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緑陰茶話   - みどりさんのシニアライフ -

エッセイとフォト

日々の発見と思いのあれこれなど

ペットロス症候群

2017年03月06日 | 思い出
スズちゃんが逝ってしまって10日以上の日が経ちました。
未だ悲しみと後悔の思いは続いています。
49日が済むまではスズちゃんの魂は我が家の辺りにいると思いますので、時折、スズちゃんの魂に語り掛けて、スズちゃんがいてくれたことへの感謝を伝え冥福を祈っています。

どうやら私の状態はペットロス症候群と呼ばれるもののようです。
昔、何かで読んだことがあるのですが、ペットを失って形容できないような悲しみに襲われるのは、そのペットの死に後悔することがあるからだと。
それは何となく理解できることでした。

私は今まで何匹も猫を飼ってきて、何度もその死にざまを見てきました。
その都度、悲しい思いや寂しい思いは感じましたが、今回のスズちゃんの時ほどの深い悲しみを覚えたことはありません。

ただ一度の例外は猫ではなく、飼っていた鳥を亡くした時のことでした。
それは亡くなった父が、私が小学4年生の時に買ってきたアオボウシインコです。
大型のインコ類は30年40年と生きますが、ポッポと名付けられたそのアオボウシインコは35年間、我が家で生きました。

共にいた年月の長さが別れの悲しみを深くしたのではありません。
一羽の鳥としての生涯の無残さが、私をどうしようもない申し訳なさで一杯にしたのでした。

ポッポは外国航路の船員だった私の父が南米に行った時に、露天で売られていたのを買ってきた鳥です。
人の手によって繁殖して得られた鳥ではなく、野生のインコを捕らえて売られていた鳥だったのです。
アオボウシインコは、現在では繁殖個体が大半だそうですが、当時は野生の個体ばかりだったのです。

ポッポだけではなくアオボウシインコの性格は、陽気で快活、活動的で遊び好き、賢くて、よく人馴れし、好奇心旺盛です。
それだけ聞けば、ペットとしては申し分ないと思われるかもしれません。
でも個人の家で飼うには大変なものがありました。
最初の十数年は遊び好きで活動的なポッポのために、庭に面した一畳の板の間に籠をつるして、夜以外は籠の外に出られるようにしていました。
年月が経つと家人も忙しくなり、昼間は家で一羽でいることが多くなりました。

人にあまり構われなくなると、退屈さからか淋しさからか、柱やら家具やら、しまいには電線まで、鋭い嘴で手あたり次第に齧り始めて、結局、籠の中に閉じ込めておくしかなくなりました。
もちろん、私はポッポの状態にいつも気を遣ってはいましたが、始終ついているわけにはいかなかったのです。

結果、ポッポは20年以上もの間、滅多に籠から出されることもなく、生きて死んだのです。
元は地球の裏側のアマゾンのジャングルで自由に飛び回っていた野生の鳥でした。
その子が日本にまで連れてこられ、仲間もいない場所で、あまり構われることもなく、20年以上も籠に閉じ込められたまま生きて死んだのです。
あんなに遊び好きで活発な子だったのに。

ポッポが死んだ時、私はそんな生涯を送らせてしまった申し訳なさに泣きました。
しばらくの間、私は夜になるとポッポのことを思い、一人で泣いていました。
もう野生の動物は二度と飼いたくないと思い、事実、飼ったことはありません。
珍しい野生動物を飼っていることを面白そうに映しているようなテレビ番組も見たくありません。

野生でいて、たとえ飼われている場合より短命になっても構いません。
その動物が、その動物らしく命を全うすること、それが一番大切だと思うのです。
だから家族同様のペットであっても、むやみやたらな延命治療はしたくないのです。
(家族に対しても、自分自身も、命の尊厳を踏みにじる延命治療は拒否です!)

当時の私は、いわゆるペットロスの状態でした。
ポッポに対する申し訳なさがそういう状態を引き起こしていたのだと思います。


ところで、現在「ハリーポッター」の影響でフクロウを飼うことがブームになってしまったそうです。
フクロウは大型インコよりはるかにペットとしてふさわしくない鳥です。
作者のJ・Kローリングはフクロウを登場させたことを後悔して、フクロウを飼うなどと考えないで、むしろ野生の鳥のためになることをしてほしいと訴えているそうです。
全くその通りだと思います。


これは2年前に淀川の河川敷で撮ったコミミズクの写真です。
もちろん野生です。
コミミズクは冬に越冬のために日本に北から渡ってくる渡り鳥です。
こんなフクロウがいつまでも日本で越冬できる環境を残してあげたいです。




介護はチームワーク、介護は生前供養(6)

2016年11月06日 | 思い出
前回は母に不名誉なことを書いてしまったので今回は名誉なことを書きます。

私の母の場合、とても前向きで負けず嫌い、それが少々度を過ぎるという面がありました。
自分の病気や老いをなかなか認めようとしなかった事など、時には死の危機さへ招きました。

たとえば、まだ母が50代の頃、胆石の発作を起こしたことがありました。
私は当時、実家に住んでいなかったのですが、激痛でうなっている時でさへ、病院に行こうとせず、家事をやろうとしていたそうです。
父が見かねて、引きずるようにして近くの病院に連れて行ったところ、直ぐに大きな病院に行くように言われ、大きな病院に行くと即日手術されました。

後に母は私に、医者がとても生意気で、自分に向かって「あなたは死にたかったのですか」と言ったと言って怒っていました。
実際には、手遅れ寸前だったのですが、それを認めず、「医者が生意気」というところが母らしいです。

ただ、母の介護をするに当たって、家族にとってはその性格が、とても楽に働いたのでした。

自宅での介護が始まって、私が見ていてとてもショックなことがありました。
それは食事風景で、目の見えない母は当然のように手掴みでご飯やおかずを口に入れていたのです。

私はお箸で食べられなくても、せめてスプーンを使ってでも、手掴みでなく食べてほしくて、ケアマネさんに、リハビリの一環として目が見えなくてもちゃんと食べられる方法を母が学べないか聞きました。
するとケアマネさんは私をキッと見据えて言いました。

「〇子様(私の母)は、眼が見えなくなっても、自分の力で食べようとしていらっしゃいます。私は〇子様を立派だと思います」

そう言われて、私も初めて知ったのですが、80歳を過ぎて失明した場合、食事は介助されて食べるのが当然らしくて、通常の中途失明者のように食べ方を学んだりしないということ。
でも母は、病院にいた時から自力で、つまり手掴みで食べていたのです。
たぶんそれは、ほかの同じような状態に陥った高齢者はしないことのようだったのでした。

もう一つ気づいたこと。家族の目から見て否定的に見えることでも、他人の目から見ると評価されることもあること。
私もケアマネさんに言われて『手掴みで食べることが評価のできることなのか』と驚いたのですが、介護に他人を入れることの大切さは、同じことが異なる視点で見られることにもあるのではないでしょうか。

いずれにしても、負けん気が強くて何でも自分でやろうとする母の性格は、介護者にとっては後々までありがたいことでした。

大腿骨骨折の手術後のリハビリも、同室の同じような手術を受けた人達が痛みに苦しんでうまくいってなかったにもかかわらず、母の場合、とてもうまくいって、珍しいことだそうですが正座までできるようになりました。それは、自立心と行動力が人並み外れていて、その上、痛みを恐れない母の性格の故だったかもしれません。

そういうわけで、当初こそ訪問看護士に来てもらっていましたが、直ぐに必要なくなり、お風呂にも自力で入れるようになったのです。(家に誰もいない時でも一人で入ろうとするのには困りましたが。)

よく「私の母はわがままだから・・・」と介護について心配される方がいますが、私の母もわがまま、というより、究極の自己中人間でした。ただ、介護については、そのわがままさがプラスに働きました。わがままというのは、案外、家族に対してだけだったりするからです。

友人知人の話を聞いていると、介護度が高いわけでもなく介護で困っている人は、別世帯なのに子供である自分が何でもしてあげて当然だと思って、毎日親の家に通って世話をしてあげていたりします。
親の方も、それが当然になって、一日でも子供が家に来ないとヤンヤと電話をかけてきます。
子供相手なら、わがままがきくということもあると思います。

ただ、それで自分がやりたいことが何もできないなどと子供が愚痴るのは間違いなような気がします。プロと相談してある程度は任せるということもせず、親の本来的な力を引き出すこともせず、親子でそういう介護の方法を選んでいるだけなのではと思える部分もあるのです。

もちろん、母の場合も何の問題もなかったわけではなく、完全失明した結果、昼夜の区別がつかなくなり、昼夜が逆転したことなど、困ったこともありました。(ラジオの深夜放送が面白いと母は言っていました。)
でも、高圧的な態度をとる看護師さんは嫌っていましたがヘルパーさん達とは仲良くなって、まずまずのスタートだったのです。



母が中年の頃の刺繡の作品、掛け軸に仕立てたものです。
題は「花車」です。




介護はチームワーク、介護は生前供養(5)

2016年09月29日 | 思い出
介護について語る場合、介護する側とされる側の関係が、介護が始まる以前に良好だったかどうかが重要だと思います。親子だから、あるいは夫婦だからって、仲が良いわけではないからです。

私の場合、良好ではありませんでした。
にも書きましたが、母から受けるストレスで私は心療内科に通っていました。

前に書いたように、母はまな板に茸を生やすような人でした。
それは一事が万事で、明らかに使用不可能となった物を捨てないのです。

雑巾などは、何十年も使いながらちゃんと洗わないので、腐って腐臭が漂っている雑巾を使い続けていました。結果、家じゅうに腐臭が漂うのです。

母が何年も使い続けていたタオルも凄かったです。母は常時1本しかタオルを使わなかったのですが、これもちゃんと洗わないものだから、濡れている時は何かの細菌が繁殖していたのかヌルヌル、乾いた時はバリバリになって棒状でした。

母は齢と共に目が不自由になっていたのですが、母の目の病気は腐ったタオルのせいではないかと思い、何度もタオルを捨てるように言ったのですが完全無視でした。
(家に新しいタオルがなかったわけではないのです。貰い物のタオルが手つかずのまま山ほどあったのです。)

料理の時に手を拭くエプロンも、洗いもせずに使い続けるものだからカビだらけでした。
見かねて私がバスタオルを半分に切って紐をつけてエプロンを二つ作ったのですが、直ぐにカビだらけにしてしまいました。洗濯しないで同じエプロンを使い続けるからです。

庭に、肥料になると言って生ごみをぶちまけるのも頭痛の種でした。生ごみは肥料にならず、むしろ土を汚すということが分からないのです。そもそも母には腐敗と発酵の区別がつかないのでした。

とまあ、この種のエピソードを上げればきりがありません。

今、高齢者で周囲が困ることと言えば、誰もがイメージする“介護”もさることながら、いわゆるごみ屋敷に繋がってしまう、物に対する異常な執着やら、医療や介護の拒否というセルフネグレクト(自己放置)であって、私の母の場合もそれに近かったかもしれません。

母は倒れる以前、頭もしっかりとしていましたし、体も糖尿で目が悪い以外とても元気で、いわゆる“介護”の必要な人ではなかったのです。

ただ、極端に不潔な状態に自らをおいてしまう状態は、老いと共にひどくなっていったような気がします。
それは視力や嗅覚や体力の低下が隠れた原因としてあったのかもしれません。

若い頃はどうだったかというと、その傾向はありました。

昭和30年代、女性の下着(シミーズとかズロース)がまだ木綿ばかりで色も白が大半だった頃、母の下着は長年身に付け過ぎて色が茶色になっていました。
父が呆れて「それは元々そういう色だったのか、それとも醤油で煮染めたのか」とか「わしの給料は新しいものが買えない程少なくはない筈だ」とか言っていましたが、母は一切無視。

影響は子供の私にも及んでいて、小学生の頃、学校から雑巾を1枚持ってくるように言われた時、母にそのことを言うと、雑巾として家で使用中の、子供心にさすがにそれは持っていけないと思うような雑巾を持っていくように母から言われました。
その時は、私は朝早く起きて、こっそり新しいタオルを出して、それを縫って持っていきました。

ただ当時は、確かに普通とは言い難かったものの、物凄く不潔とか、悪臭ふんぷんとか、そういう次元ではなかったのです。
齢を取って、明らかに異次元の状態に突入したのです。

元々そういう傾向があって、その上、変化は徐々に起こります。だから家族のストレスも知らないうちに増大していくのです。

私の場合、症状は週末だけの激しい下痢でした。
ウィークデイは仕事をしていて家にいないのですが、週末は1週間分の掃除や洗濯や庭仕事をします。その時に症状が現れるのです。母のやったことや、やっていることを眼にしてしまうからです。
ただ、心療内科に行っても、ストレスによる過敏性腸症候群と言われただけで、薬も全く効きませんでした。心療内科には、愚痴を聞いてもらいに行っているようなものでした。

そんな状態の時に、母は倒れたのでした。
そのことを心療内科の医師(女性)に言うと、医師は「みどりさん、今のうちよ。雑巾もタオルもみんな捨ててしまいましょ」と言いました。

考えてみれば、入院期間は長い筈だし、帰っても今まで通り動けるとは思えない。眼もどうなるか。医師の話によれば1年もたないということだし。
それならばと、雑巾もタオルも、変色してヨレヨレになった母の下着もすべて捨て、新しく出したり、買い整えたり。家の中もすっかり模様替えしてしまいました。文字通り、鬼のいない間に洗濯したのです。

かくして、私の週末限定の過敏性腸症候群は、母が倒れて以後、症状が出てくることはなくなったのでした。

こんなことを書くと、そんな体に悪そうなタオルなど、勝手に捨てられなかったのかと思われそうですが、それができればゴミ屋敷の近隣住民も悩むことはないのです。

たとえば、文豪の森鴎外の娘に、森茉莉という作家でエッセイストがいました。
彼女もまたゴミ屋敷の住人でした。正確には、彼女の場合はアパートに住んでいたのでゴミ部屋の住人でした。

そのアパートが老朽化して取り壊しが決まり、引っ越しせざるを得なくなった時、彼女の部屋の家具を運び出そうにも、長年のゴミや埃が湿気で土と化していて、家具はタケノコを掘るように土と化したゴミを掘らねば運び出されなかったということでした。(手伝いに行った出版社の編集者の証言です。)

森茉莉の部屋がそれほどひどい状態でなかった頃、彼女の部屋のゴミを見るにみかねて、森茉莉の親友だった詩人の萩原朔太郎の娘である作家の萩原葉子が、ゴミ袋一つ分のゴミを無断で捨てたそうです。
森茉莉はそのことに怒り狂い、激高のあまり呼吸困難に陥り、救急車で病院に運ばれる騒ぎになったそうです。

森茉莉は晩年まで人気のあるエッセイストで、作家として活躍していましたが私生活はそんなふうでした。

母の場合も、他人には信頼されていて、様々な活動をしていたのです。

こういうタイプの人は、勝手にゴミ(と第三者には見える物)を処分されると怒り狂い、時には暴力沙汰になるのです。
かといって、どんなに説得を試みても自分でゴミを処分することもないのです。
少なくとも、相手との良好な人間関係を保つにはゴミは捨てられないのです。

こういう状況に解決策があるかどうかは疑問です。
母の場合、介護が必要なほど体の状態が悪くなったことが、結果として解決に繋がったのです。



介護はチームワーク、介護は生前供養(4)

2016年08月28日 | 思い出
(4)では、実際の介護サービスについて書きます。

母の入院中から担当になったケアマネージャーのNさんは精力的に動いてくれました。

自宅で介護する以上、入院中に家のバリアフリーを済ませておかなければならなかったし、レンタルの介護用ベッドを置く為に部屋の模様替えも手早くやってしまいました。

その他、介護用品の選定購入と、ほぼケアマネさんの指示で行いました。

実際に行う介護サービスの説明は、ヘルパーさんも来られて受けました。

我が家の場合、家族がいるので、朝と夕の食事は家族が作って食べさせてくださいということでした。
関係がないので質問はしませんでしたが、一人暮らしの高齢者の場合は、介護度が同じであっても当然違うのでしょうか。

強調されたのは、ヘルパーさんが行う介護サービスは、我が家の場合なら母に関することだけということでした。
つまり、それ以外の家事は一切しないということです。

で、私がおそるおそる質問。
「うちのスズちゃんにも昼ごはんをやってほしいのですけど・・・」

スズちゃんは我が家の猫です。お昼にも餌をやっていたのです。というか、人がいれば必ず餌を欲しがるのです。
ケアマネのNさんの答えは「ダメ」でした。ペットの面倒は介護サービスに含まれないのです。

そこで私も言いました。
「じゃあ私が帰ってからやります。でも、スズちゃんに餌をやらなかったらヘルパーさんは仕事にならないと思います。ニャーニャーとまとわりついて」
Nさんはちょっと考え込んで「仕方ないですね。スズちゃんの餌やりも含みます」と言いました。

そのやりとりを固唾を飲んで聞いていたヘルパーさんもホッとした様子でした。
ヘルパーさん、餌をやりたかったみたいなのです。
その後、スズちゃんはヘルパーさん達に〝お話し猫ちゃん〟として、とても可愛がられました。
スズちゃんは話しかけると必ず「ヴギー」と返事をするからです。

後に聞いたところ、派遣されるヘルパーさんは、猫のいる家は猫が好きかもしくは猫が平気な人、犬の場合も同様とのことでした。

ただ、説明を受けて思ったことは、ケースによっては介護サービスを利用しても介護離職せざるをえないだろうなということ。

たとえば、母親と成人した子供の二人暮らしで、母親が家事をして子供が正社員で、残業ありのフルタイムで働いていた場合に、母親が倒れて介護が必要になった時など。

よくあることですが、同居家族である子供は朝の7時に家を出て、夜の9時30分に帰ってくるとします。
介護サービスでしてくれるのは母親の昼間のケア(食事・身体介護)だけです。朝と夜は子供が介護をしなければなりません。
その他一切の家事も家族である子供がすることになります。

今どきの仕事はとてもハードで、帰宅したらクタクタなんて珍しくありません。帰ってからの介護は体力的に辛すぎます。それでなくても、今まで家事一切を親に任せていた子供が、親が倒れたからといって、朝と夕の親の食事の用意から家事一切を空いた時間にできるでしょうか。

これは介護の問題というより一部は企業のワーク・ライフ・バランス(※)の問題ですが、よほど体力強健な人でないと続かないでしょう。
(※ワーク・ライフ・バランスの意味は、Wikによれば「仕事と生活の調和」と訳され、「国民一人ひとりがやりがいや充実感を持ちながら働き、仕事上の責任を果たすとともに、家庭や地域生活などにおいても、子育て期、中高年期といった人生の各段階に応じて多様な生き方が選択・実現できる」ことを指します。)

介護保険では、専業主婦など、ずっと家にいる家族の介護負担を減らすために、デイサービスやショートステイで、家以外の場所が高齢者を引き受けて家族を休ませることができるのですが、働いている家族は休みなしになってしまいます。

つまり介護保険では、結果的に一つの家族・家庭から介護が必要な高齢者のみ切り取って、その人だけ助けることになっていて、ペットを含め、実質的に家族単位で状況を考えていないのではと思えるのです。

たとえば、猫と暮らす一人暮らしの老人が倒れて介護が必要になった時、老人は介護サービスを受けられますが、そのサービスの中には猫の世話は含まれていないのです。では猫はどうするのでしょう。

我が家のように、それでもやっていける家族は良いのですが、やっていけない家族は必ずいます。
同居している家族に余裕がなければ、介護が必要な高齢者は、いっそ一人暮らしで介護サービスを受ける方が、きちんとした介護を受けられることもあるかもしれません。

もちろん、介護サービスを介護を必要とする人のみにしないとヘルパーさんはお手伝いさんになってしまうので、そこの線引きは難しいと思います。

でも、結局スズちゃんの餌やりが認められたように、実際には、ある程度の融通は利かせてくれます。
たとえば、実際にはやってはいけないことですし、たまにのことだったですが、ヘルパーさんが台所や廊下の拭き掃除をしてくれたり、お昼にご飯が無くなると炊飯器を仕掛けてくれたり、夕ご飯に家族も食べられるようにおかずを多い目に作ってくれたり、です。

後で知ったのですが、契約した事業所によっては、私が実際に体験した以上にやってくれるみたいだったのです。

母はというと、自宅での介護生活が始まるとヘルパーさんとおしゃべりしたりで結構楽しそうでした。
一時は目が見えないために完全に昼夜逆転になりましたが、7月末には眼底出血した血液が吸収されて視力が戻り始め、ヘルパーさんに付いてもらって近くの病院ならば半分は歩いていけるほどになったのです。(後の半分は車椅子)

介護で最も恐れられていることは身体介護ではないかと思うのですが、当初は訪問看護師さんにも来てもらい、リハビリや入浴介助をしてもらっていましたので、家族が身体介助でしんどい思いをするということもありませんでした。

私も、当時のヘルパーさん達と交わしていた連絡帳を読み返すと、母のことだけでなくスズちゃんや我が家の庭の草花の話など、楽しそうに書いていて、深刻なことは何もありませんでした。



介護はチームワーク、介護は生前供養(3)

2016年08月18日 | 思い出
介護のこととは少し離れて、当時の母の状態を記しておきます。

母の状態は命に関わるものではありませんでしたが、早急に眼と足の両方の治療(手術)が必要で、病院にとっても悩ましいものだったようです。眼科か整形外科か、どちらの病棟に入院させるべきかも決まらないからです。

母の担当になったケアマネージャーのNさんは、話し合いの結果、今後の母の生活の質を考えれば眼の治療を優先させた方が良いという結論になったと言ってきました。
今後、歩けなくなっても車椅子で何とかなる。でも目が見えないことはダメージが大きすぎると考えたみたいです。

ただ、私の見るところ、母は眼は痛くないのですが足は相当に痛そうでした。足の方を優先させるべきでは?と思いましたが、黙っていました。
案の定、眼の手術の後、うつぶせの姿勢を取らなければならなかったらしいのですが、付き添った兄によれば、骨折した足が痛んで、うつぶせになることが難しく、大変だったらしいのです。

結局、母は2ヶ月あまりの入院生活を送りました。
最初の病院を含めば、入院した病院は3か所。転院回数は4回でした。
眼の手術は2回受けましたが、視力は退院時点では回復せず、失明したままでした。
出血して固まり、膜状になった血液を手術で取り除いても、また新たに出血してしまうのだそうでした。

眼については、私は主治医と会ったこともなく、詳しい説明を受けたこともありません。
私自身、病院に行くのは夜か土日だったからかもしれないし、母は意識も頭もしっかりしていたので、自分で話を聞いて判断していたのかもしれません。
ただ、今思い出すと、主治医は家族から逃げていたかなとも思います。
ずっと以前から眼の治療を継続的に受けていながら、結局、大規模な両目の眼底出血を引き起こしてしまったからです。

足の骨折の手術(人工股関節置換術)の方は1回だけで、とてもうまくいきました。
通常、人工股関節置換術が行われても、必ずしもうまくいかないらしいのですが、母は痛みもなく、元通りにはならなかったにしろ何とか歩けるようになりましたし、通常は無理になってしまう正座さへできるようになったのです。もちろんリハビリも行って、その成果もあったようです。

眼科の主治医と異なり、整形外科の主治医とは何度かあって面談し、詳しい説明も受けました。
ただ、整形外科の主治医からは、ちょっと忘れられないことを言われました。
曰く「1年後にお母さんが生きていると思わないように」

私が、母の様子から、とてもそんなふうには考えられないと言おうとしても、医師は私の言葉を強い調子で遮って、1年以内にもう一方の足も骨折してまた入院する、あれこれ合併症が出てきて、そして「死ぬんやー!」と断定されてしまったのです。

確かに、骨折がきっかけになって亡くなる方もいることは私も知っていました。
勤め先の80代の会長が、医師が言ったような経過を経て亡くなったのを数年前に見ていたからです。
でも会長は、亡くなる数十年前から医師の指示で毎日牛乳1本飲んでいた骨の脆い人でした。
そんな人と一緒な筈はなかったのです。

事実、母はその後7年生きていました。その間、家の中で何度か転倒しましたが骨折することはありませんでした。
医師があれほど強い調子で1年以内に死ぬと言ったのは何故だったのか。統計的にか、経験上からか。

一つ考えられるのは母が骨折した理由です。母は玄関の上り口から落ちて骨折したのです。
若い医師だったので、昔の住宅の玄関の上り口の高さを知らず、落下ではなく、転倒による骨折と勘違いしたのかもしれないということでした。

いずれにしても専門家である医師の言葉は、私には重かったです。
母は、医者から「1年後には死んでいる」というお墨付き?を貰って退院したのです。