりが薄く、歌の道の評価の高さに関わらず、上流貴族としては官位に恵まれていなかった。
さらに、定家の時代は、平清盛の台頭により藤原氏全盛の時代は終わりを告げており、平氏滅亡の後は源氏による武家政権の力が高まり、藤原氏ばかりでなく、公家社会全体が苦難の時代へと向かっていた。
しかし、定家自身は、道長に繋がる血筋に強い誇りを持っていて、高位高官への望みは極めて旺盛であったようである。
実際に、五歳で従五位下を叙任しているのであるから、その理由はともあれ、並の公家から見れば恵まれ過ぎた家柄といえる。
十四歳の頃、侍従に任用されているが、これは父俊成が右京大夫を辞したことによるものである。そして、その俊成は翌年には出家しているので、定家の宮仕えの面ではほとんど無力であった。
この後は、庶流とはいえ御堂関白道長に繋がる気位の高さと、歌道の赫々たる高名に比べて思いにまかせぬ官位昇進の狭間で思い悩む生涯であったのかもしれない。
それでも九条家を中心にあらゆる伝手を頼り、父が受領を経験していることから経済的には余裕があったと思われ、可能な限りの賄賂を贈り、おそらく和歌の上手としての力も官位昇進のためにつぎ込んだものと想像される。
それでも、従三位に昇り公卿の地位を得たのは五十歳の時であった。定家にとって不利な社会情勢もあったが、二十四歳の頃に、殿上において少将源雅行と乱闘事件を起こし除籍処分を受けている。
そして、七十一歳になって、御子左家としては一つの目標ともいえる権中納言に昇ったが、一年も経たないうちに辞任しているが、これも、関白であり藤原氏の氏長者の地位にある九条道家と何らかの対立を起こしたことが原因らしい。そして、翌年は出家したのである。
藤原定家という人物は、筆と紙のみで生きた人物などではなく、血気盛んな人物でもあったらしい。
遥か下って、昭和二十六年(1951)、宮内庁蔵書から「百人秀歌」という写本が発見された。これは、「小倉百人一首」と双子の歌集と思われるような内容で、研究者に大きな衝撃を与えた。
「百人秀歌」の内容は、不思議なことに百一人による百一首からなっていてるのである。その歌人は、「小倉百人一首」の歌人の中から、後鳥羽院と順徳院が除かれていて、一条院皇后宮、権中納言国信、権中納言長方が加えられている。また、源俊頼朝臣の歌が異なってるほか、同じ歌でも内容が少し違うものがいくつかある。並び順も大幅に違っている。
「百人秀歌」には「百人秀歌 嵯峨山荘色紙形 京極黄門撰」という表題が付けられていて、二つの歌集は双子のような関係にあることは間違いない。(京極黄門とは定家のこと)
定家が宇都宮頼綱のために障子色紙を書いたのは、六十四歳の頃である。正三位で、参議を辞して間もない頃と考えられる。まだまだ官位昇進の意欲を持っていた頃で、後鳥羽院や順徳院を加えることなど考えられず、実際に九十八首で完成させたとされている。
しかし、ほぼ同時に、「百人秀歌」も作成しているのである。その役目は何であったのだろう。
定家は、七十二歳で出家した後も、文芸面では精力的に活動している。病がちであったとも伝えらているが、記録面から見る限り、いささかの衰えも見せていない。
そして、この間のどこかで、「小倉百人一首」の画竜点睛として、後鳥羽院と順徳院の二人を加えたのである。これによって、「九十八人の障子色紙」では伝えられない何らかの奥義を完成させたのかもしれない。
やはり、「小倉百人一首」の完成には、何としても後鳥羽院と順徳院が必要だったに違いない。
( 完 )
謎の歌集
『 人もをし人もうらめしあぢきなく 世を思ふゆへに物おもふ身は 』
『 ももしきや古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり 』
この二つの和歌は、「小倉百人一首」のうちの九十九番歌後鳥羽院作と、百番歌順徳院作である。
撰者とされる藤原定家は、何故この二人の作者を小倉百人一首の中に加えたのであろうか。
「小倉百人一首」は、宇都宮頼綱の求めに応じて、障子の色紙として古来からの歌人の和歌一首ずつを定家が揮毫したものであるとされる。
その意味では、歌集というには若干性質を異にしているともいえるが、その撰定においては、相応の工夫や推敲がなされたはずである。歌人の撰定しかり、歌人ごとの和歌を選び出すこともしかり、さらには百首となれば、その内容の配置についても検討されたことは当然のことであろう。
障子に張る色紙とはいえ、また、わずか百人であり百首であるということは、歌集として捉えれば小ぶりではあるが、それだけに厳しい選定かなされたと思われるのである。
しかし、歌集として「小倉百人一首」を見た場合、それは、あまりにも謎の多い歌集だといえるのである。
「小倉百人一首」が現在のようなカルタとして広く知られるようになるのは、江戸時代になってからであるが、古来多くの歌人や学者がこの歌集に謎めいたものを感じていたようである。
定家がこの小さな歌集に、和歌の真髄を示そうとしたという意見もあるが、そうであれば、特別に謎めいているという表現など必要がない。
それよりさらに奥深く、和歌の秘伝のようなものが隠されているという意見もあるが、そうなるとその謎を解き明かそうということになり、謎の歌集と呼ぶにふさわしくなってくる。さらに、もっと大きな秘密、例えば、定家の血統である御子左家に関する秘伝を子孫に書き残したものであるとか、易経の秘伝であるとか、卜占に関する秘伝であるとかが隠されているということになれば、これはまさしく謎の歌集ということになる。
そこで、研究者たちが指摘する謎の幾つかを挙げてみよう。
最初にも掲げているが、後鳥羽院と順徳院の歌が入っていることが最大の謎といえる。
障子色紙を依頼したとされる宇都宮頼綱は、下野国の豪族宇都宮氏の第五代当主であるが、鎌倉御家人の一人である。幕府との確執もあり波乱の経歴を有しているが、承久の乱(1221)においては鎌倉留守居を務め、その功により伊予国の守護職に任じられている。定家に色紙を依頼したのは嘉祿元年(1225)とされるので同国守護の地位にあったと考えられる。
後鳥羽院と順徳院は鎌倉幕府討伐を計ったとされる承久の乱により、共に流罪されているのである。これより少し後になるが、新勅撰和歌集においては、定家が撰入していた二人の百余首を幕府の圧力により除外しているのである。
定家が宇都宮頼綱のために完成させた障子色紙は、どうやら二人の作品を除く九十八首から成っていたようであるが、いつの間にか流罪中の二人の上皇が加えられているのには、人物になのか、和歌の内容になのか、どうしても加えなくてはならない理由があるのかもしれない。
「小倉百人一首」には一番歌から百番歌まで順番が付けられているが、その配列方法に規則性がなく、何らかの特別な意図が込められているような雰囲気を漂わせている。
大まかに年代別にされているようにも感じられるが、少し詳しく見れば相当前後されている。
一番歌天智天皇、二番歌持統天皇、そして九十九番歌と百番歌に問題の二人の天皇で締めくくっている辺りは整合性があるようにもみえるが、他にも天皇の歌が撰ばれているので特別な形式でもないらしい。
ただ、何かと手を加えたがる後世の研究者たちも順番について手を付けていないということは、順番そのものに重要な秘密があるのかもしれない。
いにしえからの著名な歌人を集めたのだとすれば、納得し難い撰定が見られる。
例えば、額田王、山上憶良、大伴旅人らが撰ばれていない。また、「三十六歌仙」は定家の父俊成が撰んだもので、御子左家の歌道にとって重要な意味を持っていると思われるが、そのうち十一人が漏れている。俊成の撰がとても優れているとは言えないが、わざわざ撰ぶほどのこともないと思われる歌人が何人も加えられている。そこには、何らかの意図が感じられるようにも思える。
また、撰ばれている歌も、作者の代表歌とはとてもいえないものが多いと指摘する研究者もいる。正岡子規は、「悪歌の巣窟なり」と評したそうである。
和歌の評価は、受け手の感性や環境により大きく変化するものであるから、一概に悪歌・良歌と決められるものではないが、代表歌とされる歌が撰ばれていない点はあるようである。
例えば、菅原道真の『 東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ 』
藤原敏行の『 秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる 』
などは、大変有名な名作であるが別の歌が撰ばれている。
歌人にしても、撰歌にしても、定家としては他では役に立たない、何らかの重大な理由があったのかもしれない。
この他にも、秘伝、秘説が隠されているという研究が数多く行われてきたようである。
室町・戦国の時代に至っても、「古今伝授」という秘伝の継承者に関する出来事が時々登場してくる。これは、古今和歌集に関する秘伝かと思われるが、もしかすると、とてつもない秘伝が込められていたものなのかもしれない。
同じように、「小倉百人一首」にも、藤原定家という人物の渾身の秘伝が隠されているのかもしれないし、案外、後世の人々を思い迷わすだけの思惑だったのかもしれない。
* * *
現代の私たちは、藤原定家といえば、偉大な文学者として知られている。歌人として、「新古今和歌集」や「新勅撰和歌集」の撰者として、あるいは日記「明月記」を書き残したことでも知られるが、特に歌論書などについては鎌倉前期の第一人者としての評価は確定しているかのように見える。
しかし、定家の履歴を辿ってみると、少し違う姿が見えてくる。
定家の生年は、応保二年(1162)、没年は仁治二年(1241)、およそ七十九年の生涯である。
当時としては長命といえるが、その八十年に満たない生涯は、激しい変化の渦中で耐え忍ぶ生涯であったように見える。この期間の、大きな出来事の幾つかを西暦年で列記してみる。
1167年、平清盛が太政大臣となる。
1185年、平氏滅亡。
1192年、源頼朝が征夷大将軍に就く。
1219年、北条氏による執権政治始まる。
1221年、承久の乱。後鳥羽院、順徳院ら、流罪となる。
定家の御子左家は、藤原氏の全盛を誇った御堂関白家道長の流れをくむ家柄である。定家自身は、道長の五代後の子孫にあたる。
しかし、その五代の時間の流れは、藤原氏嫡流である摂関家とはかなりの距離が生まれていた。この頃、御子左家は家格としては羽林家とされていたが、同じような御堂庶流といわれる家柄である中御門や花山院などに比べて高官を輩出することが出来ていなかった。
特に、定家の父俊成は、父に早く死別したこともあり、一時は他家の養子となり諸国の受領を務めたため、中央の高官とのつながりが薄く、歌の道の評価の高さに関わらず、上流貴族としては官位に恵まれていなかった。
さらに、定家の時代は、平清盛の台頭により藤原氏全盛の時代は終わりを告げており、平氏滅亡の後は源氏による武家政権の力が高まり、藤原氏ばかりでなく、公家社会全体が苦難の時代へと向かっていた。
しかし、定家自身は、道長に繋がる血筋に強い誇りを持っていて、高位高官への望みは極めて旺盛であったようである。
実際に、五歳で従五位下を叙任しているのであるから、その理由はともあれ、並の公家から見れば恵まれ過ぎた家柄といえる。
十四歳の頃、侍従に任用されているが、これは父俊成が右京大夫を辞したことによるものである。そして、その俊成は翌年には出家しているので、定家の宮仕えの面ではほとんど無力であった。
この後は、庶流とはいえ御堂関白道長に繋がる気位の高さと、歌道の赫々たる高名に比べて思いにまかせぬ官位昇進の狭間で思い悩む生涯であったのかもしれない。
それでも九条家を中心にあらゆる伝手を頼り、父が受領を経験していることから経済的には余裕があったと思われ、可能な限りの賄賂を贈り、おそらく和歌の上手としての力も官位昇進のためにつぎ込んだものと想像される。
それでも、従三位に昇り公卿の地位を得たのは五十歳の時であった。定家にとって不利な社会情勢もあったが、二十四歳の頃に、殿上において少将源雅行と乱闘事件を起こし除籍処分を受けている。
そして、七十一歳になって、御子左家としては一つの目標ともいえる権中納言に昇ったが、一年も経たないうちに辞任しているが、これも、関白であり藤原氏の氏長者の地位にある九条道家と何らかの対立を起こしたことが原因らしい。そして、翌年は出家したのである。
藤原定家という人物は、筆と紙のみで生きた人物などではなく、血気盛んな人物でもあったらしい。
遥か下って、昭和二十六年(1951)、宮内庁蔵書から「百人秀歌」という写本が発見された。これは、「小倉百人一首」と双子の歌集と思われるような内容で、研究者に大きな衝撃を与えた。
「百人秀歌」の内容は、不思議なことに百一人による百一首からなっていてるのである。その歌人は、「小倉百人一首」の歌人の中から、後鳥羽院と順徳院が除かれていて、一条院皇后宮、権中納言国信、権中納言長方が加えられている。また、源俊頼朝臣の歌が異なってるほか、同じ歌でも内容が少し違うものがいくつかある。並び順も大幅に違っている。
「百人秀歌」には「百人秀歌 嵯峨山荘色紙形 京極黄門撰」という表題が付けられていて、二つの歌集は双子のような関係にあることは間違いない。(京極黄門とは定家のこと)
定家が宇都宮頼綱のために障子色紙を書いたのは、六十四歳の頃である。正三位で、参議を辞して間もない頃と考えられる。まだまだ官位昇進の意欲を持っていた頃で、後鳥羽院や順徳院を加えることなど考えられず、実際に九十八首で完成させたとされている。
しかし、ほぼ同時に、「百人秀歌」も作成しているのである。その役目は何であったのだろう。
定家は、七十二歳で出家した後も、文芸面では精力的に活動している。病がちであったとも伝えらているが、記録面から見る限り、いささかの衰えも見せていない。
そして、この間のどこかで、「小倉百人一首」の画竜点睛として、後鳥羽院と順徳院の二人を加えたのである。これによって、「九十八人の障子色紙」では伝えられない何らかの奥義を完成させたのかもしれない。
やはり、「小倉百人一首」の完成には、何としても後鳥羽院と順徳院が必要だったに違いない。
( 完 )