介護について語る場合、介護する側とされる側の関係が、介護が始まる以前に良好だったかどうかが重要だと思います。親子だから、あるいは夫婦だからって、仲が良いわけではないからです。
私の場合、良好ではありませんでした。
前にも書きましたが、母から受けるストレスで私は心療内科に通っていました。
前に書いたように、母はまな板に茸を生やすような人でした。
それは一事が万事で、明らかに使用不可能となった物を捨てないのです。
雑巾などは、何十年も使いながらちゃんと洗わないので、腐って腐臭が漂っている雑巾を使い続けていました。結果、家じゅうに腐臭が漂うのです。
母が何年も使い続けていたタオルも凄かったです。母は常時1本しかタオルを使わなかったのですが、これもちゃんと洗わないものだから、濡れている時は何かの細菌が繁殖していたのかヌルヌル、乾いた時はバリバリになって棒状でした。
母は齢と共に目が不自由になっていたのですが、母の目の病気は腐ったタオルのせいではないかと思い、何度もタオルを捨てるように言ったのですが完全無視でした。
(家に新しいタオルがなかったわけではないのです。貰い物のタオルが手つかずのまま山ほどあったのです。)
料理の時に手を拭くエプロンも、洗いもせずに使い続けるものだからカビだらけでした。
見かねて私がバスタオルを半分に切って紐をつけてエプロンを二つ作ったのですが、直ぐにカビだらけにしてしまいました。洗濯しないで同じエプロンを使い続けるからです。
庭に、肥料になると言って生ごみをぶちまけるのも頭痛の種でした。生ごみは肥料にならず、むしろ土を汚すということが分からないのです。そもそも母には腐敗と発酵の区別がつかないのでした。
とまあ、この種のエピソードを上げればきりがありません。
今、高齢者で周囲が困ることと言えば、誰もがイメージする“介護”もさることながら、いわゆるごみ屋敷に繋がってしまう、物に対する異常な執着やら、医療や介護の拒否というセルフネグレクト(自己放置)であって、私の母の場合もそれに近かったかもしれません。
母は倒れる以前、頭もしっかりとしていましたし、体も糖尿で目が悪い以外とても元気で、いわゆる“介護”の必要な人ではなかったのです。
ただ、極端に不潔な状態に自らをおいてしまう状態は、老いと共にひどくなっていったような気がします。
それは視力や嗅覚や体力の低下が隠れた原因としてあったのかもしれません。
若い頃はどうだったかというと、その傾向はありました。
昭和30年代、女性の下着(シミーズとかズロース)がまだ木綿ばかりで色も白が大半だった頃、母の下着は長年身に付け過ぎて色が茶色になっていました。
父が呆れて「それは元々そういう色だったのか、それとも醤油で煮染めたのか」とか「わしの給料は新しいものが買えない程少なくはない筈だ」とか言っていましたが、母は一切無視。
影響は子供の私にも及んでいて、小学生の頃、学校から雑巾を1枚持ってくるように言われた時、母にそのことを言うと、雑巾として家で使用中の、子供心にさすがにそれは持っていけないと思うような雑巾を持っていくように母から言われました。
その時は、私は朝早く起きて、こっそり新しいタオルを出して、それを縫って持っていきました。
ただ当時は、確かに普通とは言い難かったものの、物凄く不潔とか、悪臭ふんぷんとか、そういう次元ではなかったのです。
齢を取って、明らかに異次元の状態に突入したのです。
元々そういう傾向があって、その上、変化は徐々に起こります。だから家族のストレスも知らないうちに増大していくのです。
私の場合、症状は週末だけの激しい下痢でした。
ウィークデイは仕事をしていて家にいないのですが、週末は1週間分の掃除や洗濯や庭仕事をします。その時に症状が現れるのです。母のやったことや、やっていることを眼にしてしまうからです。
ただ、心療内科に行っても、ストレスによる過敏性腸症候群と言われただけで、薬も全く効きませんでした。心療内科には、愚痴を聞いてもらいに行っているようなものでした。
そんな状態の時に、母は倒れたのでした。
そのことを心療内科の医師(女性)に言うと、医師は「みどりさん、今のうちよ。雑巾もタオルもみんな捨ててしまいましょ」と言いました。
考えてみれば、入院期間は長い筈だし、帰っても今まで通り動けるとは思えない。眼もどうなるか。医師の話によれば1年もたないということだし。
それならばと、雑巾もタオルも、変色してヨレヨレになった母の下着もすべて捨て、新しく出したり、買い整えたり。家の中もすっかり模様替えしてしまいました。文字通り、鬼のいない間に洗濯したのです。
かくして、私の週末限定の過敏性腸症候群は、母が倒れて以後、症状が出てくることはなくなったのでした。
こんなことを書くと、そんな体に悪そうなタオルなど、勝手に捨てられなかったのかと思われそうですが、それができればゴミ屋敷の近隣住民も悩むことはないのです。
たとえば、文豪の森鴎外の娘に、森茉莉という作家でエッセイストがいました。
彼女もまたゴミ屋敷の住人でした。正確には、彼女の場合はアパートに住んでいたのでゴミ部屋の住人でした。
そのアパートが老朽化して取り壊しが決まり、引っ越しせざるを得なくなった時、彼女の部屋の家具を運び出そうにも、長年のゴミや埃が湿気で土と化していて、家具はタケノコを掘るように土と化したゴミを掘らねば運び出されなかったということでした。(手伝いに行った出版社の編集者の証言です。)
森茉莉の部屋がそれほどひどい状態でなかった頃、彼女の部屋のゴミを見るにみかねて、森茉莉の親友だった詩人の萩原朔太郎の娘である作家の萩原葉子が、ゴミ袋一つ分のゴミを無断で捨てたそうです。
森茉莉はそのことに怒り狂い、激高のあまり呼吸困難に陥り、救急車で病院に運ばれる騒ぎになったそうです。
森茉莉は晩年まで人気のあるエッセイストで、作家として活躍していましたが私生活はそんなふうでした。
母の場合も、他人には信頼されていて、様々な活動をしていたのです。
こういうタイプの人は、勝手にゴミ(と第三者には見える物)を処分されると怒り狂い、時には暴力沙汰になるのです。
かといって、どんなに説得を試みても自分でゴミを処分することもないのです。
少なくとも、相手との良好な人間関係を保つにはゴミは捨てられないのです。
こういう状況に解決策があるかどうかは疑問です。
母の場合、介護が必要なほど体の状態が悪くなったことが、結果として解決に繋がったのです。
私の場合、良好ではありませんでした。
前にも書きましたが、母から受けるストレスで私は心療内科に通っていました。
前に書いたように、母はまな板に茸を生やすような人でした。
それは一事が万事で、明らかに使用不可能となった物を捨てないのです。
雑巾などは、何十年も使いながらちゃんと洗わないので、腐って腐臭が漂っている雑巾を使い続けていました。結果、家じゅうに腐臭が漂うのです。
母が何年も使い続けていたタオルも凄かったです。母は常時1本しかタオルを使わなかったのですが、これもちゃんと洗わないものだから、濡れている時は何かの細菌が繁殖していたのかヌルヌル、乾いた時はバリバリになって棒状でした。
母は齢と共に目が不自由になっていたのですが、母の目の病気は腐ったタオルのせいではないかと思い、何度もタオルを捨てるように言ったのですが完全無視でした。
(家に新しいタオルがなかったわけではないのです。貰い物のタオルが手つかずのまま山ほどあったのです。)
料理の時に手を拭くエプロンも、洗いもせずに使い続けるものだからカビだらけでした。
見かねて私がバスタオルを半分に切って紐をつけてエプロンを二つ作ったのですが、直ぐにカビだらけにしてしまいました。洗濯しないで同じエプロンを使い続けるからです。
庭に、肥料になると言って生ごみをぶちまけるのも頭痛の種でした。生ごみは肥料にならず、むしろ土を汚すということが分からないのです。そもそも母には腐敗と発酵の区別がつかないのでした。
とまあ、この種のエピソードを上げればきりがありません。
今、高齢者で周囲が困ることと言えば、誰もがイメージする“介護”もさることながら、いわゆるごみ屋敷に繋がってしまう、物に対する異常な執着やら、医療や介護の拒否というセルフネグレクト(自己放置)であって、私の母の場合もそれに近かったかもしれません。
母は倒れる以前、頭もしっかりとしていましたし、体も糖尿で目が悪い以外とても元気で、いわゆる“介護”の必要な人ではなかったのです。
ただ、極端に不潔な状態に自らをおいてしまう状態は、老いと共にひどくなっていったような気がします。
それは視力や嗅覚や体力の低下が隠れた原因としてあったのかもしれません。
若い頃はどうだったかというと、その傾向はありました。
昭和30年代、女性の下着(シミーズとかズロース)がまだ木綿ばかりで色も白が大半だった頃、母の下着は長年身に付け過ぎて色が茶色になっていました。
父が呆れて「それは元々そういう色だったのか、それとも醤油で煮染めたのか」とか「わしの給料は新しいものが買えない程少なくはない筈だ」とか言っていましたが、母は一切無視。
影響は子供の私にも及んでいて、小学生の頃、学校から雑巾を1枚持ってくるように言われた時、母にそのことを言うと、雑巾として家で使用中の、子供心にさすがにそれは持っていけないと思うような雑巾を持っていくように母から言われました。
その時は、私は朝早く起きて、こっそり新しいタオルを出して、それを縫って持っていきました。
ただ当時は、確かに普通とは言い難かったものの、物凄く不潔とか、悪臭ふんぷんとか、そういう次元ではなかったのです。
齢を取って、明らかに異次元の状態に突入したのです。
元々そういう傾向があって、その上、変化は徐々に起こります。だから家族のストレスも知らないうちに増大していくのです。
私の場合、症状は週末だけの激しい下痢でした。
ウィークデイは仕事をしていて家にいないのですが、週末は1週間分の掃除や洗濯や庭仕事をします。その時に症状が現れるのです。母のやったことや、やっていることを眼にしてしまうからです。
ただ、心療内科に行っても、ストレスによる過敏性腸症候群と言われただけで、薬も全く効きませんでした。心療内科には、愚痴を聞いてもらいに行っているようなものでした。
そんな状態の時に、母は倒れたのでした。
そのことを心療内科の医師(女性)に言うと、医師は「みどりさん、今のうちよ。雑巾もタオルもみんな捨ててしまいましょ」と言いました。
考えてみれば、入院期間は長い筈だし、帰っても今まで通り動けるとは思えない。眼もどうなるか。医師の話によれば1年もたないということだし。
それならばと、雑巾もタオルも、変色してヨレヨレになった母の下着もすべて捨て、新しく出したり、買い整えたり。家の中もすっかり模様替えしてしまいました。文字通り、鬼のいない間に洗濯したのです。
かくして、私の週末限定の過敏性腸症候群は、母が倒れて以後、症状が出てくることはなくなったのでした。
こんなことを書くと、そんな体に悪そうなタオルなど、勝手に捨てられなかったのかと思われそうですが、それができればゴミ屋敷の近隣住民も悩むことはないのです。
たとえば、文豪の森鴎外の娘に、森茉莉という作家でエッセイストがいました。
彼女もまたゴミ屋敷の住人でした。正確には、彼女の場合はアパートに住んでいたのでゴミ部屋の住人でした。
そのアパートが老朽化して取り壊しが決まり、引っ越しせざるを得なくなった時、彼女の部屋の家具を運び出そうにも、長年のゴミや埃が湿気で土と化していて、家具はタケノコを掘るように土と化したゴミを掘らねば運び出されなかったということでした。(手伝いに行った出版社の編集者の証言です。)
森茉莉の部屋がそれほどひどい状態でなかった頃、彼女の部屋のゴミを見るにみかねて、森茉莉の親友だった詩人の萩原朔太郎の娘である作家の萩原葉子が、ゴミ袋一つ分のゴミを無断で捨てたそうです。
森茉莉はそのことに怒り狂い、激高のあまり呼吸困難に陥り、救急車で病院に運ばれる騒ぎになったそうです。
森茉莉は晩年まで人気のあるエッセイストで、作家として活躍していましたが私生活はそんなふうでした。
母の場合も、他人には信頼されていて、様々な活動をしていたのです。
こういうタイプの人は、勝手にゴミ(と第三者には見える物)を処分されると怒り狂い、時には暴力沙汰になるのです。
かといって、どんなに説得を試みても自分でゴミを処分することもないのです。
少なくとも、相手との良好な人間関係を保つにはゴミは捨てられないのです。
こういう状況に解決策があるかどうかは疑問です。
母の場合、介護が必要なほど体の状態が悪くなったことが、結果として解決に繋がったのです。
失礼な言い方をお許し頂くと、外面が良いタイプかな?
これでは家族は大変だったと思います。
高齢になると清潔にしていても、何となく薄汚く見えてしまいがち。反面教師になって下さったのでは…。
と、結果論かもしれませんね。
森さん、お名前から想像しにくいですね。
何となく可愛い方かと思っていたので。
両親に会いに行ったら疲労困憊、帰って熱を出す
そういう自分に嫌悪感を抱いて落ち込む、の繰り返しでした。
介護が始まってあたしが恵まれていると感じたのは、
母親との関係が似たような状況の友人がいることと、
従姉妹が母のことを慕ってくれてることと、
義妹が弟より母のことを考えてくれてること。
世の中よくできてるわ〜と本当にありがたいです(苦笑)
それにしても、お母様のこと、いろんな意味で大変でしたね〜
心療内科の先生の一言が素敵です。
やっぱり周囲に自分の状況をわかってくれる人や
似たような状況にある人がいることは
本当にありがたいものだと思います。
今でもその友人とは飲んで愚痴ってます(笑)
その代わり家事や家族は放置でした。
自立心が強く、ケアマネさんの評価も高かったですね。
欠点と長所は同じだとつくづく思います。
森茉莉、風変りな人だったみたいですね。
エッセイは私も面白く読んでいました。
『私の美の世界』とか。
彼女の私生活を知って「美の世界」って
と思いましたけど。
二十歳過ぎれば、自分のことは自分の責任と考えてやってきましたし、中年に差し掛かる頃には母との関係を良くしようと、それなりに努力してきました。母も多少は気を遣っていたようです。
母の死後、母がどんなに人に信頼されていたり、慕われていたりしたか、「あなたはご存知ないでしょうけども」と何人もの人から言われました。
人間も、世の中も、それなりに帳尻があわされているのだなと思います。
居るのですね
実は、義妹は、親戚も手を焼く、姑の施設でも問題を起こす厄介な人格です
姑と私の関係は、問題が、無かったし、施設のスッタフも
姑は可愛くて問題ない患者さんだと
言って
細かく気を遣ってくれます
しかし、わたしが施設に行くと、スッタフが入れ替わり立ち代わり
義妹が 「ああ云った。 こうした」って愚痴を聞かせてくれます
もう何度か 義妹が手に負えないので、別の施設を探してくださいと言われました
一度、スッタフに「土下座しろ」って言ったそうです
他人に厳しく自分に甘い
わたしも、円形脱毛になったり 原因不明の咳で通院したこともあります
他にも書きたいことが、一杯ありますけど
おかあさま 外では信頼されたり、慕われたりなさっていたのなら
それなりにお幸せだったのでは、ないでしょうか
森茉莉さん、そんな人とは思いませんでした
父が母の為に、毎月買っていた「婦人公論」とかに登場していたけど そんな人とは
(母は、読んでなかったんですけどね)
しまそだちさんも苦労されますね。それも介護とは別の苦労ですね。
スタッフもクレーマー家族の対応に追われて肝心の介護にエネルギーが向けられないのではないでしょうか。
世の中には解決のできない事柄がたくさんありますよね。
いずれ何とかなると思うしかないです。
森茉莉さん。あの人も周囲の人を振り回し続けた人のようでしたね。死後に色々分かってきました。
人の評価って、分かりません。
分かり合えるところがありますね。
みどりさんはお母さまのことを、すごくわかっておられたと思いました。
娘にここまで自分をわかってもらえていたお母さまは、
お幸せだったはずです。
私は母のこと、そんなにわかっているかしら・・と振り返りました。
介護が必要になるであろうこれからが、母を知るための、
貴重な時間になるのかもしれません。
でも、介護が始まって、ケアマネさんに指摘されて初めて母の長所を知ることもあったのです。
家族間の煮詰まった関係だけでなく、他人が入ることによる違う視点もまた必要だなと思いました。
今の介護は、そういう意味で良い制度だと思います。
nanaさん、今のうち、お母さまと楽しい時を過ごしてください。私の後悔は、話せるうちにもっと話しておかなかったことでした。