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緑陰茶話   - みどりさんのシニアライフ -

エッセイとフォト

日々の発見と思いのあれこれなど

介護はチームワーク、介護は生前供養(2)

2016年08月11日 | 思い出
私の母が介護保険制度を利用するようになった最初のきっかけは、眼底出血による完全失明でした。

母は元々眼を患っていて、一番軽い視覚障害者手帳も持っていました。
糖尿病網膜症で、緑内障と白内障も伴っていました。でも、完全に失明していたわけではなかったのです。

その日の昼間、81歳だった母は疲れを感じて居間で少し横になって昼寝したそうです。
起きた時、すでに失明していて、目を開けても何も見えず、全体が赤かったそうです。赤かったのは眼底出血の血液の色だったのですが、母はそれが理解できず、自分の顔の上にカーテンが落ちてきたのかと思ったそうで、何も見えないまま、起き上がって訳も分からず、手探りで家の中を動き回ったそうです。
そして、玄関の上り口から土間に落ちてしまったのです。
私の家は50年前に建った家ですので、玄関の上り口は大人が腰かけられるくらい高いのです。
結果、大腿骨を骨折してしまいました。
つまり、一日で完全に失明し、骨折で歩けなくなったのです。

その日、私はいつも通り午後6時過ぎに帰宅しました。
玄関の様子が少し違っていて『あれっ?』っと思いながら家の中に入り、台所で倒れていた母を発見したのです。
玄関で落ちた母は何とか立ち上がって台所まで行ったのですが、足の激痛で動けなくなっていたのでした。
ただ、意識はしっかりしていました。
私はすぐに119番通報して、救急車に一緒に乗り込みました。

連れていく病院は、私は母の眼科の主治医のいる病院に行ってくれるように頼んだのですが、高齢者が倒れた場合、必ず脳の検査をしなくてはならないそうで、全然違う病院に連れていかれてしまいました。
結局、脳には異常がなく、その病院には2日ほどいて、なんの治療もされず転院することになりました。

母が倒れた日は3月29日で、ちょうど勤め先は期末。転院は年度初めで、私はその年度から新しい仕事を任されていて、残業しなくてはこなせないと思っていましたのでタイミングとして最悪でした。

母のことは、とりあえず病院に任せるとして、兄と私は退院した時のことを考えて介護保険制度を利用すべく近所の地域包括支援センターに行き、どう手続きすればいいのか相談しました。
自宅介護を希望する場合だと、母のケアプランを立てるケアマネージャーや、ヘルパーを派遣してくれたりする居宅介護支援事業所と契約を結ばなくてはならないというような話でした。

地域包括支援センターは、各地域に必ずあり、介護についての相談全般を受けてくれます。
何かあって、まず行くとしたら介護を受ける人がいる地域の地域包括支援センターなわけです。

居宅介護支援事業所については、センターで紹介もしてくれるようですが、母には希望がありました。
かねてからヘルパーで働いている知人に、介護が必要になったら私が介護に行きたいと言われていたらしいのです。その知人がいる事業所にしてほしいとのことだったのです。

で、事業所は簡単に決定したのですが、その知人がヘルパーとして来ることはありませんでした。
事業所の方針として、介護される人の知人や友人をヘルパーとして派遣しないことが決められていたからです。狎れ合いになりかねないと判断されたからかもしれませんが、私も知人・友人を省くことには賛成です。

ちなみに、個々のヘルパーさんはヘルパーとしての資格や技術を持っていますが、介護保険制度については詳しくないです。
私の友人でヘルパーで働いていた人がいましたが、介護保険制度については、こちらが驚愕するほど無知でした。
介護保険制度は役割分担がとてもはっきりしていて、介護保険制度の中の人でも、その人の仕事と関係のないことは分からないのです。

続きます。


介護はチームワーク、介護は生前供養(1)

2016年08月07日 | 思い出
最近、介護についての報道が多いです。
介護についての報道も年金の報道と同じで、やたら不安を掻き立てて、その結果、制度をより不安定にさせているような、そんな気がしないでもないです。(にしてはメディアは、リスク一杯の年金積立金の株での運用については無関心なようですが。)

私は一昨年母を亡くしました。そこで、介護についてのささやかな経験を記しておこうと思います。

自分の経験は限られているので絶対的なことは言えないのですが、7年間、介護保険制度を利用しての母の自宅介護を経験して、私は介護でさほど困りませんでした。
だから、今現在、将来の介護について不安にかられている人の話を聞いて、疑問に思うことが多々あります。

まず第一に、心配している人は介護保険制度について知らなさすぎること。というか、介護保険制度というものがあって、それを利用する介護のイメージが無いこと。
言い方を変えると、いまだに介護は家族の誰かが全面的に引き受けるもんだと思っていること。
高知東生が「介護に専念するために俳優を辞める」といった時の、その介護イメージの奇妙さに気づかないのはそこだと思います。
介護は、施設に入ってもらうか、でなければ家族の誰かが犠牲になるというイメージなのではないでしょうか。

実際には、私が介護保険制度を利用して知ったことは、驚くほどの多くの人が私の母の介護に関わったということでした。当時、私も兄もフルタイムで働いていましたので、家族が留守の時、ヘルパーさん達に来ていただいていました。

ただ、他人が家に入ること自体を嫌がる人もいるみたいなのです。

ある番組で、24時間介護について説明していて、視聴者の真っ先の質問は、家族が不在の時に、介護の為に他人が自分の家の中に入ってくることに抵抗があると言っていました。
抵抗があるのなら、自宅での介護で介護保険制度の利用は限定的で、結局、施設に入所させるしかないです。
でなければ家族が仕事を辞めて自宅介護することになります。

介護は家族が中心になってやるのではなく、いろんな分野の専門家とチームワークで行うもんだと認識を改めなくてはならないと思います。

確かに、一時期、私の家は家族抜きで他人ばかりがウロウロしていたと思います。
来ていただいていたのはヘルパーさん、ケアマネさん、訪問看護師さん、訪問医師、訪問薬剤師、訪問入浴の方々です。
目が見えなかった母の為に、デイサービスの行き帰り、そこのスタッフさんが自宅に入ることもありました。玄関前に母を置いておくわけにはいかなかったのです。

もちろん、常時たくさんの人が家に来ていたわけではなく、母のその時々の体調や、要介護度に応じて来られる方は変化しました。家族が家にいる土日は誰も来られない場合がほとんどでした。

鍵はどうしたかというと、合鍵を作って誰彼かまわず渡したりはしません。
玄関近くの分かりづらい所に暗証番号で開けることができる南京錠を掛けて置き、そこから鍵を取り出して入ってもらっていました。

この南京錠は中に物(玄関の鍵)が入れられるようになっていて、暗証番号で開けると錠が外れ、また中にある鍵も取り出せるのです。

このようなやり方をするように教えてもらったのはケアマネさんからでした。

ケアマネさんはチームワークで行う介護の、いわば総監督でありコンダクターでした。

他人が自分の家の中に入ることが嫌だとか心配だとかは、その当時、全く考えませんでした。
むろん、最低限の注意はしていました。
貴重品や現金をその辺りに置いておかないとかです。

介護に限らず、人と何かを一緒にする場合、最初から無条件に相手を信頼はしないけれど、最初から疑うということもしないと思います。
まずは信頼関係の構築から入ると思います。介護の場合、それは前提条件なのではないかと思います。

続きます。


母の刺繍

2015年12月06日 | 思い出
いつもコメントをくださる晴れ後曇り・・さんが、家の写真の背景の刺繍の衝立が気になるみたいなので、全面的に公開します。


刺繍は母が刺したものですが、表装というのか、衝立に仕立てたのは専門のお店です。木は桜材だと聞いています。

母は一時期、刺繍に凝っていて、座布団カバーから鏡台カバー、掛け軸やら着物の帯まで刺繍で作っていました。

掛け軸も帯も仕立てる時は専門のお店に頼んでました。

ずいぶん昔のことなので、残っているものは少ないです。
母が亡くなった時、母の友人・知人に差し上げてしまったものもあります。

これは下駄箱の上に敷くもの。今はニャンコが汚すのでしまっています。
近づいて見るとこんなです。



フランス刺繍の多彩なテクニックが使われています。

絵柄自体は母が考えたものではないです。先生の指示で作っていました。
そこが母の限界だったみたいです。

刺繍を見ると、母は何をするにもとても丁寧で、緻密な、家庭的・女性的な人のように思われるかもしれませんが、実際はそうではありませんでした。

どんな人だったかというと、まな板に茸を生やした人です。
まな板でも何でも、ちゃんと洗わないし、汚れたまま放置しているから腐ってそうなるのです。
私がそのまな板を捨てるように何度言っても母はそのまな板を使い続けていました。(茸を生やしたまま!)

私の母に関しては、一事が万事それで、ザツと言おうか、いい加減と言おうか、手抜きできるだけ手抜きする人で、聞けば「うっそーっ!」と言ってのけ反られるエピソードが山ほどあります。

今となったら笑い話ですが、一緒に暮らしていた頃はストレスで、私は休日で家にいると過敏性腸症候群で激しい腹痛から下痢になったくらいです。(茸のせいで下痢になったのではないです!)
心療内科の医師には、過敏性腸症候群の人は学校とか会社とか、家の外でそうなるのに、あなたは休日で家にいるとそうなる、とても珍しいといわれました。

皮肉なことに、ある日、母が倒れて目が見えなくなり、大腿骨骨折で動くのも不自由になると、私の過敏性腸症候群もピタリと治りました。
家の中のことはすべて私が仕切るようになったからです。

介護は10年近く続きましたが、できる限りのことはしたので、私としては後悔はありません。

母の性格をある程度知っていた母の友人・知人の方々は、形見に母が刺繍したものを差し上げた時、とても驚いていました。
刺繍は、母の思いもよらない一面だったのです。