りなりあ

番外編 12 4/7 UP 
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指先の記憶 第四章-42-

2013-08-12 19:20:41 | 指先の記憶 第四章

意外にも、母は仏壇に手を合わせた。
見覚えのある包装紙は、裕さんが渡してくれた和菓子の店。
仏壇の前に座った時間は、それほど長くなかった。
和室を出て振り返った母が、とても深く頭を下げた時間のほうが長かった。
兄は、そんな母を戸惑いながら見ていた。
自分よりも背が高い息子に手を伸ばした母は、その頭を優しく撫でる。
兄が、とても幼い子どもに見えた。
この2人は親子なのだと他人事に感じ、私も家族なのだと実感することは出来なかった。
門を出て母が桜の木を見上げた。
「今度…アトリエに入っても良いかしら?」
使用する人がいない場所だから、アトリエは父が亡くなった時のままだ。
換気や掃除はしているから、いつでも入ることができる。
そう告げると、母は首を横に振った。
「来年…桜が咲く頃に。今日は裕君と雅司と会うから」
父の事を先生と呼ぶ母が、ゆたかくんと呼んだことが、とても不思議だった。
私と兄は、階段の上で母と叔父を見送った。
私達は緊張していたのか、2人で同時に長い溜息を吐き出す。
「混乱して泣き続けると思っていたのに」
兄は何度か母が突発的に混乱するのを見てきたようで、父の死に直面するのは無理だと言っていた。
「実感が、ないのかもね。時間が必要なのかも」
「そうだな」
少しずつ動いているのは確かだ。
それが前進か後退か変化か。
良か悪かは分からないけれど、今は出来ることをするしかない。
玄関に戻ろうとしたら、階段を駆け上がる音が聞こえ、振り向くと叔父だった。
「アトリエだけど」
叔父が呼吸を整える。
「準備しなくちゃいけない」
「準備?掃除しているよ?」
「その準備じゃなく、えっと…健吾さんの桜の絵…好美ちゃんが手を加えてしまった…」
「私の落書き?あれは見せないほうが良いよね?」
「必要なんだ」
「え?」
「修正、出来るどうか相談して連絡するから。あ、この事は姉さんには内緒」
そう言うと、叔父は慌てて階段を下りて行く。
「お兄さん」
隣に立つ人を呼ぶ。
「用事増やして、ごめんなさい」
兄が宥めるように私の頭を軽く叩いた。

◇◇◇

昼休みになり、お弁当を机の上に置いた私は教室を見渡した。
どうしようかと考え、隣の席に椅子を寄せるクラスメイト達を見る。
「あの」
3人は不思議そうに私を見た。
「お弁当…一緒に食べても良い?」
少しだけ沈黙。
そして1人が笑顔を向けてくれた。
「先輩達、今日から修学旅行だっけ?どうぞ」
残りの2人も笑ってくれた。
私はホッとして嬉しくて、視界が少し揺れた。
晴己お兄さまの胸で泣いたのをスタートにして、私の涙腺は緩みまくっている。
「…ありがとう」
クラスメイトとお弁当を食べるのは久しぶりで、断られたらどうしようと考えると、凄く不安だった。
「…姫野さんの、お弁当、凄いね」
3人が目を丸くしている。
松原先輩に事情を話した翌日、学校全員が私と兄の関係を知っていた。
誰も直接質問して来ない。
松原先輩は和穂をとても褒めていた。
でも、和穂の指示を受けたのは松原英樹ファンクラブの面々だから、本当に凄いのは先輩だと教えてあげたい衝動に駆られるくらい、松原先輩は自分自身を評価していない。
「うん…兄が作ってくれるから」
「え?須賀君が?」
「…うん…兄は無駄に感じるくらい器用なの。良かったら、どうぞ」
私だけのお弁当ということで、今朝の兄の張り切りようは気持ち悪いくらいだった。
自分の分は、大量の肉を炒めていたり、かわいくもなんともないお弁当を兄は食べているようだ。
私の好物だけを入れたお弁当は、兄の想いが強すぎて若干食欲が失せる。
「ほんと?いいの?」
「うん。味は絶大の自信を持って保障できるから」
味見をした3人が、また驚いた顔を向ける。
「うん…確かに」
「ちょっと無駄、かも」
「…イメージ壊れた」
兄にクラスメイトとお弁当を食べた話をしたら、翌日は更に凄いことになっていた。
動物園かと間違うような光景に、頭が痛くなる。
可愛いおにぎりや、お花が咲いたトマト。
見た瞬間、昨日と同じメンバーで固まった。

◇◇◇

絵里さんが帯を強く締めた。
「無理無理無理。ごはん一緒に食べるみたいだし、緩くしてください」
「良い練習の機会でしょう?姫野の本家に行く時は、好美ちゃん、もっともっと大変なのよ?この程度は慣れないと」
最近は絵里さんが私の家に通ってくれている。
車で来れるようになったし、麗子さんから直接依頼されたからと、絵里さんの張り切る姿は怖いくらいだ。
今の状態の私では麗子さんと響子さんのお父さんに会うのは絶対に無理だと皆から言われている。
私に立ち居振る舞いを教える先生は、全員一致の意見で絵里さんだった。
近々、桐島家の方達に会うことになっている。
兄と私。
桐島太一郎氏と、その妻。
賢一君と明良君、そして杏依ちゃん。
裕さんの兄姉は同席しないことになった。
雅司君を支えていくのは、彼から見た伯父伯母ではなく、従兄姉と私達兄妹だと太一郎氏は考えているらしい。
私は、その考えにとても共鳴した。
頑固爺と聞いているけれど、私は桐島太一郎に会うのが、とても楽しみだった。

◇◇◇

杏依ちゃんの父方の実家である料亭を訪問したのは、少しずつ木々に赤みが混ざり始めた頃だった。
何度も練習した通りに桐島太一郎夫妻に挨拶をした。
とても緊張した。
でも、私以上に緊張しているのが太一郎氏だった。
食事を終え、美味しいデザートを食べている時に、私は太一郎氏に笑顔を向けた。
「祖母に似ていますか?」
戸惑い、そして太一郎氏は頷いた。
そして、私を凝視した。
杏依ちゃんが、そんな太一郎氏を咎めているが、私は気にせずに彼を見つめ返した。


指先の記憶 第四章-41-

2013-08-10 13:43:05 | 指先の記憶 第四章

全部、そう言われて驚いた。
「康太は、もうちょっと力を抜け。今までは大変だったと思うけど、これからは、ひとりで背負うな。」
『康太君は、もっと人に頼っていいと思う。』
杏依ちゃんと同じだった。
「俺達、そんなに信用ないか?」
『私の友達、信じてあげて。』
兄が、まるで子どものように首を横に何度も振る。
「姫野。」
松原先輩が私の前に膝立ちした。
少しだけ、私が見下ろす状況になる。
「ごめんな。ここでさ、香坂は関係なく、2人は俺の後輩だからって言えれば格好良いと思うけど。正直、俺…そこまで根性がない。」
私は小さく首を横に振るのが精一杯だった。
杏依ちゃんの名前を出した私が卑怯なのに、松原先輩は私を責めない。
「あんまり泣くと、また腫れるぞ。」
「だって…松原先輩が格好良いから。どうして杏依ちゃんは晴己お兄さまと結婚したのかな…松原先輩が優し過ぎるから、だから取られちゃうんです。」
ポトリと涙が床に落ちる。
「それだけ言えれば元気だな。」
松原先輩の手が、また少し乱暴に私の頭を撫でて、心地良いと思っていたら。
「うぎゃっ!」
背後から手が回ってきて、私の涙が止まる。
「英樹、触り過ぎ。」
「はいはい。」
松原先輩が立ち上がる。
「康太さ…これ、兄として黙認するのか。」
「別に、どうでも良いです。」
「…じゃぁ…昼、食べに行くか。」
「はい。」
そう言って、松原先輩と兄は部室を出て行った。
兄として、これは止めるべきだと思う。
「弘先輩…お弁当、食べませんか?」
「もう泣かない?」
「はい。泣きません。」
泣くと、また弘先輩が突拍子もない行動を起こしそうだ。
「哲也さんに会った?」
弘先輩の腕の中で身体を強張らせたのが答えになってしまった。
「哲也さんの前でも泣いた?」
「弘先輩。お弁当、食べませんか?」
弘先輩の腕が離れて、私はそこからゆっくりと抜け出た。

◇◇◇

授業が終わり、部活に行く前に私と兄は担任に報告をした。
教師2人は自分達のクラスの生徒が簡潔に話す家庭の事情を少し戸惑いながら聞く。
両親が離婚し、兄は母に私は父に引き取られたこと。
私に幼少時の記憶はなく、この三連休で兄の存在を知ったこと。
学校への報告は、これで充分だと思った。
そして、私達は新堂晴己の連絡先を追加する。
それが新堂晴己の出した条件だった。
でなければ、2人とも桜学園に転入させると言われた。
部活に行くと、既に松原先輩が事情を説明した後だった。
瑠璃先輩は、驚いたけれど納得したと何度も頷いていた。
部活を終えると、和穂が待っていた。
明日の授業が始まるまでに噂を広めるように、俺には出来ないことが多いから協力して欲しい。
和穂は松原先輩に、そう言われたらしい。
直接私から話せなかったことを謝ると、兄とデートさせてと、冗談を込めて言われた。

◇◇◇

母の細い身体で階段を上るのは無理だろう、そう思っていたのに、2人は車で来なかった。
会うのは兄が住む家。
離れも母屋も、そして仏壇に参ることも、母には強要できないと兄と話した。
母が会いに来てくれる、それだけで充分だった。
以前、母に会うことが出来たら、私は「おかえりなさい」そう言うと決めていた。
でも、今、母が帰る場所は、ここではない。
待っているのも落ち着かず階段を下りる。
表の門に反して、階段の下の門は長年開いたままだった。
錆付き、枳殻が絡む門は、今は綺麗になり本来の役目を取り戻している。
門の前に立ち、母達が歩いて来る道を見る。
時々立ち止まり叔父を見上げて、今にも引き返しそうな姿。
その姿に、私は両手を大きく振って自分の存在を示した。
私に気付いた母が歩く速度を少し速めてくれたことが嬉しかった。
「好美ちゃん…」
一週間前に会った時と同じように母は私を呼んだ。
兄が言うには、母は昔から私を好美ちゃんと呼んでいたらしい。
「お母さん、疲れていない?階段大丈夫?」
何度も練習した、おかあさんという言葉は、たぶん上手く言えたと思う。
「そうね…久しぶりだから…どうかしら?好美ちゃん。高校1年、よね?」
頷く私を見て、そして母は階段を見上げる。
「私ね…初めてこの階段を上ったのが高校1年の3月だったの。」
私も階段を見上げた。
「桜が満開で」
今、母の脳裏には桜が咲いているのだろう。
「その日、初めて健吾先生に会ったの。」
とても懐かしそうに、とても嬉しそうに母は微笑んだ。
「…お母さんが好きな階段の上の桜…毎年綺麗に咲いてる。」
雅司君が伝えてくれた。
私は知らなかったから、ただ毎年見上げるだけだった小さな桜の花。
「来年…見に来てくれる?えっと…オジサンと呼ぶのは失礼なくらい若々しいけど…どう呼べば良い?」
叔父を見上げて問う。
「実際にオジサンの年齢だから構わないけど。」
仕草も口調も声も、男性だった。
「そうだ。自己紹介しなきゃ。」
私は叔父の前に立つ。
「はじめまして…って事になると思うから。えっと…和歌子の娘の姫野好美です。母がいつもお世話になっています。」
そう言って一礼した。
直後、頭上から小さな笑い声。
顔を上げて叔父を睨む。
「ちょっとぉ…そこで笑う?」
「ごめんごめん。」
「そりゃ…私もお世話になっていたけれど。」
「それじゃ、僕も自己紹介。」
風貌は変わっていても、その瞳は変わらない。
私達親子を、長い間、一番近くで守ってきてくれた人。
「はじめまして。和歌子の弟の須賀雄作です。」
差し出された手の爪には、以前のようにキラキラとしたマニュキュアは塗られていない。
重ねた手を見て、そして叔父を見上げる。
きっと、ここから新しく始めることができる。
そう感じた。


指先の記憶 第四章-40-

2013-08-08 21:38:51 | 指先の記憶 第四章

教室に辿り着くまで、辿り着いてから、授業が始まるまで、そして先生も。
何度も、姫野さん?と問われた。
束ねることが可能な程度に短くなってしまった私の髪。
長めの前髪は、眼鏡をかけた目元を少し隠している。
「髪を切りました。目が腫れているから眼鏡です。」
何回も、その言葉を繰り返した。
昼休憩になり、兄は松原先輩と部室に入り、私と弘先輩は外で待っていた。
瑠璃先輩にも話したかったけれど、由佳先輩も一緒というのは杏依ちゃんのアドバイスからは外れてしまうから、松原先輩に全てを頼ることにした。
部室に入るように言われて弘先輩と中に入ると、とても心配そうな瞳で松原先輩が私を見ていた。
「姫野。大変だったな。部員達には俺が説明するから、姫野は今まで通りで大丈夫だから。」
大きな手のひらが、頭の上に置かれた。
弘先輩と何が違うのか良く分からないけれど、ちょっと荒っぽい感じの手つきは、中学生の時に見ていた松原先輩のイメージそのままだった。
でも、彼には意外な一面があることを、ファンクラブの皆は知っている。
堂々としていれば格好良い人なのに、感情的になってしまうところとか、無謀な事も引き受けてしまうところとか。
忘れ物をした杏依ちゃんの為にマンションに戻り、それを杏依ちゃんには平然とした顔で渡した後、窓の外に座り込んでしまったり。
私達は、たぶん、香坂杏依を好きな松原先輩に憧れていたのだと思う。
「ありがとうございます。松原先輩に、そう言っていただけると、とても心強いです。」
眼鏡越しに松原先輩を見上げると、私の頭を撫でる手首が弘先輩に掴まれた。
「弘…あのさ…そういう嫉妬やめろよ。」
「英樹は姫野さんに触り過ぎ。」
「…これの、どこがだよ。」
弘先輩は私から眼鏡を取り、自分のポケットに入れる。
そして、私の前髪に触れる。
「英樹は、姫野さんのこと、誰かに似ているって言っていたけれど。」
弘先輩は楽しそうだった。
「近所で飼っていた子犬だ!って納得して喜んでいたけど、違うと思うよ。ほら。似てるよね?」
子犬という表現を気にしていると、弘先輩は私の両肩に手を置き、松原先輩の前に立たせた。
松原先輩の表情が少しずつ変化する。
嫌そうに私を見てくれれば良かったのに。
松原先輩は違った。
瞳に黒い影が落ちる。
戦っている、葛藤している。
新堂晴己の親族だと分かった私に対して、今まで通りに接するのだと、自らに彼は言い聞かせている。
松原先輩の気持ちは現在進行形であることを、私は感じ取ってしまう。
弘先輩は、その事を知らないのだと思う。
松原先輩の言葉を、由佳先輩の言葉を信じて…違う、逆かもしれない。
弘先輩だからこそ、松原先輩の心から杏依ちゃんが消えることを望んでいるのかもしれない。
「松原先輩。」
私は前髪を上げると、ピンで留めた。
サイドの髪も留めた。
目の腫れは、まだ少し残っている気もするけれど、顎のラインなどは晴己お兄さまとは似ていないらしいから、きっと大丈夫だと思う。
「私、部活続けても良いですか?」
問うと、松原先輩は驚いたように私を見た。
「当たり前だろ。」
そう答えてくれるのも、私は予想していた。
ごめんなさい。
何度も心で繰り返す。
松原先輩の協力なしで学校生活を送る自信は、私にはなかった。
「松原先輩」
話して良いのかどうか分からない。
ちゃんと、まだ話し合っていない。
兄に確認するだけでなく、杏依ちゃんにも確認しなくちゃいけない事だけど。
「私達、弟がいます。」
見上げた先の松原先輩が、目を細めた。
「雅司君には会った事があるから。康太の弟は姫野の弟だろ。」
「私達とは父親が違います。」
ごめんなさい、それを何度も繰り返した。
酷いことをしようとしている。
寂しさから助けて欲しいと望んでいる。
哲也さんが叶えてくれなかった思い。
男の人には頼ってはいけない想い。
でも、目の前の人は、いつもいつも自分を抑える。
これから先も。
「弟の、雅司の父親は」
「やめろ。」
背後から兄が私を止める。
「姫野さん。雅司君のことは部活や学校には関係ないよ。だから英樹に話す必要はないから。」
弘先輩が私を松原先輩から少し離した。
昨日、弘先輩は裕さんと会っている。
雅司君の父親が裕さんだと知っているだろうし、裕さんの苗字も知っているはずだ。
「そうですけれど。でも隠し事したくないから。それに…親の存在を隠されるのは、子ども本人にとっては結構辛い事です。」
この言葉に、兄は私に何も言えなくなる。
私が母を知らなかった事は部活には何も関係ない。
「私達の母と雅司の父親は結婚していません。」
微笑んでいる自分が怖かった。
「雅司の父親は桐嶋裕さんです。」
空気の流れが止まった気がした。
長い沈黙だったような気がする。
「香坂は、知っているのか?」
沈黙の後、松原先輩は杏依ちゃんを心配する。
「はい。時々、桐島さんの家に泊まるみたいです。」
私は、その事について詳しく知らないから兄を見た。
兄は少し困っている。
「桐島の家の方達には、凄く親切にしていただいています。」
兄の言葉に、松原先輩の表情が緩んだ。
「桐島のじいさんは?あの香坂でも頭抱えてた時があるけど。」
「それが…俺も意外だったんですけど、雅司の事、凄く可愛がってくれて。」
「似合わねぇな。あのじいさんが可愛がるなんて。でも、香坂、喜んでるだろ?」
兄が頷いた。
松原先輩は、また杏依ちゃんを心配している。
遠くを見る瞳。
ファンクラブの皆の気持ちが良く分かる。
「康太。姫野。」
完全に私は松原先輩に見惚れていた。
「俺は出来る事が少ないけど。特に家族の事とか、そっち方面は頼れる人達いるだろうし。俺も香坂の結婚式で会った人が多いから、絶対に康太と姫野の気持ち優先して最善のアドバイスくれると思う。」
ボンヤリと松原先輩を見ていた私は現実に戻された。
「でも、学校と部活の事は全部俺に任せろ。」
驚いて松原先輩を見上げた。


指先の記憶 第四章-39-

2013-08-08 08:30:57 | 指先の記憶 第四章

連休の最終日。
この3日間、様々な出来事があった。
動揺や衝撃や戸惑い。
現実を認めるとか認めないとか、そんな感情的なものではなく、ただ、事実を知り対応していく、それだけだった。
でも、今、私は拒絶したいと思った。
他人だと思っていた人達に血のつながりがあると分かり、1人ではないのだと知った事は、少し嬉しい気持ちもあった。
でも、弘先輩から父の名前が出たのは、恐怖に近かった。
「好美ちゃん?」
部屋がクルリと回転した。
限界だった。
眠さと頭痛。
座っているのも無理だった。
「また改めて、この話はするから。ごめん、康太、響子さん…姫野さんを休ませてあげて。」
動揺する弘先輩の声は、少し珍しかった。
手を伸ばして弘先輩を引き止めようとして、私は自分が畳の上に倒れてしまっていることに気付く。
目を瞑れば、このまま眠れそうな気がした。
拒絶の気持ちがある、でも弘先輩が帰ってしまうのは嫌だった。
「…弘先輩」
伸ばした手を弘先輩が受け止めてくれる。
「どうして」
力が入らなくて落ちそうになる腕を弘先輩が支えてくれる。
「知っているんですか?」
動くと眩暈が強くなった。
「姫野健吾ですか?それとも」
もし姫野健吾を知っているのだと弘先輩に言われたら、私は全てを恨みそうだった。
祖母を父を。
自分自身の存在を。
そして姫野を知っていた弘先輩を。
「寺本…健吾、ですか?」
私の傍に座った弘先輩が、私の手の甲を優しく撫でる。
「健吾先生の本名を知ったのは昨日なんだ。」
その言葉に安堵して、私はそのまま眠ってしまった。

◇◇◇

翌朝、鏡の中の私は酷い顔をしていた。
目が腫れているとか、そんな次元ではない。
まぶたを温め、お風呂にも入り、顔のマッサージを響子さんにしてもらう。
出来る限りのことはした。
「休む休む休む。こんな顔で行きたくない。」
朝食を食べながら兄に訴えるが聞いてくれない。
「ねぇ、響子さん。こんな顔を見せるのはダメでしょ?」
先週とは制服の感じも髪型も違う響子さんに問う。
「お昼過ぎには治るわよ?ゴメンね好美ちゃん。私、今日の朝が勝負なの。姫野で通うから、隙とか見せたくないのよね。」
「だったら既に姫野の私が、こんな風に酷いのは」
「弘先輩、来てくれたぞ。」
兄の声に驚いて私は玄関を覗いた。
「姫野さん大丈夫?」
顔を隠す私に弘先輩が問う。
「…昨日はごめんなさい。それから、今日もごめんなさい。学校行けないので」
「行かないで、どうするんだよ。松原先輩達に話すのは俺だけど、休んでいたら余計に気にするだろ。」
兄が和室から叫ぶ。
「姫野さん。具合悪い?」
兄を無視しようと決めた私と同じように弘先輩も兄を無視した。
「具合は、大丈夫です。でも目が腫れていて、嫌。」
俯いていた私の前髪を、弘先輩は遠慮のない動きで触る。
短くなった髪は、昨日急にお願いした状態だったから、今夜手直しすると響子さんが言っていた。
少し長めの前髪をおろすと、ちょっとだけ腫れた目を隠すことが出来る。
「…眼鏡、ですか?」
「誤魔化せると思うよ?でも、ちょっと英樹がショックかも。前髪の癖…新堂さんと同じなんだね。」
更に今日は、松原先輩に酷いお願いをしなくちゃいけないんです。
それを言えずにいたら、杏依ちゃんの言葉を思い出す。
私は、まだ弘先輩に何も話せていない。
玄関に座り込んだままの私の隣に弘先輩が座る。
「弘先輩。」
何を話そう。
何から言おう。
頭の中がグルグルとしている。
「あの…私」
簡単にまとめすぎだけど。
「須賀君の…妹だった、みたいです。」
弘先輩が私の前髪を触る。
腫れた目を見られるのは嫌なのに。
「過保護なお兄さんだから大変だね。」
弘先輩は、少しも驚いた表情を見せなかった。
「えっと…うん、そうです。鬱陶しいです。」
背後から腕が伸びてきた。
「お弁当どうしますか?」
ちょっと怒った兄の声。
「いただきます。」
弘先輩がお弁当を受け取る。
私も受け取って後ろに立つ兄を見上げた。
「遅れるなよ。」
学校へ向う兄を見送り、私達も出なければと考える。
でも、まだ少し時間がある。
「弘先輩。私、まだスケッチブック見ていなくて…あの、父は何処で弘先輩のスケッチブックに絵を?」
「ここ。」
「え?」
「正確には…母屋というかアトリエ?健吾先生の仕事場って、ある?」
「あります。」
「そこ…かな?僕もあまり覚えていないから。僕の親戚で絵の仕事をしている人がいて、何度が連れて来て貰ったみたいなんだ。今は記憶が繋がってきている感じかな。」
私は昨夜眠ってしまう前の自分の感情を思い出して、再びホッとした。
「ちゃんと説明できないけど、これで良かった?家族に聞けば、もうちょっと色々と分かると思うけど、ごめんね。まだ聞けていない。」
「充分です。弘先輩の親戚の方が仕事で私の父と、ってことですよね?ということは、私達は他人ってことですよね?良かった。何人もの人から親戚とか言われて、弘先輩もって考えると、最悪でした。」
弘先輩の動きがピタリと止まって、そして笑った。
「そうだね。僕が康太や新堂さんの立場だったら、世の中の全てを恨んでいたと思う。」
「そうですよね。」
私は嬉しくて、本当に久しぶりに笑顔になった。
でも、弘先輩が首を傾げる。
「姫野さん。4月まで待たなくても良いってことなのかな?」
問われて私は視線をそらした。
「かばん…取ってきます。」
4月までの期限はなくなってしまった。
弘先輩と他人で良かったと心から思った。
だから、この気持ちに答えを出さなければいけない。


指先の記憶 第四章-38-

2013-08-06 01:04:38 | 指先の記憶 第四章

弘先輩が描く桜は、綺麗に花びらを広げていた。
散っていなかった。
雨は降っていなかった。
初めて弘先輩に会った日の桜とは、違う。
その絵は、蕾が開いた暖かい春の日の桜。
「…姫野さん?」
弘先輩は立ち上がると、台所へと向った。
響子さんが和室に姿を見せて、慌てて私に駆け寄る。
「好美ちゃん、どうしたの?」
私は響子さんに抱きついて、この2日間で最大の涙を流す。
「…来年は咲くの?」
きっと毎年咲いていたはずだ。
表の庭は、春になると桜が満開になる。
祖母が表の門を閉じてしまってからも、桜は春を告げていたはずだ。
でも、私が庭の桜を見たのは、遠い昔。
須賀の家で見た両親との写真に写る桜は、荒れた庭に閉じ込められた状態だった。
棘のある枳殻が私を遠ざけていた。
生い茂る草木を覆うように枳殻が庭への進入を防いでいた。
「春までには充分に手入れは間に合うわ。一緒に花見をしましょうね。」
響子さんが優しく私に説明をしてくれる。
「枳殻…。」
「あぁ、あれね。手入れして綺麗な生垣になるわ。」
「新堂さんの家…みたいに?」
「そういえば、あったわね…枳殻。」
「棘…」
「好美ちゃん?」
新堂邸の生垣は枳殻だった。
近付くことなど出来ない、棘。
右手で首に触れると、生々しく思い出す感覚に体が震える気がした。
おじいちゃんに似ていると感じて心地良かった指先は、ゴツゴツとした硬い指先だった。
「怪我…してた…」
手のひらの怪我は枳殻の棘が原因なのだろうか?
握ったとしか考えられない状況に、哲也さんの行動が怖くて、この家に来て、そして1日で長距離を往復した事が何を意味するのか、考えたくなかった。
「響子さん…ごめんなさい。」
響子さんが、優しく私の背中を叩く。
『帰ってから泣きなさい。他人の家で迷惑よ。』
厳しい口調は、祖母に似ていた。
「好美ちゃんが許してくれるのなら、私が一緒に住むから。もう…1人で頑張らなくても大丈夫。」
カレンさんがいてくれた。
須賀君も、いてくれた。
1人ではなかった。
でも、孤独だった。
仏壇を見ると、出発前に供えた花。
戻って来れたことにホッとする。
そして、ぶどうが供えられていた。
「響子さん。」
心から、その言葉を言えることが嬉しくて懐かしくて、そして今までの孤独を確かなものにする。
「…ただいま。」
響子さんの手が止まり、そして再び動く。
「おかえりなさい。」
とても優しい声だった。

◇◇◇

どれだけ時間が経過したのか分からない。
泣き疲れて、そろそろ響子さんから離れよう、そう思った時、弘先輩のことを思い出す。
弘先輩は、また絵を描いていた。
取り乱した状態に近い私のことなど、特に気にしていない感じだった。
説明をしなければいけないけれど、何をどう話せば良いのか分からなかった。
車で大阪に向った時からなのか、それともぶどう狩りの感想なのか。
曾祖母や響子さんとの関係を話すのは大量すぎて、まだ処理できていない私は無理だった。
兄との関係を伝えるだけで良いのかもしれない。
でも私は、哲也さんにはもう会わないこと、それを言いたかった。
けれど、なぜそうなったのか、なぜ私が泣いているのか、それを問われたら何も答えられない。
「小野寺さん。絵のことだけど。」
私が弘先輩を見ていることに気付いた響子さんが弘先輩に話す。
「他の絵は私の父が保管していて、ごめんなさい…ちょっと変わった父だから、すぐに納得するかどうか…私にも見せてくれないから。見てどうするの?」
「勉強したいから。」
弘先輩の即答に、私と響子さんは目を合わせた。
そして、私は響子さんから離れる。
「勉強…ですか?小野寺さん、絵を描く…とか?」
「健吾先生の色、思い出してみても同じ色にならないから。僕の記憶が間違っているのかもしれない。」
弘先輩は困ったように溜息を出した。
直後、物音がして見上げると、兄が青葱を持った状態で和室に飛び込んで来た。
「弘先輩…今…健吾先生って言いました?」
兄が食卓に青葱を置く。
「康太。」
弘先輩が、ゆっくりと立ち上がって、兄の前に立った。
「お参り…しても良いかな?」
そして弘先輩は、鞄から包みを取り出した。
冷静になろうと、今の状況を把握しようとした。
兄は立ち尽くしていて、響子さんは私の腕を掴んでいる。
「康太に聞くよりも、姫野さんに聞いたほうが良いのかな?」
弘先輩が風呂敷から出した箱は、見覚えのある包装紙。
麗子さんが、いつもお供えしてくれる和菓子の店の包装紙。
そして、その絵柄は、裕さんが渡してくれた和菓子の包装紙にも似ていた。
「今日は、疲れていると思うから明日にした方が良さそうだね。」
誰も何も答えないから、弘先輩は困っている。
「響子さん。」
弘先輩に呼ばれて、響子さんが立ち上がる。
「これ…お願いして良いですか?」
弘先輩が、和菓子の箱を響子さんに差し出した。
戸惑い、そして兄と私を見て、響子さんは受け取る。
ありがとうございます、そう言わなければいけないのに、言葉が出ない。
「それから」
弘先輩が、鞄の中から今度はスケッチブックを取り出した。
「これ、響子さんのお父さんに。」
「父に?」
「僕が子どもの頃の、スケッチブック。保存状態が良くないから、がっかりさせてしまうと思うけれど。僕が描いたものよりも健吾先生が描いた絵のほうが多いから。」
部屋の空気の流れが、完全に止まった気がした。
何か言わなきゃ、そう思うのに。
私は弘先輩を見上げるのが精一杯だった。


指先の記憶 第四章-37-

2013-08-04 22:16:25 | 指先の記憶 第四章

触れる唇が少しずつ頬を移動する感触に、流れていた涙がピタリと止まる。
「雅司君。ぶどう食べようか?」
言うと、雅司君が顔を上げた。
同時に弘先輩が私から離れる。
「よしみ ちがう」
不満そうな顔を向ける。
「ちがう におい いつも おかあさんと おなじ におい でも きょうは ちがう」
私の心が、再び混乱し始める。
「ちが でてる」
腕の力が抜けそうになった。
弘先輩が雅司君を両腕で抱えた。
「康太。」
弘先輩の声に兄が姿を見せて、そして雅司君を受け取る。
「雅司、お風呂入ろう…響子が待ってるぞ。」
後半部分は私に向けられる。
今、兄はたぶん私の名前を呼ぶことを躊躇した。
弘先輩を見上げて、三連休の出来事を説明しなければいけないと考え、そして、どうして弘先輩がいるのか疑問に思う。
でも、今、私が身につけているもの全てが自分自身の物ではないと気付いて、それらを全て取り去りたい気持ちのほうが大きくなる。
弘先輩と目を合わせるのが怖くて、体の向きを変えて玄関に戻った。

◇◇◇

「髪…切って。」
「明日、学校から戻ってから。」
「…今、切って。」
「夜ご飯、食べてから。小野寺さん、待っているわよ?」
私と響子さんの言葉が、シャワーの音に混ざる。
響子さんに手伝ってもらって着物を脱いで、とにかく私は全てを洗い流したかった。
雅司君が違うと言った匂いも、髪に残る血も。
涙も全て消してしまいたい。
でも、髪を洗っても、いつも通りの石鹸を使っても、身体に残る感覚は消えてくれなかった。
心配した響子さんが浴室に入ってきて、私の髪を丁寧にマッサージしながら洗ってくれた。
それでも、左側に残る感覚が私の心をかき乱す。
「…いや…会いたくない。」
こんな自分を見せたくなかった。
哲也さんの手の感覚が残っている。
彼は何も悪くないのに、縋ってしまった私が悪いのに。
感情的になって哲也さんの優しさを求めたことが情けなかった。
そして、勝手な考えだと理解しているけれど私の望みを拒絶した哲也さんに対して、苛立ちが沸き起こる。
あれは抜き打ちテストでは、なかったのかもしれない。
「小野寺さんに、今日は疲れているからって言ってくるわね。」
私から離れた響子さんの腕を掴む。
「…帰って、欲しくない。」
会いたくない、でも帰って欲しくない、相反する気持ちが混ざる。
「好美ちゃん。準備するから。少しだけ切るの?」
見上げると響子さんが、私の髪の先を指先で摘む。
「短く…。」
シャワーの音が止む。
「晴己お兄さまぐらい…短く。」
バスタオルで身体を包まれる。
響子さんの服は濡れてしまっていて、幼い頃、祖母が髪を洗ってくれた日を思い出した。

◇◇◇

脱衣室で、私の髪を響子さんは躊躇もせずに短く切っていく。
もう一度シャワーを浴びて着替えると、鏡の中の自分を見て少しだけ落ち着いた。
雅司君は、ちがうと言うかもしれないけれど。
それでも残る感覚が少しでも消えたことが嬉しかった。
帰らなければいけないと言った大輔さんは私を見て、とても驚いていた。
中学生の頃の晴己に似ていると言われて、心の中で松原先輩に謝る。
私は玄関で大輔さんを見送った後、響子さんの両手を自分の手に包んだ。
姫野。
その名前を何度も頭で繰り返す。
そして晴己お兄さまの言葉を思い出した。
私は、弱い人間に生まれた覚えも、育てられた覚えもない。
そして、これから先も弱々しく生きるつもりは、ない。
本当は弱いのだと気付いた今だからこそ、自分の足で立つことができる。
「響子さん。ありがとう。もう…大丈夫。」
父と母のこと。
2人の家族のこと。
そして私の家族。
自分の存在が不安定だった時とは違い、今の私は自らの存在の位置を理解している。
その場所を守ってくれた人達に、恥じることなどできない。
和室への扉を開けると、クレヨンで絵を描いていた雅司君と弘先輩が私を見上げた。

◇◇◇

兄が作った料理を食べ終えると、雅司君は裕さんに連れられて家を出た。
雅司君が帰ってしまった寂しさに、私は涙が出そうになる。
兄と響子さんは台所を片付けていて、和室には私と弘先輩だけ。
食事中、私は雅司君と話していたから、弘先輩とは何も話していない。
状況を説明したいけれど、何から説明すれば良いのか分からなかった。
「ほら。味噌汁。弘先輩、和菓子どうぞ。」
兄が私の前に味噌汁を置いた。
温かいお茶が2つ並ぶ。
弘先輩は和菓子に手を伸ばし、私は味噌汁を口に含む。
懐かしい。
幸福を感じる。
美味しいと感じる気持ちを超えていた。
やっと、家に帰ってきたような、そんな気がした。
「…こっちのほうが…美味しい。」
兄が作った味噌よりも美味しかった。
「そりゃそうだろ。」
貰いに行っても良いのだろうか?
他人としてではなく、身内として会いたかった。
私の事を容子と呼んだとしても、私の事を認識してくれなくても。
一緒にご飯を食べてお茶を飲んで水羊羹を食べて。
ただ、隣に座って同じ時を過ごしたいと思った。
お味噌の味で泣くことは許される。
涙がポトリと落ちた。
そして、短く切った髪を撫でる指に部屋を見渡すと、兄の姿が消えていた。
途端に焦りと不安が心を占める。
男の人の前で泣くのは危険だと、今の私は分かっている。
それなのに、また抵抗できなかった。
今回は両手は自由だったのに。
「良かった。姫野さんが帰ってきて。もう…会えないのかと思った。」
弘先輩の言葉に、また涙があふれ出す。
瞼に触れる唇が、私の涙を誘う。
俯くのが精一杯だった。
拒む言葉も態度も何も出来なかった。
弘先輩が離れても、私は俯いていた。
弘先輩が3つ目の和菓子に手を伸ばしたのを視界の端で見た時、私は顔を上げた。
雅司君と一緒に描いていた絵を弘先輩が再び描いている。
大きな幹。
ピンクの花びら。
その画用紙には満開の桜が描かれていた。


指先の記憶 第四章-36-

2013-08-04 01:29:36 | 指先の記憶 第四章

廊下を走ると、子どもの頃に祖母に注意されたことを思い出した。
何歳の時だったのか分からない。
1人で走っていたわけではないと思う。
誰かを追いかけていたような気がする。
一緒にいたくて追いつきたくて。
右の物置に隠れたこともあった。
探してくれる人がいるから隠れた場所。
数を数えて…数え方を教えてくれた人がいたはず。
離れに辿り着いて、玄関が見える廊下に立つと、扉の向こうから声が届く。
廊下から玄関に飛び降りて、扉を持つとガシャンっと音が鳴った。
その音に雅司君が振り向いた。
捕まえていた虫を籠に入れると、私へと手を伸ばす。
「よしみ? うわー おひめさま みたい」
広げた両手は、土遊びの最中だった。
「雅司君。」
この子を抱きしめることが許される。
この子の幸せを望むことが許される。
そして、与えることも。
抱き上げようとして両腕を雅司君に伸ばした時。
「好美、雅司、止まれ!」
背後から兄の叫び声。
私の前には大きな背中。
その体の前方を覗き見ると、雅司君が空中に浮いた状態だった。
そして、彼の土で汚れた両手は、私の前に立つ人の胸元に手形をつけている。
「すみません。三上さん。間に合わなくて。」
「…いや…良いんだ…小野寺君。好美の着物が無事なら。」
振り向いて私を見下ろす大輔さんが、私の姿を見て安堵の溜息を出す。
雅司君を後ろから抱え上げた弘先輩が、宥めるように雅司君の頭を撫でた。
「好美ちゃんっ!何も履かないで怪我したらどうするの?」
足袋は、きっと汚れているけれど、響子さんの声を無視する。
「裕さん。すみません。そっちの玄関にタオル置いてあるから…外の水道で…あぁ!!雅司、大人しくしろ。弘先輩すみません。ちょっとだけ捕まえておいて下さい。」
兄は色々と指示を出して行き、雅司君の靴を脱がせた。
「響子、最小限に抑えるから諦めてくれ。」
「うぅ…分かりました。容子さん。ごめんなさい。ごめんなさい。」
私の着物の袖を紐でまとめながら、響子さんは祖母に謝り続ける。
兄は、裕さんからタオルを受け取ると、雅司君の足を拭いて、そして両手の泥も拭い取る。
私と雅司君は最初は良く分からなかったけれど、次第に視線を合わせてワクワクしてきた。
「いいぞ。行け、雅司。」
兄の合図に雅司君が両手を伸ばした。
雅司君は弘先輩に抱えられている。
靴は脱いでいるから歩くことはできない。
雅司君が両腕を私の首に回して身体は少し密着したけれど。
「康太…次は、どうすれば良い?姫野さん、抱えられるの?」
「あー無理です。そのまま雅司を抱えたままでお願いします。弘先輩の服が一番汚れていないから。」
私は雅司君の背中に腕を回すが、そうすると弘先輩の胸元に手の甲が当たってしまう。
雅司君と密着したくて抱き寄せると、弘先輩の腕が私の身体に当たってしまう。
困ったな、そう思っていたら。
「帯があるから気にしなくて良いよ。」
にこやかに弘先輩に言われた。
気にしていることを知られてしまったことや、状況を冷静に判断されたことが余計に恥ずかしくなる。
でも、弘先輩に支えられていることで、雅司君の上体は安定していて、彼は私の肩の上に手を添えているだけだった。
「おかあさんが よしみのいえ むしが いっぱい おえかき たのしいって」
和歌子さんの記憶に残る庭。
「たくさん かいて おかあさんに みせるんだ」
私も描いたのだろうか?
今の雅司君の年齢の時、たぶん私は母と離れていた。
その頃の事は何も覚えていない。
「さくら」
雅司君は、身体をひねると弘先輩の肩に手を置き、門の外を指差した。
「かいだんの いちばんうえの さくら おかあさんが いちばんすき」
母が、この家を思い出す時、隣には父がいるのだろうか?
雅司君が弘先輩の肩から手を離し、私の頬を撫でる。
小さな手がペタペタと触れる。
心配そうに私を見る瞳が、何人もの人と重なった。
兄に母に。
そして彼の父親に。
叔父にも似ている気がした。
彼の従兄姉達にも似ていて、私がまだ会ったことがない彼の祖父にも似ているのだろうか?
生きている人達に似ている幼い子の体温が、血の流れを私に教えてくれる。
若くして亡くなってしまった祖父の面影を残す兄。
祖母に似ていると言われる私。
亡くなった人に似ている私達は過去を残しているかもしれないけれど、腕の中の男の子は、しっかりと現在と未来を掴んでいる。
雅司君が私の首に両腕を回した。
「なかないで」
もっと抱き寄せたくて、彼の背中に回している両腕に力を込める。
こうして再び会えたことが嬉しくて、そして私のことを彼が認めてくれるのかどうか不安になり、感情が混乱して涙が止まらなくなる。
この子の日々の幸せに、混乱や不安を与えるのは嫌だった。
私との繋がりを、雅司君に話す必要はない気がしてくる。
悩ませたくない思いと、私を拒絶される恐怖。
今が幸せなら、このままでいたいと思ってしまう。
兄の気持ちが少しだけ分かった。
私が問えば、きっと兄は真実を教えてくれた。
何も覚えていなくて何も知らなくて。
私が現実に向かい合う日が来るのを待っていてくれた兄に、何度も心で謝り続ける。
「よしみ ぶどう たべたい」
雅司君の髪が私の左耳を撫でる。
かんざしが痛かったらどうしよう、そんなことを考えていた。
「そうだね。ぶどう…食べようか。」
動く可能な限りで、雅司君の背中を撫でた。
その時、前髪に触れる指に驚いて視線を上げた。
私の前髪を撫でる指が、そのまま頬に触れる。
私の両手は動かない状態だったから、涙で濡れる目の下に、弘先輩の唇が触れても何も抵抗できなかった。
雅司君は私の左肩に顔を埋めている状態。
「みんな、家に入ったから。」
そう言われて、少しホッとする。
でも、ちょっとだけ弘先輩を睨んでみた。
それなのに。
再び弘先輩の唇が、今度は少し長く触れた。