◇ 風の様に在る道6 ◇
あなたは
風を見た事があるだろうか
風は 目にする事はできない
吹きつけてくるのを
感じる事は出来ても
風を見ることは出来ない
吹かれているものを
目にする事は出来ても
あなたは 風自体を 目にする事は出来ない。
たしかに
風はそこにあるが
それを目にする事が出来ない。
もしも
そこに風と
争うものが
何ひとつ
無かったら
風を見る事は出来ない・・・・・。
風は 無い
あなたがいると
風はある様に感じる
だが
あなたが 風と同じ速度で
逆らわずに流れたら
そこには
何も 無くなってしまう。
無風状態の時
風は一体 どこにあるのだろう
風は ちゃんと在る。
ピッタリと
止まったままではあるが
空として そこにある。
その空気こそ
風になる
空気の動き それが風だ。
それは
一定の固まった
動き方などしない。
静止している時
そよそよと そよいでいる時
強くふきつける時
嵐の様に
荒々しく動く時と
そこには自由自在な運動がある。
運動がないと
それは死んでしまう
澱んでしまう・・・。
そして
それによって生かされている
すべてのものも
連鎖反応で死んでしまう・・・。
それは
それ自体を生かす為の
運動だ どんなに優美なものでも
そこに運動がなく
固まっているとしたら
それは 作り物の様だ
それに何にかしら
死の臭いが 漂い
やがて それは絶えてしまう。
ここに
一杯のコップの水が有る
綺麗な水だ
今
川の流れから
汲んで来たばかりの一杯の水
だが
静止したまま
3日もたてば それは悪臭を放つ
あの時は
生きていた水が
今は腐って死んでいる。
運動の
必要性を物語っている。
もしも
その水を
こっちのコップから
あっちのコップと 作りだした動きでも
常に動かしていたら
その水は
死なない 暫くの間 活きる。
そして
もっと活かして上げる為には
川の流れに 自然の流れに その水を返す事だ。
それは
沢山の水と溶けあい
互いの生を流し込み合う。
それは
永遠に腐らない
死なない
生の 生自体の本流と流れあう時
あなたは
永遠の中に
流れ込み始める。
そこは不死だ
その時こそ あなたは本当に生きる。
生と共にある 生自体になっている。
誤解しないで
欲しい事は
運動が無ければ 動きが無ければ
死を
もたらしてしまうことは
事実だが 私が最終的に言っている
運動と言うのは
何かを
紛らわす為に
行動している事を
言っているんじゃない。
落ち着きの
無さの原因を
静視しない為に
それを
紛らわせる為の
自分の恐さから出る行動を
言っているんじゃない。
それは
成長する過程において
必要だが そこで立ち止まらないこと。
最終的に
来て欲しいところは
あなたの
外側から受ける
受動的な感覚も
あなたの意志も消えさった後に起こる
運動を言っている
その運動は
あなたの生に豊かさを 深みを
活々さを与えてくれる。
風の様に 自由自在
まさに 風そのものの状態の生こそ
真理だという事を あなたに伝えたい。