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浄心庵・長尾弘先生「明来闇去」

 ~ 誰れもが幸せになれる御教え ~

明来闇去

2021-04-16 19:07:47 | 明来闇去

※プロバイダー(google) のシステム・トラブルが本日現在回復しました。
具体的な理由は不明ですが、比国のインターネット・プロバイダーに何らかのトラブルが
あり、当ブログにアクセスできませんでした。
プロバイダーサイドのトラブルですので、利用者側では何の対策もとれません。
将来再び同じトラブルが発生するかもしれませんが、取り敢えず今、現在は投稿できますので、
当ブログの投稿を継続します。
当ブログに訪問していただく皆様にご迷惑をおかけしましたことをお詫び申し上げます。
下記‘のURLはLivedoorでの恩師「長尾弘」先生の現在までに投稿しました全てのブログを
掲載してあります。
◆こちらのブログでは開設初日から現在まで投稿しました恩師の全てのブルグがご覧いただけます。
 万が一の時の為にお知らせしておきます。
http://hiromuneeikawa.livedoor.blog/


  恩師のご著書「思いの中に生きる」より

            見えないものの存在


先の続き・・・

人間の私たちは、この世に今生きさせていただいて、
この肉体あるいはこういう物質の中で、
ただこの世だけがすべてだと思って暮らしてきました。
けれども、この世だけではないということです。
目に見えない世界。
目には見えないから、
「ここに何かあるんですよ」と言いますと、
「この空間には何もない」と普通は言います。

しかし、目に見えないこの空間の中にも、ラジオの電波、
テレビの電波、いろんな電波が飛び交っています。
私たちの目には見えないだけで、現実にあるのですね。
もっとわかりやすいのは、部屋を閉めまして、
夏クーラーをかけますと、
どんどん水が出てきます。
何もないと思っているこの空間には、水がいっぱいあるのです。
水といえば語弊があります。

水の原子である水素と酸素がいっぱい充満しているのです。
熱作用によって水が分散して軽くなってこの空中にいっぱいあるのです。
ところが見ることはできません。
だから、それと同じように見えない世界に、
私たちのこの肉体がなくなった後の意識、
その人がもっている心があるのです。
本当なら「成仏」と言いまして、生まれてくる前に住んでいた世界に
帰らなければならないのです。
そこは極楽あるいは天上の世界と言います。

ところが、そこへ帰れないでこの世に残しているその思いが、
見ることはできないけれども霊として現実にいっぱいおられるのです。
病院なんか行きますと、霊視
もし自分の心ができていないのにそういう世界が見えますと、
もう恐ろしくていられない世界です。
死んで迷っている人はいっぱいおられます。
病院は自分を助けてくれる所、ここにいれば病気を治してくれる、
そう思ってその場所で死んだ人の思いが、
「ここにおったら助かるんや、治してくれるんや」

と思ってウロウロしているのです。
ところが普通は見えません。
触れることもできません。
だから、どこの病院へ行きましても必ず怪奇現象の起きる部屋が
二つ三つあるはずです。
部屋へ入ったら誰か枕元に立っちにくるとか、ドアを開けに来るとか、
そういうことはどこにでもあるのです。
それは皆、なくなった人の意識が残っているのです。


明来闇去

2021-04-05 00:18:16 | 明来闇去

     恩師のご著書「思いの中に生きる」より


         見えないものの存在

死んでから、蛇の姿になりあるいは狐の姿になって、
迷っている方がいっぱいあります。
本当は、蛇とか狐とかあるいは狸とか、
そういうものは人を化かしたり祟ったりしないのです。
そういう意識になり下がった人の意識が禍を起こします。

そういうことがわからないものですから、
「これはえらいことだ。祀れ。
供養せなあかん」ということになるのです。
地神さんというのは大体蛇の姿を見せます。
それは「人の執念」です。

これをゴミにたとえてみますと、
拝み屋さんが来て「ここ祀んなはれ」と言って
地祀りあるいは棚祀りをすることは
ゴミを掃除してゴミ箱に入れて屋敷の側へ
置いているのと同じことです。
うまいこと管理しないとまた出てきます。
神主さんが来て「祓い給え、浄め給え」とやったら、
チリ叩きでゴミを払っているようなものです。

その時はなるほどきれいになるけれど、
またそのゴミはそこへ落ちます。
一番いいのは掃除機を持って来てバーッとゴミを
皆吸ってしまって然るべく処置をしてしまうことです。
もう出てきません。
私の場合は掃除機でそういうゴミを
全部吸い上げてしまいますから、
後がうまくいきます。



明来闇去

2021-04-04 00:14:45 | 明来闇去
 
恩師のご著書「思いの中に生きる」より

        「先祖供養」について(その2)

先の続き・・・

本当の先祖供養といいますのは、そのような幸せな姿をお供えして、そして、
「もし暗い世界におられるご先祖さまがございましたら、私の申し上げるこの
言葉をよく聞いて下さい。暗い世界におられるご先祖さまは、
この世に在られます時に、私のように幸せでございましたか」と、聞くのです。

そうしますと、もう一遍に目覚めます。「アア、私は幸せではなかった。
この子らのような幸せは、私にはなかった」。
幸せでないから死んで迷うのです。

「こんなに仲良く、こんな幸せな人生でしたか」と聞かれますと、
自分のいとしい子孫から幸せな姿を供えられ、そして、
「このような幸せでございました」と聞かれた時に、
どれほど深い迷いの中におられる先祖さんも即気付きます。

自分の人生が間違いであったということに気付くのです。
「喜びが足りなかった。私は幸せでなかった。
このかわいい自分の子孫のような幸せな人生を
自分はよう送らなかった」と。

幸せではなかったことが迷いの原因です。
では、どこに原因があったのでしょう。
それは私たちの心のあり方の中にありました。
迷いの原因は今言いましたね。

「この世にあられます時、腹立って喧嘩なさいませんでしたか。
あるいはお互いにクサし合いませんでしたか。
そしり合いはなかったですか。
人の悪口は言いませんでしたか」と聞いてみなさい。

聞かしてもらったら、
「ああ、あった。あった。ああ、あった。ああ、
私は恥ずかしい」と言って目覚めます。
それが苦しみの原因、地獄の原因であれば、
「今、心の底からその間違いに気付かれましたら、
本当の神様・仏様に心から自分の人生の過ちをお詫びしてみて下さい。
心の底からお詫びしますと、必ず心は安らぎます。

心から懺悔・反省・悔い改めをしますと必ず心は安らぎます。
その安らぎの心こそ極楽へ通じます」と言って、
お伝えお教えさせてもらうのですね。
それが本当の先祖供養につながります。




明来闇去

2021-04-03 00:17:01 | 明来闇去
 
恩師のご著書「思いの中に生きる」より


          「先祖供養」について(その2)

先の続き・・・

このような間違った信仰をなさっている方もたくさんありますね。
これは不孝者です。
反対に、私たちの子供たちが、
「お父さん、お母さん、お陰さまで、
私たちはこんなに幸せに住まわせてもらっています。

これもお父さんお母さんのお陰です。ありがとうございます」といって、
その幸せな姿、幸せな顔を見せてくれたら、
親の立場として「ああ、ありがたいなあ。
こんなに幸せに過ごしてくれたらありがたい。

もうこの子らについては、私は安心や」という喜びをいただけます。
それと同じことで、先祖さんの前で、
「お陰さまでございます。私たちのこの幸せは皆ご先祖さまのお陰です。
この幸せな姿をご覧になって下さい。ありがとうございます」と言って、
その幸せな姿をご先祖さんに供えてみなさい。

先祖さんは必ず、「ああ、よかった。私は安心や。この子らがこんなに幸せに
過ごしてくれたら、私は何も心配ない。ありがたいことだ」といって
喜びに満たされるはずです。
その時、ご先祖さんの魂は救われていきます。


明来闇去

2021-04-02 00:15:17 | 明来闇去

 恩師のご著書「思いの中に生きる」より


      「先祖供養」について(その2)

先の続き・・・

そういうふうな祈りをしますと、これは先祖不孝です。
それが先祖供養だと思って、一生懸命頼んでいるのですが、
これほど大きな先祖不孝はありません。
親不孝・先祖不孝です。

何故かと言いますと、私たちの子供や孫に
「お父さん、辛いんや。何とか助けてほしい。お母さん、辛いんや。
私はこんなんで辛いから何とか助けて」と言って来られたら、
私たちは必ず悲しい、辛い。
替われるものだったら替わってやりたい。
しかし、替わることはできません。

子供が「辛い、辛い」言いながら泣きついてきてくれて、
喜ぶ親がどこにありますか。
そんな親は一人もいないはずですね。
それじゃあ、私たちがお仏壇の前で、先祖さんはどんな思いをなさるか。
私たちが子や孫に泣きついて来られたらかなわないように、
先祖さんも必ずかなわないと思われます。

死んだら守ってやることはできません。
そりゃ、何とかしてやりたいという親心はもってくれます。
しかし、すでにこの世に肉体はないのです。
どうしてやることもできない自分の子孫に、
不幸な姿を目の当りに見せられたら、
これほどの先祖不孝はありません。


明来闇去

2021-04-01 11:33:48 | 明来闇去

お詫び:二日前に突然の停電の為、当ブログのシステムにトラブルが発生し、
このブログにアクセスすることができなくなりました。
本日プロの方に修正をして頂き、今、新規投稿ができるようになりました。
皆様にご迷惑をおかけしたことをお詫び申し上げます。


恩師のご著書「思いの中に生きる」より
       「先祖供養」について(その2)


子供が素直で、親の言うことを聞いてくれて、
どうにか一人前に成長してくれて、
幸せな家庭をもってくれたら、
親にとってそれ以上の幸せはないのです。
親という立場にならせてもらえば、
親の幸せは子の幸せの上に乗せてもらえるのです。
子供が不幸だったら、絶対に親は幸せになれません。
子供の幸せの上に親の幸せを乗せてもらえるのですね。

そして、自分が苦しいから、自分が辛いからといって、
「先祖さんに一生懸命供養したら助かる」と
思って拝む方があります。
あれは本末転倒、反対です。
私たちは子供の幸せの上に親の幸せを乗せてもらうように、
私たちの幸せの上に先祖さんの幸せを乗せることができるのです。
「先祖供養」は、まず私たちが救われないと、
先祖さんを救うことはできません。
自分が幸せになってこそ、
その幸せの上に乗せることができるのですね。
幸せを乗せる、自分の幸せによって先祖さんに
幸せな思いを与えられるということは、
先祖さんが救われることになるのです。

あるお宅へ、これも困ったお宅へ寄せていただいたのですが、
大きなお宅です。
もう、奥から十畳十畳八畳六畳と四つぐらい並んでいるのです。
その奥から二番目の部屋ですか、仏間がありまして、
立派な仏壇が祀ってあるのです。
そこで足の不自由なおばあちゃんが拝んでいるのです。
そこの当主の方は脳血栓で半身不随、おばあちゃんは足が悪い。

私は一番奥の間へ通していただいて、
そこで話しを聞いておりましたら、
そのおばあちゃんが隣の部屋で一生懸命拝んでいるのです。
「ご先祖さん、私の息子の不自由な身体をどうぞ治してやって下さい。
それから、私の足もどうぞ治して下さい。

それから、孫の誰やらもこんなことで困っております。
どうぞ助けてやって下さい」と、何と頼むこと。
そればっかり唱えて、一生懸命一時間拝んでおられました。



明来闇去

2021-03-29 00:29:17 | 明来闇去

     恩師のご著書「思いの中に生きる」より

        「先祖供養」について(その1)


先の続き・・・

      「戒名」について

今日はお坊さんはお見えになっておられませんね。
お坊さんの営業妨害になったら叱られますので。
夕べですが、「戒名」についてテレビで言っていましたね。
お寺さんが戒名いくら、お布施いくらと決めるのは、宗教上ちょっとおかしい。
だから、宗教法人への税金を考えないといかんということがニ
ュースに出ていましたね。

まるで商売。
或る方は言われました。
お寺さんに行きますとメニューみなたいに、「この戒名やったらいくら、
これやったらいくら、どれにしますか」言うて、
見せてくれはるそうですね。
「戒名のメニュー」です。

しかし、いくらいい戒名をつけても、
それは亡くなった方には何の関係もないそうです。
わからないからです。
その証拠に、あの世の霊の方と数え切れないほどお会いさせてもらって
お救いさせていただきましたが、
そういう方は皆、戒名は何にもならんとおっしゃいます。
そして、呼び出す場合に戒名を呼んだら出てきません。
自分のこととわからないんですね。

俗名を呼んだらすぐに出てきます。
「おい、はっつぁん」と言ったらすぐ出てきます。
「おい、熊さん」と呼んだらすぐ出てきます。
常に一番親しい自分の呼び名を覚えているんですね。
だから、戒名なんか呼んでも出てこられません。
そのようになっております。


明来闇去

2021-03-28 00:43:13 | 明来闇去

   恩師のご著書「思いの中に生きる」より


         「先祖供養」について(その1)

先の続き・・・

というのは、私には私のお父さんそしてお母さんがいてくれました。
そのお父さん・お母さんにはまたそれぞれお父さん・お母さんが
おられるはずですね。
そのお父さん・お母さんにもまたそれぞれお父さん・お母さんがおられます。
そのようにして、三代、四代、五代、六代、七代、八代・・・
三十代溯りますと十憶のご先祖様(2の30乗=1,073,741,824)、
わずか三十代前で十憶を

超えるご先祖様のご縁をいただいているということです。
じゃあ、十憶以上の数え切れないご先祖様になんぼ大きな丼茶碗を
もってきましても、そりゃ足りません。
また、どれだけ大きな丼茶碗に御飯を装ってお供えしても、
一粒ずつもあたらないのです。
そして、そんなもので成仏はできないのです。

以前に、地獄に八百年も迷うておられる方が出てきました。
その方に、「八百年の間にあなたの子孫の方はあなたに
どれほどの経文を供養しましたか。
八百年間、あなたはどれほど経文の供養を受けましたか。
それによって救われましたか」と聞きますと、その霊が言われましたね。
「あれは何もならんのう」。「どうしてですか」と聞きますと、
「意味が難しゅうて訳がわからんわい」お経の意味が
わからんとおっしゃった。

だから、いくらお経をあげても何にもならないのです。
また、お茶も聞きました。
「あなたが所望されたら、子孫の方はどれほどのお茶を献じましたか。
お茶によって救われましたか」と言いますと、
「いや、救われない。満たされることができない」とおっしゃった。
それは、いくら供えてもらっても満足できないのです。

その時、「ああ供えてくれたなァ」という一時の心の納得というか、
供えてくれたという思いはあるのですけれども、いつまでたっても
満足を得ることはできません。
また供え物についても聞いてみました。

「今日までに、どれほどの供え物を子孫の方はあなたに捧げましたか」。
しかし、それによっても満足は得られなかった。
戒名なんかはけっさくです。
「よき戒名を付けられたでしょう」と聞きますと、
「あれは何もなっておらん」。
「どうしてですか」と聞いたら、「わしが死んだ後のこと、わしゃ知らん」
こう言われました。

だから、ご先祖様にお茶を供え、炊きたての御飯を供えるのは、
「ご先祖様の
お陰さまで、こうして今日も熱いお米の御飯を頂戴できます」と言って、
感謝の気持ちを形として表したものです。
それが本当のお供えです。

そうでなくて、「ご先祖様に食べて下さい」と言って供えたらいけませんよ。
ご先祖様も難儀されます。
取り合いして、「俺の飯もうないわ」必ずそうなると思います。
お茶もそうです。
しかし、極楽へ行くと「御飯、お茶」と言えばすぐに出てきて、
何も不自由しないのです。
本当の帰るべき世界・正しい教えというものを知っておりますと、
そんな供物はいりません。


明来闇去

2021-03-27 00:30:54 | 明来闇去
 
  恩師のご著書「思いの中に生きる」より

            「先祖供養」について(その1)


ある宗教はご先祖様を大事にすることを強調しています。
これはいいことですね。
ところが、仏壇の中へご先祖様のとまっていただく位牌、
先祖様のとまり木を作らなければならないといっています。
これはご先祖供養の本当の意味が理解されていないのです。
もし、私たちがこの世を去りまして、

仏壇の中の位牌のような所へとまってしまいますと、
成仏はできません。
とまり木、そんな所へとまらされたら大変です。
私たちは素晴らしい光輝く天上の世界、
光明燦然と輝く喜びと安らぎと調和に満たされた世界へ
帰ってこそ本当の成仏ができます。
それはこの三次元の世界とは全く質の違う世界ですね。

私たちはその世界からこの地上の世界へ自分の魂の
修行に出させてもらっています。
ですから、実践といいましても、ご先祖供養というと、
拝みなさい、ものを供えなさい、
護摩を焚きなさい、あるいはいい戒名を付けなさいと
いうことになりますが、

これらはあくまでも供養の手段でしかないのです。
では、目的は何かです。
極楽の世界へ帰ってもらうことこそ本当の目的のはずですね。
この世界に思いを残しますと、その思いによって
自分の心がその場所にとどまります。

私は死んだら仏壇の中に祀ってもらう、あるいは、
このお墓の中に入れてもらうと思っておりますと、
必ずその場所に行ってしまいます。
その場所は極楽とはほど遠い場所です。
極楽は素晴らしい世界です。

その極楽へ帰っていただくことが、
私たちが先祖供養させていただく究極の目的のはずですね。
また、「慰霊(霊を慰める)」あるいは「鎮魂(魂を鎮める)」
「除霊」とかいろいろありますけれども、
「救霊(霊を救い上げる)」という言葉はあまり聞きません。
どの宗教もあまり説いておられませんね。

「救霊」すなわち霊を救い上げてしまうのが本当の供養の目的です。
それを知らなかったから、供えなさい、祀りなさい、
拝みなさい、ということになるのです。
ひどい所になりますと、あるお宅へ寄せていただきましたら、
お仏壇に、大きなお仏壇ですけど、
湯呑みが四十個も供えてあるんですね。
それにお茶を入れて、毎日お茶湯されています。

また、あるお宅へ行きますと、
大きな丼茶碗に何杯もお茶を供えてあるんです。
丼茶碗です。
「これ、何しているんですか」と聞きますと、
「これ、ご先祖さんにお茶を飲んでもろてますんや」とのこと。
なるほど大きな丼茶碗あるいは四十個の湯呑みをずーっと並べまして、
お茶をなみなみとついで供えていますけれども、
私たちのご先祖様はそんなに少なくないんです。


明来闇去

2021-03-26 00:07:58 | 明来闇去

      恩師のご著書「思いの中に生きる」より


          「結構の源やん」

思い替えの方法で一番参考になるのが、この『結構の源やん』の話しです。
今の東大阪に、名前は「源やん」、
渾名は「結構」という方がおられたそうです。
明治の初期だそうです。
この方はどんなことが起きても絶対に不足を言われなかった。
何が起きても「アア、結構やないか、結構やないか」と
おっしゃったそうです。
だから、「結構屋さん」とか「結構の源やん」という名前です。

で、ある年、毎日毎日雨が降り続いたそうです。
一カ月ほども降ったそうです。
その時代、「土方殺すに刃物は要らぬ。
雨の三日も降ればよい」といって、
三日間仕事ができなければ、
もう日雇いの人は食べられないような状態だったのです。
源やんの友だちの人たちが、
「さすがにあの結構の源やんもこれだけ雨が降ったら、
もう結構ってよう言わんやろなァ。

一回何て言うか聞きに行こうか」と言って、
源やんの家に行ったそうです。
「源やん居てるかーッ」と言って行ったら、
「ハーイ」と出て来られたそうです。
「かなわんなァ、こんだけ降ったら」と言いますと、その源やんが
「ああ結構やないか」とおっしゃったそうです。

「結構、結構やないか」というのは、
「有難いやないか」ということです。
「ああ結構やないか」。
「これだけ雨が降るのに何が結構や」と聞きますと、
「お前らよう考えてみい。
これだけ毎日毎日降る雨を、もし神さんが天で受けてくれはって、
そしていっぱいたまった三十日分をバーッと
一遍にぶっちゃけてくれはったら、
家も畑も田圃もみな流れてしまう。

こんなに毎日しとしとと分けてよう降らしてくれはったもんや」と
言って喜ばれたそうです。
世間の人は皆「かなわんなあ、かなわんなあ」と言っているのに、
そのお方はさすがに「何と結構やなァ」と言われたといいます。
やがて、その方は東大阪一番の結構な人になられたそうです。
ものすごい結構な結構な、まあ大金持ちになられたそうです。
大阪で有名な話です。



明来闇去

2021-03-25 00:11:47 | 明来闇去

      恩師のご著書「思いの中に生きる」より


          「感謝する」とは

先の続き・・・

腹立つことも人間の心の苦しみですね。
いつもお話しします『心の砂袋』、私たちの心の砂袋、
その砂袋の材料です。
怒りとか、妬みとか、そしりとか、愚痴とか、あるいは恨んだり、憎んだり、
いらぬ取越し苦労したり、また不安とか恐怖。不安・恐怖は
あまり楽しくないでしょう。
あれは砂袋の材料です。

そして、そういうものを心の中へいっぱい詰めてしまいますと、
心が重くなります。
ところが感謝しておりますと、そういう砂が入ってこないのです、
自分の中へ。
感謝で心を満たしている限り、二つを同時に思えませんから、
ただ感謝だけですから、他のものが入れないのです。
ということは、自分の心が曇る量が少なくなるのです。
「有難い」「結構や」「何と幸せや」、
そういう思いを常に持ち続けたら
他の想念が入れませんから、
その人の感謝を続けた時間だけ幸せな時間が
与えられるということですね。

そして、心が「結構や、結構や、ああ結構やないか」といって
結構に満たされておりますと、
その人の感謝を続けた時間だけ幸せな時間が与えられるということですね。
そして、心が「結構や、結構や、ああ結構やないか」といって
結構に満たされておりますと、
こんどは肉体も結構になっていくのです。
肉体が結構になるということは健康になることです。
病気が消えていきます。

何故かと言いますと、「肉体の支配者は己の意識なり」と
説いていただいています。
自分の肉体を支配するのは、自分の心だということですね。
肉体の支配者は己の心。
その心が「結構や、結構や」と言っておりますと、支配者が
「結構や」と言っているから、
その家来である肉体も結構になっていくのです。
また同時に、今度は環境が結構になります。
環境が結構になるということは、商売は繁盛する、家の中はうまくいく、
そして人からかわいがってもらえる等です。

感謝ということはものすごい功徳があるということですね。
この功徳を説きますと、「ア、そりゃ現世利益や」と、
言われるかも知れませんが、
まあ何と言われようと構いません。
要は幸せになることです。
幸せになれない信仰、幸せになれない教えでしたらしない方がましですね。
そんな簡単なところに幸せになる「法」がちゃんと与えられていたのです。
それに気付くことができなかった。

この「法」とは、そういう真理、隠された真理が現象に現れるのです。
ですから、思いはこのように持たなくてはならない。
常に他を生かす、あるいは喜び・感謝の心を持つこと。
これを今様の言い方をしますと、プラス・マイナス、
プラス思考あるいはマイナス思考。
常に心はプラス思考、プラスの考えの方に向けておけばいいのですね。
マイナスの方に向けますと、やがてすべてがマイナスになってしまいます。


明来闇去

2021-03-24 00:23:24 | 明来闇去
  
 恩師のご著書「思いの中に生きる」より


             「感謝する」とは

「感謝」は自分の心を一切の魔から守っていただけます。
それはどういうことかといいますと、人間の心は二つの思いを同時に思う
ことはできません。
どんなに器用な方でも心は二つを同時に思えないように
神様がお作りになったのでしょう。
心を分析しましたら、心というものは必ず一つずつしか
思えないようになっています。
瞑想又は精神統一されたらよくわかるでしょう。
「一度、心を統一しよう」と思って坐ってみて下さい。
心はたちまちコロコロと転げ回ります。
まるで山野の猿の如く飛び回るものです。

ところがよく考えてみますと、必ず一つ、一つずつを思っています。
禅定して、「今日は心を統一して禅定三昧に入ってみたい」と思っている時、
誰かが下駄の足音をカタカタと鳴らして通ったとします。
「ああうるさいなあ」「今の下駄の音は重そうだからたぶん男だろう」
「あれは大分よく肥えた人にちがいない」「どこの人かなあ」
「今頃、何をしに来たのだろう」・・・・もう次から次へと休むことを知らず
思いが飛び回りますが、必ず一つずつだけ思っています。
「ああ悲しい、ワッ嬉しい」この思いを同時に思うことはできません。
また、怒り狂いながら心に安らぎを持つこともできません。
必ず一つずつだけを思っています。

ということは、「ああ有難いなあ」、「有難いなあ、結構やなあ」と
思っておりますと、
その思いだけしかできないはずです。
それでは、もし一日のうちの十分間「ああ有難いなあ、結構やなあ」
「ああ有難いよ」と持続できますと、
この十分間は、他の考えは入れないです。

ということは、今日という日の一日の中で十分間が
心安らかだったのです。
では、一時間「ああ結構やなあ、結構やなあ」と言って
感謝の念を持ち続けたら、
今日という日の一時間は幸せな時間が保つわけですね。
じゃあ、もう一日中「結構や、結構や」と言って暮らしたら、
今日という日が、
幸せ以外の思いが入らないから、幸せだったはずですね。
して、その積み重ね、今日一日「結構結構」と言って暮らし、
また明日も
「結構結構」と言って暮らしますと、また明日も幸せな一日。
二つを同時に思えないのですから。
この積み重ねが幸せな人生になるはずです。


明来闇去

2021-03-23 00:17:06 | 明来闇去

恩師のご著書「思いの中に生きる」より


           許しについて

先の続き・・・

許すことのできない人を許したときほど、
自らの心の喜びが大きくなります。
許せないから、私たちはよう許さなかったのですね。
しかし、許さない限り自分自身が許されないんです。
相手を許すのではない。
許させていただくんです。
心の底から許させていただいたとき、その人を見ても、
その人のことを思い出しても、
縁に触れても、もう腹は立ちませんが、許しておりませんと、
普段は忘れております。

しかし、その人のことを聞いたり、
あるいはその人のことを思い出すと、また
顔を見たりしますと、
「あの人はあの時えらいめにあわせやがった」いって、
その時の苦しみがそのまま再現されるんです。
即そのままその苦しみが自分の心の中に蘇ってきます。
だから、死んでももっていかなければなりません。
人は誰でも過ちを犯します。
自分も犯したはずです。

その犯した自分が許していただいて生きさせてもらっています。
では、人の過ちも許させてもらって当然です。
それは相手を許すと思うから許せないのです。
「許すことによって自らが許していただける」ということを知った時、
恨めしい方・憎い方・腹立つ方を許すことによって、
自らがその怒り・憎しみから
解放されます。
だから許すのではない。
許させていただくことです。

許さない限り、その苦しみは死んでも、
もっていくことになります。
出来事は今を境としてすべて過去へ過去へと
過ぎていくものですね。
今日のこのお話も明日になれば、
もう昨日という過去へ過ぎ去っていきます。
喜びとか、あるいはこういう場所で心安らいだ時間は、
自分の心の中に大切に
しまっておいても結構ですけど、

怒りや憎しみや恨みのそういう苦しみはもう過去へ
過ぎ去っていったものですから、
一時も早く自分の心から離すこと、
嫌なものはできるだけ早く捨てることですね。
その時、荷物が少なくなります。

たくさんの荷物を背負うておりますと、
やがて絶対私たちが避けることのできないあの世への旅ですね、
その時にその荷物の重さによって、まず、
三途の川で沈没を起こします。
荷物は軽い方が結構です。
今こうして健康に生きさせていただいている間に、
できるだけ荷物を軽くしていきたいと思います。


明来闇去

2021-03-22 00:14:15 | 明来闇去
 
 恩師のご著書「思いの中に生きる」より


                 許しについて


皆さんが、縁ある方はすべて幸せになってほしい。
また幸せにならなくてはならないのです。
すべての人は幸せになる権利をもっているはずです。
神から平等に与えられ、
しかも神は「幸せになれ、健やかに生きよ」と言われます。
もし自らの心を自ら苦しめますと、それは神を冒瀆し、
神に背いた行為だと思ってください。
自分の心を苦しめてはいけません。
自分の心を大事にすることです。

そして、自分を大事にするが如く、
自分がいとしいように他の方も自らをいとしいのです。
ですから、自分を大事にする如く他を大事にしなさい。
自分を大事にするといっても、
何もしないで「アア、かわいい、かわいい」と
自分のことばかり考えて人のことを思わないのであれば、
これは大事にしていないのです。
「かわいいなあ」こんなことをしていたら自分を甘やかし、
自分を本当に愛していない。

自分の心を苦しめることは、
怒り・妬み・謗り・愚痴・恨み・憎しみ・取越し苦労・
不安とか恐怖とか貪欲。
これこそ私たちの心の苦しみ、自ら苦しむ原因で
あることがわかりますと、
万難を排してでもこれらの想念を捨てることですね。
その時、幸せが約束されるはずです。
そしてご奉仕、隣人にたださせていただくだけの愛の実践、
そして過去の許し難い人を許すことです。



明来闇去

2021-03-21 01:00:27 | 明来闇去

~ 恩師の御著書「思いの中に生きる」より ~


         恩師のオリジナル
               「神の御心」 


   いとしきわが子よ いとしきわが子よ
   そなた達は 幸せに生きよ 健やかに生きよ
   己れ自身を 苦しむることなかれ
   己れを愛し 己れを愛するが如く 他を愛せよ
   汝らの 喜びは 我が喜びなり
   汝らの 苦しみは 我が苦しみなり

   いとし子よ 自らを苦しむることなかれ
   汝らは我がいとし子であることに目覚めよ
   自らの神我に目覚めよ
   我は愛ゆえにそなた達を 形として現せし
   厳しき現象界に旅立たせし者なり
   いとおしきが故に 旅立たせし者なり
   いとし子よ そなた達が この地上に 
   肉の身を持ち旅立ちし日より
   今日までをよく振り返り見よ

   我が心と 汝らの心と想念行為を照らし合わせよ
   もし我が心と離れし箇所に気付かば それを悔い改めよ
   その時 汝らの魂は清まれり
   我が与えし その肉の身を持ち
   我が思いを この地上に示し現せよ
   我が心を地上に具現せよ
   汝らは 我がいとし子なるが故に
   我は汝らの父なり 父は唯 子の幸せを願う
   自らを浄め 自らを高め 自らの神我に目覚め
   我が胸の中に帰るべし
   我は唯 汝らの帰りを 待ち望むものなり