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緑陰茶話   - みどりさんのシニアライフ -

エッセイとフォト

日々の発見と思いのあれこれなど

台湾が京都橘高校フィーバーらしい

2022年10月24日 | 話題
今年のお正月にYouTubeでハマっている動画として京都橘高校吹奏楽部のマーチングバンドについて書きました。⇒ここ

その京都橘高校吹奏楽部は10月10日の台湾の国慶節に招かれてパフォーマンスを披露していました。結果、センセーションを巻き起こして、台湾はちょっとした京都橘高校フィーバー状態になってしまったらしいです。
一種の社会現象のような感じらしい。
(例によって、そのようなことは日本のメディアではほとんど報じられていないです。)

気持ちは分かります。
私もハマりましたから。
『台湾の人達、見ちゃいましたか、あれを』って感じです。
後は“オレンジの悪魔” (京都橘高校マーチングバンドの異名。誉め言葉!)の虜になるだけです。

京都橘高校の動画は以前から見ていたこともあってか、国慶節以降、連日、私のYouTubeは台湾からの動画投稿が雨あられ状態。
すべて京都橘高校関連です。
最近少しマシになりつつあります。

私も動画で台北総統府庁舎前で行われたパレードを見ましたが、さすがでした
。⇒ここ
とりわけドラムメジャー(マーチングバンドの指揮官)の木花百花さんの指揮ぶりは、堂々としていながらも優雅で、気品があって、台湾で人気沸騰したのも分かります。

動画を見ていたら色々と考えることがありました。
たとえば台湾の女子高のマーチングバンドも披露されているのですが、それが何と言うか、すこぶる軍隊調なのです。

日本なら通常、カラーガード(マーチングバンドで、演奏ではなく視覚的効果を狙って旗等の手具操作を行うパート)がフラッグを持って演技するような場面でも、彼女たちは銃を持ってそれをクルクル回したり、一斉に放り投げて受け止めたり。
女子高生が銃って・・・
歩き方も軍隊の行進みたい。
本来のマーチングバンドはどうなのか詳しくは知りませんが、台湾の置かれている状況を考えさせられました。

動画のコメント欄も、台湾の状況を反映しています。
私のスマホのYouTube、コメント欄は英語以外は翻訳機能が働くので中国語は翻訳可能です。
台湾の人達は台日友好で気分が高揚しているのですが、それが気に食わないのが中国人。
やれ足が太いの短いのと、あれこれ貶めに来ているわけです。(笑)

そういう貶め方をすると、人としてのレベルが分かるのですが・・・。
あえて説明しておくと、京都橘高校吹奏楽部は通常のマーチングバンドではやらないことをやっているので有名なのです。
たとえばアメリカのローズパレードでは、8.9キロの距離を歩きます。
そこをダンスしながら、物によっては重い楽器を乱れることなく演奏します。
しかも最初から最後まで笑顔を絶やさないのです。
そんなことは通常の体幹や肺活量では不可能で、日頃から鍛え上げられているわけです。
太い足はその結果なんですけどね。

そんなことより、私が素晴らしいと思うのは、彼らのパフォーマンスは大人(教師やコーチ)の押し付けじゃないこと。
選曲を初めとした構成、ダンスの振り付けも彼ら自身が考え、話し合って決めていること。
そこでの教育に教師がほとんど関わらず、代々先輩から後輩へと教え教えられて受け継がれている事です。
たぶん、そういうことは、上意下達で見かけが大事な全体主義国家に住まわれている方々には理解できない事柄じゃないかな。

いずれにしても、コメントを読んでいると、中国では天安門事件以降、国内問題から目をそらす為の日本を敵とみなす教育は成功しているなと分かります。
それに対する台湾の反応も、台湾が置かれている情勢を反映していますね。
「台日友好、中国崩壊」です。(^^;

台湾内部の事情も複雑なものがあるのかも知れません。
漠然と感じ取れることは、人々の間で、中華民国ではない、台湾としてのアイデンティティが確立されているみたいな。
ただ、日本はやはり京都橘高校(オレンジの悪魔)が引き起こした台湾での旋風を知っておくべきだと思います。
今後、中国と台湾の間で何が起こるか分からないし、その時に、台湾の人達の思いを日本人が理解するためにも。


ところで、我が家にも可愛いオレンジの悪魔がいます。
ツンツンデレデレのハッピーちゃんです。

「何、 私の話?」


クネクネ、スリスリ


耳、かゆ~い!!




川柳を学ぶ

2021年10月23日 | 話題
緊急事態宣言が解除されて、通っていたシニアの学校の方も再開しています。

私が受講している総合文化科、総合というだけあって毎回様々なテーマで講義があります。
先生もテーマに合わせて専門の先生が来られて話されます。

先日のテーマは川柳でした。
私、川柳をきちんと学んだことはなくて、今回初めて川柳の色んなことを知りました。

私の川柳のイメージはまずサラリーマン川柳です。
今回来られた先生に言わせると、大半の川柳作家はサラリーマン川柳をあまり評価していないんだそうです。
先生も以前はそうだったそうですが、今は時代を詠んでいるということで評価しているそうです。

もう一つ、私の川柳のイメージになったものがあります。
詳しくは書きませんが、あるナルシズム溢れる女性川柳作家の川柳です。
20年近く前、仕事で毎日通っていた銀行にいつも置かれていた雑誌があり、それに、その作家の随筆が毎週掲載されていて、読むたびにゲンナリ、ゲッソリした気分になったものでした。

その作家、私には全く合わなかったのでした。
だったら読まなきゃいいのですが、ついつい読んでしまい、予想通り毎回、ゲンナリ、ゲッソリしてました。

川柳といえば、サラリーマン川柳でなければそれでしたので、私にとっての川柳という文芸のイメージは良くなかったです。
川柳って、文学と言えるのかって感じです。

そのイメージを覆したのが、テレビで見た戦前の川柳作家、鶴彬の川柳です。
今回の先生も触れられましたが、鶴彬は命がけで川柳を詠んだ人でした。

鶴彬は、川柳で反戦を訴え、侵略戦争の悪や愚を告発し、その結果、獄中で手錠を掛けられたまま29歳の若さで死んでいます。
川柳は鋭い社会批評性をも、持つものなのでした。

とまあ私の川柳についての素地はその程度で、実はその日の朝まで、その日の講座が川柳だとも知らなかったのでした。
(カリキュラムは貰っていますが、いちいち確認はしていません)

今回の講座では川柳の歴史的な成り立ちから始まって、近代以降の川柳にも触れ、受講生は実際に川柳をその場で作るようにも言われました。

受講生が川柳を作る時、先生はお題を募集しました。
受講生の一人が「ボケ老人」と言いました。
すると先生は「6文字なので長過ぎるからダメ」と言いました。
川柳は5・7・5なので6文字のお題はダメみたいでした。

さらに先生は重要なこととして付け加えました。
川柳では、弱者を笑いの対象にすることは許されないと。
確かにシルバー川柳もありますが、自分の老いを茶化すような感じで、ボケてしまった老人を笑うものはありません。

シルバー川柳、一つ思い出しました。
目には蚊を耳には蝉を飼っている
鬱陶しい筈の飛蚊症や耳鳴りをこんなふうに詠むと面白いです。

講座でのお題は別の物になり、受講生は全員、そのお題から二つ川柳を作り、先生がそれを一つ一つ読みながら解説していきました。

それで受講生は具体的に、川柳の基本的な決まり事を知るわけです。
今回の先生は川柳作家の方ですが、色んなカルチャースクールで川柳の講座を持っていて、教え方がとにかく手際よかったです。

川柳の講座は、次回はだいぶ先になりますが、お題をいただいており、その日までに川柳を二つ持っていかなくてはなりません。
ですので、私、たまーにお題を思い出しては『う~ん』と考えています。

    
                


おまけです。
久しぶりにハッピーの写真です。
ハッピー、神経質でカメラでは写真を撮らせません(逃げます)。
ですからスマホで撮りました。

夕飯時、座椅子でくつろぐハッピーです。
スマホ見ながら『それなに?』って顔してます。



小室さんバッシング、私の考え

2021年10月11日 | 話題
最近、ちょっと鬱です。
例の小室さんへのバッシング、あの手の記事や映像を見る度に気分が悪くなります。

最初に書いておきます。
小室さん親子には人権など認めなくても良いと考えている人は、私のブログは読んでいただかなくて結構です。
小学校の教科書にも書いてあるように、人権は誰にでもあるものです。
自分の嫌いな人、気に食わない人の人権は認めたくないという人は、人権の何たるかを分かっていない人ですので、そういう人とのみ、お付き合いして下さい。

眞子様が複雑性PTSDを発症されているとか。
そりゃあ、他人の私でも鬱っぽくなるのだから当事者であればその心労は計り知れません。
小室さんや、母親の佳代さんの心身の状態も心配です。

実は正直、最初に婚約の報道があった時、私はちょっとシニカルな思いで見ていました。
いかにもご祝儀報道でしたから。

そんな私でも、その後の小室さん親子への常軌を逸したバッシングには目をそむけたくなる思いでした。
週刊誌やワイドショーの報道の真偽のほどは知る由もないですが、相手が誰であっても長期間にわたって執拗にプラバシーをさらし続けたり、その上で執拗な人格攻撃を加えることは人権問題以前の、人間の品性の問題です。

とりわけ小室さんの父親の自殺の報道は、差別的、非人間的で心痛むものがありました。
というのも、見出しを読んだだけでも、そういう家庭の子供として小室さんの人格を否定し、攻撃しているとしか思えないものだったからです。

親を初め、家族を自殺でなくしている人は、小室さんだけでなく実は多いのです。
子供の頃にそういう形で家族を亡くすこと自体、大きなトラウマとなるでしょうが、そういう家庭に生まれ育った人間だからといって人格を悪く捉えること、しかも全国紙に大きな見出しで公表して否定することは、それ自体、攻撃する側の人間性を疑うに十分です。

仮に小室さんの人格についてのネガティブな報道がすべて真実であったとしても、そうしたバッシングに加担して満足する人間は、自分がイメージして攻撃している小室さん親子と50歩100歩であり、目糞が鼻糞を笑っている類の話です。

ここでお断りしておくと、私はよく言われる「火のない所に煙は立たぬ」、要するに「ここまで言われるのは何か問題があるからでしょ」といった、問題にされている人間は、問題があるから問題にされているのだ、問題のない人間はそもそも問題にされることはないという考え方にくみしません。

私の兄の話では、昔の中国では、自分の政敵や、存在してもらっては都合の悪い人間は、権力側はまずその人間を拘束し、適当に犯罪をでっちあげて尋問(拷問)するのだそうです。
その時の理屈が「お前は何もやっていないと言うが、それならなぜ、今ここでこんな尋問を受けているのだ。何もやっていないなら尋問されることもないではないか。さあ白状しろ」なんだそうです。
そして、取るに足らぬ些細な“罪”を見つけ出し、やはり罪人だったと世間に公表して闇に葬りさるのです。

これは昔の中国の話だけではないと思います。
日本でも同様のことはありました。
宮崎アニメの「風立ちぬ」でも、はっきり覚えていませんが、主人公が特高(特別高等警察)に追われて、それを上司がかくまいます。

主人公が自分には身に覚えがないことだから逃げ回らず堂々としていてもよいのではないかというようなことを言うと、上司が「身に覚えがないといって連行されて、戻ってこなかった人間がたくさんいた」と答えています。
これはアニメの中だけ話ではなく、戦前の特高がいかに多くの人を迫害したか、その事実を基に描かれています。

要するに、誰かが問題にされているからといってその人には問題があるという理屈は成り立たないのです。
そういう場合、第三者は、問題にされている人だけでなく、問題にしている人達もまた注視する必要がある筈です。
これは一般論ですが、バッシングがここまで常軌を逸しているのですから、小室さん親子の場合も同様な視点が必要でしょう。

メディアの無数とも言えるバッシングの中で、私がとりわけ驚いたのは、心理学者が、心理学の名の元に小室さんの人格をネガティブに論評したことです。
論評した内容が正しいかどうかは、ここではどうでもいいことです。

私は若い頃に市民団体で活動していて、その中に機関誌の編集の作業もありました。
その時に得た知見です。
心理学のような学問は特にそうなのですが、学問が特定の個人の人格を公に取り上げ、高みから論評してはならず、それを行うことは学者としてのモラルに反するということでした。
自分が携わる学問の権威を、特定の人を名指ししてその人の人格を貶めることに利用してはいけない、考えてみれば当たり前です。

編集のような立場ですと、特に難しいことをする必要はなく、滅多にないことながら、執筆者が無意識に、そして結果的に、特定の個人を上から目線で論じていることがないように注意するだけです。
しかし件の心理学者の場合、最初から、執筆の目的として、心理学という学問の権威を利用して、小室さんという個人を貶めていました。

ワイドショーのようなメディアが、個人を貶めて視聴率稼ぎをするのはよくある事かもしれませんが、学者が同様のことをすることが驚愕です。
最近では精神科医が、自分が診察したわけでもない眞子様の複雑性PTSDの診断に異議を唱えています。
そうやってバッシングの急先鋒であった週刊誌やワイドショーの報道の正当化にくみしているのです。
読者は、学者や精神科医という権威に騙されることなく、そうした学者や精神科医の行為が職業人としてのモラルに反していることを念頭に置いておくべきでしょう。

小室さんに対する批判に、疑惑とされている事柄についてちゃんと説明しろというのもあります。
この言葉、小室さんが釈明書を公表してからも言われています。
説明しろと言う人達は小室さんの文書を読んだのでしょうか。
本当に読んでいるのなら「説明しろ」という言葉は出てこない筈です。

私は読みましたが、丁寧に書かれていて、読みづらいとも思わず、一気に読める文書でした。(私は脚注まで読みました)
内容も十分に納得できるものでした。
宮内庁も納得したとのことです。⇒ここ
ですが、この文書に対するメディアの反応も奇怪なものでした。

さすがにその事を指摘している報道もあります。
リテラの「28枚文書は真っ当なのに…小室圭さんをとにかく糾弾したいワイドショーの事実歪曲とグロテスクな差別性」

あるいは一つの例として東国原英夫氏の奇怪な言説に触れたもの。
日刊ゲンダイの「小室圭さんの借金」東国原英夫氏のワイドショー発言はあまりに粗雑すぎる (成城大学教授・森暢平)

ワイドショーの呆れて開いた口が塞がらない論評として、小室さんはマザコンで母親との癒着が激しく、結婚すれば小室さんの母である姑から眞子様は守られないだろうというようなものまで。
あの文書からそういう言葉が出てくる脳内は、小姑色一色に染め上げられているとしか思えません。

いずれにしても、メディアは様々な嘘や詐術、論点のすり替えで、小室さんが何か悪い事をしているかのような事を言ったり書いたり(印象操作)しているのです。
あの小室さんの文書を読んで、あるいは読まないまま「説明しろ、説明しろ」と言っている人達は一体何を望んでいるのでしょうか。

小室さんにしても、眞子様にしても、立場上ほとんど反論できません。
それを良いことに、メディアは、一人の人間を、大勢で寄ってたかって人間サンドバッグにして楽しんでいるかのようです。
卑劣で残忍、見るに堪えない、醜悪極まりない光景です。
当事者の一人であった眞子様が病まれるのは当然です。

様々な人の文章を読んで、私にも分かってきたことはあります。
小室さんバッシングを是としている人達、何の痛痒も感じずむしろ楽しんでいる人達は、いわゆる小室さんの借金問題の真実など、もうどうでもいいことなのです。

そういうことができる理由は、彼らが小室さんが悪い人間だと確信しているからです。
その確信の根拠は何か。
それについて明言されたものはありません。
ただ胡散臭い人物だというのみです。
そこが厄介なところです。

ただ共通して読み取れるものはあります。
たとえば小室さんの家庭が経済的に恵まれていなかったにもかかわらず、小室さんが帰国子女など比較的裕福な家庭の子供が行くインターナショナルスクールや、大学は国際基督教大学(ICU)に行っていたこと。

それがどうしたと思いますが、そこから小室さんは悪い意味での上昇志向の強い野心家。
セレブ志向で身の程をわきまえない見栄っ張り、と見なされたようです。
眞子様との結婚も当然それ(野心の達成)が目的であるとも。

日本では、学校というものを教育機関というより一種のブランドとして見る人が多いので、そういう見方もできてしまうのかもしれません。
詮索好きな人が、近所の人が自分では買えないようなブランドもののバッグを持っているのを見て「あの人、ビンボーなのにあんなバッグを持って、おかしい」と妄想をたくましくするレベルの話です。

私はブランドには興味がなく、大学の序列といったようなものにも興味がありません。
それでもインターナショナルスクールも国際基督教大学も授業や講義は英語であり、教育方針も国際感覚を養うことが重視されていると聞いたことがあります。

そして小室さんの小学校時代の先生は、小室さんが小学校の卒業文集に将来海外で活躍する人になりたいと書いていたと語っていました。
そこから、私には小室さんが英語を帰国子女並みに身に付け、国際感覚を養いたかったからインターナショナルスクールや国際基督教大学に入学したと考えた方が自然なような気がします。

最近、小室さんについてのホントに共感できるブログの記事を見つけました。
「ぼっちライダーのひとり旅」というブログのこの記事「小室圭は何が悪いのか 嫉妬とネットリンチが大好き国民」です。⇒ココ
小室さんを叩く人の、叩く理由はここに尽くされていると思いました。

イジメを見ながら黙っている人(傍観者)は、イジメに加担しているのと同じだと言われています。
小室さんがどういう人なのか、私は会ったことがないですし、その人となりも知りません。
でも、小室さんがどういう人であれ、今起こっていることは異常なんです。

小室さんと眞子様の結婚について、世論が納得していないとか、国民が納得しないとか言われますがその世論の中に私の声は入っていませんし、その国民の中に私が含まれてもいません。
今回の記事は、こういう声もあるし、こういう国民もいるよと知って欲しかったからです。
気に入らないという人はコメントはいりません。
黙って去ってくださいますようお願い申し上げます。


アガサ・クリスティーとLGBTQ

2021年08月12日 | 話題
スポーツ観戦にあまり興味のない私にとっては、オリンピックがやっと終わってくれましたって感じです(笑)。
ホッとしたと思ったら今度は高校野球。
そして、気が付けば医療崩壊寸前。

オリンピックの話題として興味深かったのは、今回のオリンピックでLGBTという言葉や存在がよく聞かれたこと。
それで思い出したのがイギリスの推理小説家、アガサ・クリスティーのことでした。
といってもアガサ・クリスティーがLGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー)の内の何かだったというのではないです。
彼女の作品のことです。

アガサ・クリスティーの小説が、推理小説として世界でも超一級で、すこぶるつきに面白いということは推理小説ファンなら誰でも知っていることだと思います。
ですがここで私が言いたいのは、そういう推理小説としてのアイデアやトリックの話ではなく、アガサ・クリスティーの固定観念や既成概念にとらわれない、むしろそれを覆して利用する発想です。

たとえばアガサ・クリスティーの推理小説の探偵役として有名なのはエルキュール・ポワロとミス・マープル。
両者とも社会の中心にいる人物ではなく周縁に位置している人物です。

例えばポワロはベルギー人という設定です。
イギリス社会だけではなく、外国人はどの国でも不審者として見られがちです。
ポアロは外国人というだけでなく、常にお洒落に気を遣っていて、殆どキザなのに全然カッコよくなく、見た目は滑稽、要するに胡散臭い人物。なのに内実は名探偵というキャラ。

逆にクリスティの作品を読んでいると、犯人の傾向として、それこそ社会の中心にいて欲しいような好感の持てるイケメン男性の場合が多いのです。
この場合、読み手もまた犯人に自然な感じで好感を抱いてしまうところがクリスティの作家として凄いところ。

外国人に話を戻すと、クリスティの推理小説の中でも登場人物の一人が「私は外国人だから、それだけで犯人だと思われてしまう」と話す場面があるのですが、最終的にその人物が犯人でした。
(犯人にそういうセリフを言わせることで、読み手はその人物を犯人候補から外してしまうのですが。)
もちろん、その人物が犯人なのは外国人であることと何の関係もありません。
そんな風にクリスティの作品は巧みに人の先入観や既成概念を利用しつつ壊しています。

ここでクリスティファンにクイズを一つ。
上記 👆 の作品は何でしょう。
ヒントは、あとがきによれば、原題が日本語でいう“くがたち”だそうです。
くがたちとは、古代の裁判で行われていた無罪の人間が自分の無罪を証明する方法ですね。
疑われた人間は熱湯の中に手を入れて、火傷しなければ無罪、火傷したら有罪なわけです。
私は、くがたちは日本の古代だけで行われていたと思っていたのですが、ヨーロッパでも同様のことが行われていて、当然、その英語もあるんだそうです。


もう一人のミス・マープルはいわゆるオールドミスです。
欧米社会の古い価値観での女性の暗黙の序列では、オールドミスは底辺近くに位置付けられてきたそうです。(ミス・マープルものが出版された年代を考えるとオールドミスを蔑む眼差しは社会にまだ強く残っていた筈)
そのような女性を名探偵に位置付けただけでもクリスティは画期的です。

なかでも面白いのはミス・マープルと甥であるレイモンドとの関係です。
手元に本がないので記憶だけで書きますが、レイモンドは確かオックスフォード大学かケンブリッジ大学の出身で、要するにイギリス社会の中ではハイクラスの知識人という設定。
その意識も今でいうリベラルです。
さらに言うと叔母であるミス・マープルに対しても申し分なく愛情深くて絵にかいたような善良な人物です。

ただレイモンドは、自分では進歩的で、既成概念で物事を見ていないと思っているらしいのですが、それが見せかけであることがミス・マープルとのやり取りで読者には明らかにされてしまいます。
たとえばオールドミスであるミス・マープルのことを、同情すべき老人で、古い道徳観に縛られており、性に対して抑圧なビクトリア朝時代の生き残り、当然のように性的なことは何も知らず、その意識も古臭いと思い込んでいること。

中でも1964年に発表された「カリブ海の秘密」の冒頭では、その意識のすれ違いが極端なまでに描かれています。
その作品では、レイモンドは肺炎を患ったミス・マープルにカリブ海で療養するよう計らいます。
(それだけでもレイモンドがどれほど叔母さん思いなのか分かるのですが。)

ミス・マープルはロンドン近郊の農村セント・メアリ・ミードに一人で住んでおり、レイモンドはその村の生活が牧歌的だと思っています。
ですがミス・マープルはお得意の観察力と情報収集力で、その村の住人達が、罪のないものから犯罪的なものまで、都会の知識人であるレイモンドが見たことも聞いたこともないような性的な生活を楽しんでいることを知っているのでした。
むろん、そのことはビクトリア朝の慎み深さから、というより大人の常識で口にだすようなことはしません。

一方レイモンドはミス・マープルが安心してカリブ海に療養に行けるように、ミス・マープルが不在の間、信頼できる友人にミス・マープルの家に住んでもらうことにしているのですが、その友人がクィア(queer )であることは言いません。

クィアというのは、本来の“風変わりな”とか“奇妙な”という意味を離れて、当時のイギリスではおおむね同性愛者を指していました。(注、蔑称です)
そして友人が同性愛者であることをレイモンドが黙っているのは、ビクトリア朝の価値観を生きている(と自分が思いこんでいる)ミス・マープルにそんなことを言ってパニックでも起こされたくないからです。

この2人の意識のすれ違いの凄さ!!

そして、ここで使われたqueerのQこそLGBTQの最後のQの内の一つです。
(LGBTQのQには2つの意味があるのですが、詳しいことは⇒ここ)

私は「カリブ海の秘密」をずいぶん昔に読んだのですが、当時もその冒頭の部分にはちょっとびっくりでした。
ミス・マープルが知っているという村人達の性的な楽しみ・多様性は今のLGBTQのqueerに通底しているわけで、イギリスの田舎ってどんなんやーと思ってしまいます

「カリブ海の秘密」自体は本格ミステリーで冒頭の部分は枕でしかなく、本筋とは関係がない話です。
本筋とは関係ないのに、クリスティがそういったやり取りを書かずにいられなかったのは、もちろんLGBTQにクリスティが今風の理解を持っていたからではなく、当時のイギリスの知識人達に何らかの思うところがあったのではないかと推測します。

意識の上では善良であっても自分達以外の人々を何も知らないし分かっていないと思い込んでいる人達、そういう人達をミス・マープルを通して皮肉ってみたのかもしれないです。
日本でもそういうタイプのリベラルな知識人がいますから。

「カリブ海の秘密」は映像化も幾つか行われていますが、冒頭のやり取りが描かれているかどうかは私は知りません。



友情が終わる時

2021年02月08日 | 話題
最近、ほとんど出掛けず、コロナ疲れか鬱っぽいです。
実際にはコロナは関係ないのかもしれません。

私は5年連用日記を書いていて、今4年目なのですが、この頃は前年も前前年も鬱っぽいと書いていますので、季節的なものなのかもしれません。

新聞記事でもイヤーな気分のするものを目にしてしまいます。
これです。⇒ ここ
このような相談自体、「そういうこともあるかな」で特に嫌な気分になるものではないです。

問題は有料会員でないとネットでは読めない回答のほうです。
回答は、友人は相談者の力量や性格を知っていて、相談者に恥をかかせたくなくて代表に推挙しなかった。それこそ友情だ。今からでも遅くはない。友人のように人に尊敬されている方の、せめて立居振舞でも真似て勉強したらどうか、というものでした。

私はシニアカレッジに通っていたことがあり、そこでは全員に何かしらの役職が振り当てられます。
なかには重責と思える役職もありますが、皆さん、一応社会人としての経験がある方ばかりです。
不幸にしてジャンケンで負けて重大な役職についた人でも、役職が果たせないということは(認知症になりかかっているとか、そもそも全くやる気がないとか、際立って偏狭な性格というのでない限り)ないのです。

相談者は中間管理職として長年働いてきており、当然、OB会の代表ていどでできないということはないでしょう。
つまり、回答者の「力量がない」という指摘はあてはまりません。
(この点では作家である回答者の知見に疑問を持たざるをえません。)

考えられるのは、現役時代の役職の低さからOB会の代表にふさわしくないと見なされたことくらいです。
それもまた、下らないと言えば下らないことですが。

回答者はなぜ相談者の力量や人格まで貶めるようなことを書いたのか。
会って話でもしない限り、相談者の力量も人格も分からない筈です。
相談者はあの回答に随分傷ついただろうなと思いました

むろん、ここで友情に見返りを期待してはいけないという指摘もあると思います。
相談者は友情について大きな勘違いをしているのではないかということです。
ただそこでの相談者の悩みとは、見返りが得られなかったことではなく、友人が自分のことなんかまったく眼中になかったことの衝撃だったでしょう。

よく似た相談として、「発言小町」という、やはり読売新聞のネットの掲示板の相談がありました。
こちらは50代の女性で、高校時代からの友人との関係についてでした。

トピ主は友人からよくランチなどに誘われ、その度に友人を自分の運転する車に乗せて出掛けていたそうです。
そして、まだコロナが問題になる以前のこと、二人で観劇に行き、その時、行きしは二人で電車に乗ったのだそうですが、帰りには友人の夫が車で迎えに来ていたそうです。

みぞれ交じりの雨が降る寒い日だったそうです。
友人はさっさと車に乗ると「じゃあね」と言ってトピ主を置いて帰ったそうです。
友人と自分の家はそんなに離れてはおらず、自分の夫が運転する車に二人で乗ったこともあったという関係です。

その後ラインで、その日別れてから夫婦でどこかに行く予定でもあったのかと聞いたところ、予定はなく、そのまま家に帰ったそうです。
以来、友人はなぜ一言「乗って行かない」と声を掛けてくれなかったかとモヤモヤしているという相談でした。

この相談には掲示板ということもあり、たくさんの返答がありました。
いつも車を出しているという自分のやっている事の見返りを相手に期待するのがそもそも間違いというのも複数ありました。
自分の好意や親切に相手の見返りを求めてはいけないという考えです。

コロナ前の出来事ということから、1年もそんなことでグジグジと悩んでいるのかという、そのことに呆れる指摘もありました。

それ以外には、友人の夫が自分の車に家族以外の人を乗せるのを嫌がっているのではないかとか、友人は天然な性格で、気が利かず、トピ主を乗せることを思いつかなかったのではないかというような意見です。
一番多い答えは、その友人は非常識な人だから今後の付き合いを変えたらいいというものです。

夫が嫌がるというのはありそうです。
でも、もしそうなら私だったら、その後、ラインかメールで、乗せなかったことを「ごめんね、夫が嫌がるの」と言って謝り、一回のランチ代くらい奢ると思います。

気の利かない性格という点ではトピ主が否定していて、友人は賢明で人望もある人だそうです。
あれこれ考えると、やはりこちらも、友人は普段は都合よくトピ主を利用しているけれど、肝心な時にはまるで眼中になかったというのが正解みたいです。

50代の女性は、沢山の返答を読んで、自分のモヤモヤした感情は長年の友情を失った寂寥感ではなかったかと書き、その友人との付き合い方を考え直すとしていました。

70代の男性と50代の女性に共通するのは、共にそれまで相手をリスペクトしてきたということかもしれません。
世渡り上手で人望がある人、結果、いつもリーダー格として遇される人には誰しも憧れてしまいますが、そんな人が必ずしも人格者というわけではなく、権威主義的で計算高い場合もあることは心得ておかなくてはならないと思います。

若い頃からの友情が、相手の自分に対する思いを知ることで失ってしまうことは、輝かしい青春の記憶が汚されたようで、とても辛いことだと思います。
私にも苦い経験があります。
70代の男性が回答を気にせず、余生を前向きに生きられることを祈ります。