今回のテーマは調べれば調べるほど深いものがあって、我ながら大変な記事を書き始めてしまったなと思います。
もし私が大学の社会学科の学生か何かだったら卒業論文に取り上げたいくらいです。
論文ならば常に論拠となるエビデンス(証拠)を示さなければならないのでしょうが、ここではスマホで撮ったスクショ画面をエビデンスとして貼り付けることにしました。
必要な部分だけ切り取りましたので見辛いかもしれませんが我慢してください。
というわけで以下は①②からの続きです。
ジェンダーフリーの推進という最近の傾向を除けば、欧米では男子新体操に対し、長年にわたり抵抗があったようですし、今もあるみたいです。
多分それが分かれば、かつて日本の新体操がFIGに加盟のアピールをしたにもかかわらず認められなかった原因も分かると思います。
今回はそれについて私の考察したことを書きます。
(男子新体操は、今現在は加盟のアピールより国内での普及活動に力を入れているようです。)
以下に例として、実際のコメント欄から三種のコメントのコピーを挙げてみます。
どれも同じ2020年の吉留大雅選手の個人演技の動画のコメント欄にあったものです。動画はここです。
コメントは演技に対する感想が多いのですが、ときおり男子新体操そのものに対するコメントがあり、ここで挙げるのはそういうものです。
グーグル翻訳の日本語訳ですので、意味が分かり辛い部分もありますが、詳しく知りたい人は動画サイトの原文を当たってください。
一つ目は応援するものです。
原語は英語で、名前とプロフィール画像から判断すると女性のようです。
この人は日本の男子新体操が国際的に認められていないと知ると、ロビー活動のお手伝いや、署名活動があればそれへの参加を表明しています。
「FIGが加入を認めないのはおかしい」とコメントで書いている外国人は多いのですが、この人の場合は随分と積極的・能動的です。
それに対してもう一つは拒否的な意見です。
グーグルが翻訳しなかった「ダム」というのは、「くそっ」のような罵倒語です。
②で紹介した日本の男子新体操の応援サイトの「応援!男子新体操」さんの記事【「これは、新体操じゃない」から2年半】でも、「これは、新体操じゃない」というコメントと並び「なぜ男子が女子のスポーツである新体操をやらなければならないのか」というコメントが当初は多かったそうです。
これはその種の女性の側からの意見です。
(このコメントには直ぐに反論のコメントがありました。)
②で私は、コーチとして女子の新体操の第4回の世界選手権大会(ブルガリア)に赴いた藤島氏について書きました。
その藤島氏へのインタビュー動画(ここ)によれば、1969年の第4回当時、審判・監督会議に参加できるのは女性だけだったそうです。
要するに選手も監督もコーチも審判もすべて女性で、男性は会議に参加することすらできなかったみたいです。
女性のみというようなことが今も続いているかどうかは分からないですが、当時のスポーツ界はほぼ男性によって牛耳られており、その中で新体操だけは男性が入ることのできない女性の聖域だったのではないかと推測されます。
ジェンダーフリーが急速に進展している今の時代からみて、それは過渡的に必要とされた在り方だったのかなと思います。
さて、三つ目ですが、これが一番の問題。
RGというのは Rhythmic Gymnasticsの略で、 要するに新体操のことです。
親指を下に向けた絵文字は「いいね」の反対ですね。
このコメントに対し動画サイトの運営者である「応援 男子新体操」を始め、幾つかの反論の返信コメントがあります。
それに対し彼は次のようにコメントしてます。
そして、最終的に彼は以下のようにコメントしています。
15年間も真面目に体操に取り組んでいたという人の否定的な意見は、一般の人の判断より欧米の体操界の男子新体操を見る目に近いかもしれません。
それにしても品位を落とすとは酷い言い方です。
でもなぜ男子新体操が男性の体操選手の品位を落とすのか、はっきりとは書かれていません。
少なくとも演技に問題があるわけではないのです。
ここでの吉留選手の演技は、あくまで素人目ですが、スキルと芸術性において優れたものです。
少なくとも品位において問題になるようなものではありません。
コメントしているPauro某氏は、吉留選手の演技ではなく、男性のRG全般に対して品位を問題にしているようです。(演技は見ず、men’sのRGという言葉に反応しただけかもしれません。)
そして品位を問題にすることは、彼の中では説明の必要もないほどの常識だった・・・。
前に書いたように、私は一部の外国人のコメントに違和感を感じてその意味を探りました。
当初、私はYouTubeのお勧めで見始めた井原高校の男子新体操の演技を主に見ていました。
男子新体操は、国内外を問わず、自分達の認知と普及を目指して、演技だけでなく練習風景や国内外で行った様々なイベントや練習風景の動画も発信しています。
井原高校も例にもれず練習風景の動画を幾つか発信しています。
そうした動画のコメントの中で「自分には演技している選手達は少女に見え、演技していない時の選手達は少年に見える」というものがありました。
私は『えっ???』って感じでした。
いくら欧米人より日本人が華奢だとしても体型から見て演技中の井原高校の選手達はどう見ても少女には見えないからです。
それに“演技中だけ”少女に見えるとはどういうこと??
でも男子新体操では、この種の訳の分からない事柄はよくあるのです。
たとえば私の記憶に残るネットの記事でも、ある日本人が、男子新体操の個人選手の演技を外国人に見せたところ「こんなにも女性的にならなければいけないのか」と言われ、「一体この選手のどこが女性的なのか」と怒っていたのがありました。
多分それも、その選手が女性的なわけでも、また演技が女性的なわけでもなかったと思います。
私がその意味をやっと理解したのは2018年の青森大学の演技(ここ)に付いたコメントからでした。
演技を見て貰えば理解できますが、2018年の青森大学の演技は「古代の戦士達のようだ」というコメントがあったくらいで、優雅でありながら力強いものでした。
それを「女性らしさの表れ?」と問いかけるのはオカシイのです。
さすがに他の人もオカシイと思ったのか以下のように「女性らしさ?」と問い返すコメントもありました。
それで私もやっと気が付いたのですが、欧米の一部の人達にとっては、音楽に合わせて踊ることは女性以外にありえないと考えられていることです。
だから筋肉質の若い男たちが古代の戦士のように踊っても「女性らしさの現れ」になってしまうのです。(疑問符をつけているところを見ると自分でも変だと思っているみたいですが)
そのダンス自体が女性的か男性的か、はたまた性別とは無関係なものなのかは全く関係ないのです。
踊っている人=女性、踊ること=女らしい、なのです。
そんな馬鹿なと思われるかもしれません。
私も意外でした。
だって昔の映画で見たジョージ・チャキリスは、フレッド・アステアは、ジーン・ケリーは、男性ですが踊っていたではないですか。(我ながら古い・・💦)
(もっとも、ジーン・ケリーは子供の頃、ダンスを習っていて、近所の子供に「女々しい」とからかわれ、一時期ダンスを辞めていたらしい。)
しかし考えてみれば彼らの場合は歌も歌い、演技もし、要するにミュージカルの中のダンスです。
しかもストーリーはほぼ男女の恋愛もので、相手役の女性も登場します。
フレッド・アステアの場合、当初は姉とコンビを組んで踊っていましたが、姉が結婚して引退後はコンビの相手探しに苦労しています。
衣装も普通の男性の衣装です。
おそらくそれ故に、ダンスを踊っても彼らは男性なのです。
私は日本以外で生活したことがない日本人で、正直なところ欧米文化のコアに関わる知識は持ち合わせていません。
ただ彼らの発言から推定できることを書きます。
どうやら、レオタードのような衣装を身に付けた男性の、音楽に合わせたダンスや体操に対する偏見があるみたいです。
器械体操の床運動でも、女性選手は音楽付きで演技しますが、男性選手は音楽無しです。
要するに男性は踊っているように見えてもいけないのです。
逆に女性は踊ることが求められているみたいです。
女性のみ、“体操の要素”としてリズム感があることが問われるのです。
でも、筋肉の量や質の違いから男性にのみ吊り輪やあん馬があるのは分かるのですが、リズム感が女性にのみ求められるのは、それこそ欧米だけで通じる社会的・文化的性差=ジェンダーなのではないでしょうか。
いずれにしても、これが新体操(Rhythmic Gymnastics )が長い間女性のみのスポーツであった理由だと思われます。
②で紹介した男子新体操の応援サイト「応援!男子新体操」の【「これは、新体操じゃない」から2年半】では、「これは新体操ではない」というコメントの次に多かったのは「なぜ男子が女子のスポーツである新体操をやらなければならないのか」というコメントだったそうでが、その背景にあるのもこの考えだと思われます。
彼らにすれば、音楽に合わせて演技するのは女性であることは疑問の余地もない当然のことなのです。
(余談ですが、ブレイクダンスのようなストリート系のダンスは、次回のパリオリンピックで追加競技となったように男性がダンスしても許容されています。
おそらく社会的な文脈がまったく異なるのでしょうね。
それ以前に、オリンピックでストリート系の競技が増えてきているのは、現在、世界的にオリンピックに対する関心が薄れてきているので、ストリート系の競技を積極的に取り入れることで若い世代のオリンピック離れを止める為だと言われています。)
話を元に戻すと、はっきりと次のようなコメントもありました。(このコメントは同じ吉留選手の2019年の動画からです。⇒ここ)
私は日本において男性がダンスする、音楽に合わせて踊ることが不名誉なことか考えたこともなかったですが、少なくとも私は67年間生きてきて「男が踊るとは何事だ」みたいなことが言われているのを聞いたことがありません。
ダンスすること、舞踊は、男女を問わずいつもポジティブに捉えられていたように思います。
ただ、女の子が習うものだとされているバレエや男子新体操についてのみ、時にからかいの対象になるようです。(男子新体操については女子の新体操との混同による無知からきています。)
それも子供か、頭の中が子供レベルの大人の世界だけの話です。
だから、伝統的には男性だけで踊ることを不名誉とする文化は日本には存在しないのではないかと思います。
では踊る男性を一部の欧米の人達はどう見なすのか。
女性的な男性、「ゲイ」だとみなすのです。
以下のコメント。
当然そのように見られることを恐れているコメントも。
私はここでは主に2019年と2020年の吉留選手の演技の動画に付いたコメントを紹介しました。
こうした動画がYouTubeにアップされるのは、実際に演じられた1、2年後ですので、コメントはスクショ画面からも分かるようにここ1、2年に書かれたものです。
よほど世の中の動きに疎い人でない限り気づいているように、ここ数年で先進国と言われている国々のジェンダーやセクシュアリティに関する考えは急激に変わってきています。
だから(誰も自分が遅れていると思われたくないので)、ある意味コメントは曖昧で、肝心な部分はぼかされているのです。
それがまた私を怪訝な感じにさせた理由でもありました。
「ダンスを踊るなんて女以外ありえないだろう。男が踊るとしたら、そいつはゲイだ」と、はっきりと書いてはいないのです。
もしはっきりとそう書いてあったら、言っている事のおかしさを指摘するのはそれほど困難ではないでしょう。
ではここ1、2年ではない、ずっと以前のものならどうなのか。
最も古く、YouTubeで世界レベルでバズった男子新体操の動画は、この記事のシリーズの①で取り上げた2009年の青森大学の演技ですが、その動画は転載されて複数あります。
ここでは、同一の動画が「The Worlds Most Amazing Asian Synchronized Dancers」と題されたもの(ここ)と、「Men's RG.Aomori univ.Oct-2009」と題されたもの(ここ)でアップされているので、その二つの動画のコメント欄の違いを見てみます。
前者の題の意味は「世界で最も驚くべきアジアの同期したダンサーたち」であり、説明も演技者をダンサーとしていて、アジアであることだけ分かりますが、国名も、誰が演技しているのかも、どういう状況なのかも分かりません。
後者の題の意味は「男子新体操 青森大学 2009年10月」で、説明でも全日本選手権で優勝した演技であるとされています。
要するに前者ではダンスということになっており、後者では男子新体操であることが分かるようになっているのです。
この二つの、そもそもは同じ動画のコメント欄を読んで何がわかるのか。
前者の「ダンサーたち」とのみ説明されていた場合、そのダンサーの性別を女性だと思い込んだ視聴者が多くいたのです。
中にはコメントを書く段階でも男性だと分からなかった人もいます。
私はわざと選手の写っている画面も入れましたが、女性に見えるでしょうか。
男性か女性か迷っている人もいました。
途中で女性だと思い込んでいた自分の間違いに気づく人達もいます。
日本人ならまず間違えないと思いますが、彼らはなぜこんなにも性別を間違えるのか。
それはやはり音楽に合わせて演技する人は女性でしかないと思い込んでいるからでしょう。
彼らにとってはダンサーが女性であることは自明の理であり、無自覚かつ無意識の、極めて強力な思い込みのようです。
だから男性ダンサーがどんなダンスを踊ろうとも、彼らにとってはそのダンスは女性的になってしまうのです。
そこまで強力な社会的な何かがあるとしか言いようがありません。
では後者の動画ではどうか。
後者ではMen's RGという形で最初から演技者が男性であることが明かされています。
(前者ではコメント数が1879か1880、後者では474と書かれていますので、そこで前者と後者の区別をつけられます。)
するとコメント欄は古いものであればある程、「ゲイだ」「ゲイだ」になります。
もちろん前者の性別が明かされていない動画のコメントでも、演技者が男性だと気づくと「ゲイ」ということになります。
偏見に基づく妄想の世界がどんなものか知りたかったら、これらのコメントを読めばいいのです。
私自身こういうコメントは、引用していても気分が悪くなるので、ここらへんで止めときます。
それらの妄想的認識は「ほとんど病気」というより、既に「病膏肓に入っている」感じのものです。
いずれにしても、ある一つの文化圏の血肉と化した偏見・ステロタイプを打ち砕くことが容易ではないことは理解できます。
もちろんコメントは以上のようなものばかりでなく、大半は賞賛です。
ゲイだと決めつけているコメントにうんざりしているコメントもあります。
ゲイだと決めつけているコメントでも「ゲイだが素晴らしい」と、一方で賞賛しながらゲイだと決めつける混乱したコメントもあります。
男性が踊っているとゲイだと決めつけるのは、彼らにとって“パブロフの犬”のごとき反応なのかもしれません。
ちなみにコメント中で書かれているエスノセントリズムとは、自分の生まれ育った文化・社会の価値観を絶対的なものと考えて、それを基準に他の文化・社会を評価する考え方のことです。
誤解なきよう付け加えておくと、私がここで問題にしているのは、私自身がゲイをネガティブな存在だと捉えて、コメントをしている人達が男子新体操の選手達をゲイだと決めつけていることではありません。
私が問題にしているのは、同性愛であれ異性愛であれ、およそ人の性的指向を勝手に決めつけていることです。
その上、彼ら自身にとってはゲイはネガティブな存在であり、そういうレッテル貼りを平気で、確信をもって、時に面白おかしく行っていることです。
LGBTQについて論じられる場合、多くはそれを性的マイノリティである人達に対する差別の問題として語られています。
ですが日本の男子新体操の場合、そもそもゲイあるいはゲイの文化とは無関係で、多くいる選手達の中に確率的にゲイの選手がいたとしても、男子新体操自体が性的マイノリティと関係があるとは言えません。
だからといって、そこにはLGBTQに対する差別の問題は存在しないとは言えないのです。
なぜなら差別する人達は日本の男子新体操の選手達をゲイだと確信していて、その上で差別しにかかり、男子新体操をスポーツではないとさえ言っているからです。
しかもそのベースにあるのは「音楽に合わせて演技するのは女性以外にありえない」という特異なジェンダー観、男らしさや女らしさにまつわる思い込みです。
もちろんそこにはコメントで指摘されているようにエスノセントリズムもあります。
すなわち文化の多様性に対する無理解です。
実際、文化によってはLGBTQさえ問題にならなかったことは歴史上明らかでもあるのです。
長くなりそうなので一旦切ります。
もし私が大学の社会学科の学生か何かだったら卒業論文に取り上げたいくらいです。
論文ならば常に論拠となるエビデンス(証拠)を示さなければならないのでしょうが、ここではスマホで撮ったスクショ画面をエビデンスとして貼り付けることにしました。
必要な部分だけ切り取りましたので見辛いかもしれませんが我慢してください。
というわけで以下は①②からの続きです。
ジェンダーフリーの推進という最近の傾向を除けば、欧米では男子新体操に対し、長年にわたり抵抗があったようですし、今もあるみたいです。
多分それが分かれば、かつて日本の新体操がFIGに加盟のアピールをしたにもかかわらず認められなかった原因も分かると思います。
今回はそれについて私の考察したことを書きます。
(男子新体操は、今現在は加盟のアピールより国内での普及活動に力を入れているようです。)
以下に例として、実際のコメント欄から三種のコメントのコピーを挙げてみます。
どれも同じ2020年の吉留大雅選手の個人演技の動画のコメント欄にあったものです。動画はここです。
コメントは演技に対する感想が多いのですが、ときおり男子新体操そのものに対するコメントがあり、ここで挙げるのはそういうものです。
グーグル翻訳の日本語訳ですので、意味が分かり辛い部分もありますが、詳しく知りたい人は動画サイトの原文を当たってください。
一つ目は応援するものです。
原語は英語で、名前とプロフィール画像から判断すると女性のようです。
この人は日本の男子新体操が国際的に認められていないと知ると、ロビー活動のお手伝いや、署名活動があればそれへの参加を表明しています。
「FIGが加入を認めないのはおかしい」とコメントで書いている外国人は多いのですが、この人の場合は随分と積極的・能動的です。
それに対してもう一つは拒否的な意見です。
グーグルが翻訳しなかった「ダム」というのは、「くそっ」のような罵倒語です。
②で紹介した日本の男子新体操の応援サイトの「応援!男子新体操」さんの記事【「これは、新体操じゃない」から2年半】でも、「これは、新体操じゃない」というコメントと並び「なぜ男子が女子のスポーツである新体操をやらなければならないのか」というコメントが当初は多かったそうです。
これはその種の女性の側からの意見です。
(このコメントには直ぐに反論のコメントがありました。)
②で私は、コーチとして女子の新体操の第4回の世界選手権大会(ブルガリア)に赴いた藤島氏について書きました。
その藤島氏へのインタビュー動画(ここ)によれば、1969年の第4回当時、審判・監督会議に参加できるのは女性だけだったそうです。
要するに選手も監督もコーチも審判もすべて女性で、男性は会議に参加することすらできなかったみたいです。
女性のみというようなことが今も続いているかどうかは分からないですが、当時のスポーツ界はほぼ男性によって牛耳られており、その中で新体操だけは男性が入ることのできない女性の聖域だったのではないかと推測されます。
ジェンダーフリーが急速に進展している今の時代からみて、それは過渡的に必要とされた在り方だったのかなと思います。
さて、三つ目ですが、これが一番の問題。
RGというのは Rhythmic Gymnasticsの略で、 要するに新体操のことです。
親指を下に向けた絵文字は「いいね」の反対ですね。
このコメントに対し動画サイトの運営者である「応援 男子新体操」を始め、幾つかの反論の返信コメントがあります。
それに対し彼は次のようにコメントしてます。
そして、最終的に彼は以下のようにコメントしています。
15年間も真面目に体操に取り組んでいたという人の否定的な意見は、一般の人の判断より欧米の体操界の男子新体操を見る目に近いかもしれません。
それにしても品位を落とすとは酷い言い方です。
でもなぜ男子新体操が男性の体操選手の品位を落とすのか、はっきりとは書かれていません。
少なくとも演技に問題があるわけではないのです。
ここでの吉留選手の演技は、あくまで素人目ですが、スキルと芸術性において優れたものです。
少なくとも品位において問題になるようなものではありません。
コメントしているPauro某氏は、吉留選手の演技ではなく、男性のRG全般に対して品位を問題にしているようです。(演技は見ず、men’sのRGという言葉に反応しただけかもしれません。)
そして品位を問題にすることは、彼の中では説明の必要もないほどの常識だった・・・。
前に書いたように、私は一部の外国人のコメントに違和感を感じてその意味を探りました。
当初、私はYouTubeのお勧めで見始めた井原高校の男子新体操の演技を主に見ていました。
男子新体操は、国内外を問わず、自分達の認知と普及を目指して、演技だけでなく練習風景や国内外で行った様々なイベントや練習風景の動画も発信しています。
井原高校も例にもれず練習風景の動画を幾つか発信しています。
そうした動画のコメントの中で「自分には演技している選手達は少女に見え、演技していない時の選手達は少年に見える」というものがありました。
私は『えっ???』って感じでした。
いくら欧米人より日本人が華奢だとしても体型から見て演技中の井原高校の選手達はどう見ても少女には見えないからです。
それに“演技中だけ”少女に見えるとはどういうこと??
でも男子新体操では、この種の訳の分からない事柄はよくあるのです。
たとえば私の記憶に残るネットの記事でも、ある日本人が、男子新体操の個人選手の演技を外国人に見せたところ「こんなにも女性的にならなければいけないのか」と言われ、「一体この選手のどこが女性的なのか」と怒っていたのがありました。
多分それも、その選手が女性的なわけでも、また演技が女性的なわけでもなかったと思います。
私がその意味をやっと理解したのは2018年の青森大学の演技(ここ)に付いたコメントからでした。
演技を見て貰えば理解できますが、2018年の青森大学の演技は「古代の戦士達のようだ」というコメントがあったくらいで、優雅でありながら力強いものでした。
それを「女性らしさの表れ?」と問いかけるのはオカシイのです。
さすがに他の人もオカシイと思ったのか以下のように「女性らしさ?」と問い返すコメントもありました。
それで私もやっと気が付いたのですが、欧米の一部の人達にとっては、音楽に合わせて踊ることは女性以外にありえないと考えられていることです。
だから筋肉質の若い男たちが古代の戦士のように踊っても「女性らしさの現れ」になってしまうのです。(疑問符をつけているところを見ると自分でも変だと思っているみたいですが)
そのダンス自体が女性的か男性的か、はたまた性別とは無関係なものなのかは全く関係ないのです。
踊っている人=女性、踊ること=女らしい、なのです。
そんな馬鹿なと思われるかもしれません。
私も意外でした。
だって昔の映画で見たジョージ・チャキリスは、フレッド・アステアは、ジーン・ケリーは、男性ですが踊っていたではないですか。(我ながら古い・・💦)
(もっとも、ジーン・ケリーは子供の頃、ダンスを習っていて、近所の子供に「女々しい」とからかわれ、一時期ダンスを辞めていたらしい。)
しかし考えてみれば彼らの場合は歌も歌い、演技もし、要するにミュージカルの中のダンスです。
しかもストーリーはほぼ男女の恋愛もので、相手役の女性も登場します。
フレッド・アステアの場合、当初は姉とコンビを組んで踊っていましたが、姉が結婚して引退後はコンビの相手探しに苦労しています。
衣装も普通の男性の衣装です。
おそらくそれ故に、ダンスを踊っても彼らは男性なのです。
私は日本以外で生活したことがない日本人で、正直なところ欧米文化のコアに関わる知識は持ち合わせていません。
ただ彼らの発言から推定できることを書きます。
どうやら、レオタードのような衣装を身に付けた男性の、音楽に合わせたダンスや体操に対する偏見があるみたいです。
器械体操の床運動でも、女性選手は音楽付きで演技しますが、男性選手は音楽無しです。
要するに男性は踊っているように見えてもいけないのです。
逆に女性は踊ることが求められているみたいです。
女性のみ、“体操の要素”としてリズム感があることが問われるのです。
でも、筋肉の量や質の違いから男性にのみ吊り輪やあん馬があるのは分かるのですが、リズム感が女性にのみ求められるのは、それこそ欧米だけで通じる社会的・文化的性差=ジェンダーなのではないでしょうか。
いずれにしても、これが新体操(Rhythmic Gymnastics )が長い間女性のみのスポーツであった理由だと思われます。
②で紹介した男子新体操の応援サイト「応援!男子新体操」の【「これは、新体操じゃない」から2年半】では、「これは新体操ではない」というコメントの次に多かったのは「なぜ男子が女子のスポーツである新体操をやらなければならないのか」というコメントだったそうでが、その背景にあるのもこの考えだと思われます。
彼らにすれば、音楽に合わせて演技するのは女性であることは疑問の余地もない当然のことなのです。
(余談ですが、ブレイクダンスのようなストリート系のダンスは、次回のパリオリンピックで追加競技となったように男性がダンスしても許容されています。
おそらく社会的な文脈がまったく異なるのでしょうね。
それ以前に、オリンピックでストリート系の競技が増えてきているのは、現在、世界的にオリンピックに対する関心が薄れてきているので、ストリート系の競技を積極的に取り入れることで若い世代のオリンピック離れを止める為だと言われています。)
話を元に戻すと、はっきりと次のようなコメントもありました。(このコメントは同じ吉留選手の2019年の動画からです。⇒ここ)
私は日本において男性がダンスする、音楽に合わせて踊ることが不名誉なことか考えたこともなかったですが、少なくとも私は67年間生きてきて「男が踊るとは何事だ」みたいなことが言われているのを聞いたことがありません。
ダンスすること、舞踊は、男女を問わずいつもポジティブに捉えられていたように思います。
ただ、女の子が習うものだとされているバレエや男子新体操についてのみ、時にからかいの対象になるようです。(男子新体操については女子の新体操との混同による無知からきています。)
それも子供か、頭の中が子供レベルの大人の世界だけの話です。
だから、伝統的には男性だけで踊ることを不名誉とする文化は日本には存在しないのではないかと思います。
では踊る男性を一部の欧米の人達はどう見なすのか。
女性的な男性、「ゲイ」だとみなすのです。
以下のコメント。
当然そのように見られることを恐れているコメントも。
私はここでは主に2019年と2020年の吉留選手の演技の動画に付いたコメントを紹介しました。
こうした動画がYouTubeにアップされるのは、実際に演じられた1、2年後ですので、コメントはスクショ画面からも分かるようにここ1、2年に書かれたものです。
よほど世の中の動きに疎い人でない限り気づいているように、ここ数年で先進国と言われている国々のジェンダーやセクシュアリティに関する考えは急激に変わってきています。
だから(誰も自分が遅れていると思われたくないので)、ある意味コメントは曖昧で、肝心な部分はぼかされているのです。
それがまた私を怪訝な感じにさせた理由でもありました。
「ダンスを踊るなんて女以外ありえないだろう。男が踊るとしたら、そいつはゲイだ」と、はっきりと書いてはいないのです。
もしはっきりとそう書いてあったら、言っている事のおかしさを指摘するのはそれほど困難ではないでしょう。
ではここ1、2年ではない、ずっと以前のものならどうなのか。
最も古く、YouTubeで世界レベルでバズった男子新体操の動画は、この記事のシリーズの①で取り上げた2009年の青森大学の演技ですが、その動画は転載されて複数あります。
ここでは、同一の動画が「The Worlds Most Amazing Asian Synchronized Dancers」と題されたもの(ここ)と、「Men's RG.Aomori univ.Oct-2009」と題されたもの(ここ)でアップされているので、その二つの動画のコメント欄の違いを見てみます。
前者の題の意味は「世界で最も驚くべきアジアの同期したダンサーたち」であり、説明も演技者をダンサーとしていて、アジアであることだけ分かりますが、国名も、誰が演技しているのかも、どういう状況なのかも分かりません。
後者の題の意味は「男子新体操 青森大学 2009年10月」で、説明でも全日本選手権で優勝した演技であるとされています。
要するに前者ではダンスということになっており、後者では男子新体操であることが分かるようになっているのです。
この二つの、そもそもは同じ動画のコメント欄を読んで何がわかるのか。
前者の「ダンサーたち」とのみ説明されていた場合、そのダンサーの性別を女性だと思い込んだ視聴者が多くいたのです。
中にはコメントを書く段階でも男性だと分からなかった人もいます。
私はわざと選手の写っている画面も入れましたが、女性に見えるでしょうか。
男性か女性か迷っている人もいました。
途中で女性だと思い込んでいた自分の間違いに気づく人達もいます。
日本人ならまず間違えないと思いますが、彼らはなぜこんなにも性別を間違えるのか。
それはやはり音楽に合わせて演技する人は女性でしかないと思い込んでいるからでしょう。
彼らにとってはダンサーが女性であることは自明の理であり、無自覚かつ無意識の、極めて強力な思い込みのようです。
だから男性ダンサーがどんなダンスを踊ろうとも、彼らにとってはそのダンスは女性的になってしまうのです。
そこまで強力な社会的な何かがあるとしか言いようがありません。
では後者の動画ではどうか。
後者ではMen's RGという形で最初から演技者が男性であることが明かされています。
(前者ではコメント数が1879か1880、後者では474と書かれていますので、そこで前者と後者の区別をつけられます。)
するとコメント欄は古いものであればある程、「ゲイだ」「ゲイだ」になります。
もちろん前者の性別が明かされていない動画のコメントでも、演技者が男性だと気づくと「ゲイ」ということになります。
偏見に基づく妄想の世界がどんなものか知りたかったら、これらのコメントを読めばいいのです。
私自身こういうコメントは、引用していても気分が悪くなるので、ここらへんで止めときます。
それらの妄想的認識は「ほとんど病気」というより、既に「病膏肓に入っている」感じのものです。
いずれにしても、ある一つの文化圏の血肉と化した偏見・ステロタイプを打ち砕くことが容易ではないことは理解できます。
もちろんコメントは以上のようなものばかりでなく、大半は賞賛です。
ゲイだと決めつけているコメントにうんざりしているコメントもあります。
ゲイだと決めつけているコメントでも「ゲイだが素晴らしい」と、一方で賞賛しながらゲイだと決めつける混乱したコメントもあります。
男性が踊っているとゲイだと決めつけるのは、彼らにとって“パブロフの犬”のごとき反応なのかもしれません。
ちなみにコメント中で書かれているエスノセントリズムとは、自分の生まれ育った文化・社会の価値観を絶対的なものと考えて、それを基準に他の文化・社会を評価する考え方のことです。
誤解なきよう付け加えておくと、私がここで問題にしているのは、私自身がゲイをネガティブな存在だと捉えて、コメントをしている人達が男子新体操の選手達をゲイだと決めつけていることではありません。
私が問題にしているのは、同性愛であれ異性愛であれ、およそ人の性的指向を勝手に決めつけていることです。
その上、彼ら自身にとってはゲイはネガティブな存在であり、そういうレッテル貼りを平気で、確信をもって、時に面白おかしく行っていることです。
LGBTQについて論じられる場合、多くはそれを性的マイノリティである人達に対する差別の問題として語られています。
ですが日本の男子新体操の場合、そもそもゲイあるいはゲイの文化とは無関係で、多くいる選手達の中に確率的にゲイの選手がいたとしても、男子新体操自体が性的マイノリティと関係があるとは言えません。
だからといって、そこにはLGBTQに対する差別の問題は存在しないとは言えないのです。
なぜなら差別する人達は日本の男子新体操の選手達をゲイだと確信していて、その上で差別しにかかり、男子新体操をスポーツではないとさえ言っているからです。
しかもそのベースにあるのは「音楽に合わせて演技するのは女性以外にありえない」という特異なジェンダー観、男らしさや女らしさにまつわる思い込みです。
もちろんそこにはコメントで指摘されているようにエスノセントリズムもあります。
すなわち文化の多様性に対する無理解です。
実際、文化によってはLGBTQさえ問題にならなかったことは歴史上明らかでもあるのです。
長くなりそうなので一旦切ります。
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