意外にも、母は仏壇に手を合わせた。
見覚えのある包装紙は、裕さんが渡してくれた和菓子の店。
仏壇の前に座った時間は、それほど長くなかった。
和室を出て振り返った母が、とても深く頭を下げた時間のほうが長かった。
兄は、そんな母を戸惑いながら見ていた。
自分よりも背が高い息子に手を伸ばした母は、その頭を優しく撫でる。
兄が、とても幼い子どもに見えた。
この2人は親子なのだと他人事に感じ、私も家族なのだと実感することは出来なかった。
門を出て母が桜の木を見上げた。
「今度…アトリエに入っても良いかしら?」
使用する人がいない場所だから、アトリエは父が亡くなった時のままだ。
換気や掃除はしているから、いつでも入ることができる。
そう告げると、母は首を横に振った。
「来年…桜が咲く頃に。今日は裕君と雅司と会うから」
父の事を先生と呼ぶ母が、ゆたかくんと呼んだことが、とても不思議だった。
私と兄は、階段の上で母と叔父を見送った。
私達は緊張していたのか、2人で同時に長い溜息を吐き出す。
「混乱して泣き続けると思っていたのに」
兄は何度か母が突発的に混乱するのを見てきたようで、父の死に直面するのは無理だと言っていた。
「実感が、ないのかもね。時間が必要なのかも」
「そうだな」
少しずつ動いているのは確かだ。
それが前進か後退か変化か。
良か悪かは分からないけれど、今は出来ることをするしかない。
玄関に戻ろうとしたら、階段を駆け上がる音が聞こえ、振り向くと叔父だった。
「アトリエだけど」
叔父が呼吸を整える。
「準備しなくちゃいけない」
「準備?掃除しているよ?」
「その準備じゃなく、えっと…健吾さんの桜の絵…好美ちゃんが手を加えてしまった…」
「私の落書き?あれは見せないほうが良いよね?」
「必要なんだ」
「え?」
「修正、出来るどうか相談して連絡するから。あ、この事は姉さんには内緒」
そう言うと、叔父は慌てて階段を下りて行く。
「お兄さん」
隣に立つ人を呼ぶ。
「用事増やして、ごめんなさい」
兄が宥めるように私の頭を軽く叩いた。
◇◇◇
昼休みになり、お弁当を机の上に置いた私は教室を見渡した。
どうしようかと考え、隣の席に椅子を寄せるクラスメイト達を見る。
「あの」
3人は不思議そうに私を見た。
「お弁当…一緒に食べても良い?」
少しだけ沈黙。
そして1人が笑顔を向けてくれた。
「先輩達、今日から修学旅行だっけ?どうぞ」
残りの2人も笑ってくれた。
私はホッとして嬉しくて、視界が少し揺れた。
晴己お兄さまの胸で泣いたのをスタートにして、私の涙腺は緩みまくっている。
「…ありがとう」
クラスメイトとお弁当を食べるのは久しぶりで、断られたらどうしようと考えると、凄く不安だった。
「…姫野さんの、お弁当、凄いね」
3人が目を丸くしている。
松原先輩に事情を話した翌日、学校全員が私と兄の関係を知っていた。
誰も直接質問して来ない。
松原先輩は和穂をとても褒めていた。
でも、和穂の指示を受けたのは松原英樹ファンクラブの面々だから、本当に凄いのは先輩だと教えてあげたい衝動に駆られるくらい、松原先輩は自分自身を評価していない。
「うん…兄が作ってくれるから」
「え?須賀君が?」
「…うん…兄は無駄に感じるくらい器用なの。良かったら、どうぞ」
私だけのお弁当ということで、今朝の兄の張り切りようは気持ち悪いくらいだった。
自分の分は、大量の肉を炒めていたり、かわいくもなんともないお弁当を兄は食べているようだ。
私の好物だけを入れたお弁当は、兄の想いが強すぎて若干食欲が失せる。
「ほんと?いいの?」
「うん。味は絶大の自信を持って保障できるから」
味見をした3人が、また驚いた顔を向ける。
「うん…確かに」
「ちょっと無駄、かも」
「…イメージ壊れた」
兄にクラスメイトとお弁当を食べた話をしたら、翌日は更に凄いことになっていた。
動物園かと間違うような光景に、頭が痛くなる。
可愛いおにぎりや、お花が咲いたトマト。
見た瞬間、昨日と同じメンバーで固まった。
◇◇◇
絵里さんが帯を強く締めた。
「無理無理無理。ごはん一緒に食べるみたいだし、緩くしてください」
「良い練習の機会でしょう?姫野の本家に行く時は、好美ちゃん、もっともっと大変なのよ?この程度は慣れないと」
最近は絵里さんが私の家に通ってくれている。
車で来れるようになったし、麗子さんから直接依頼されたからと、絵里さんの張り切る姿は怖いくらいだ。
今の状態の私では麗子さんと響子さんのお父さんに会うのは絶対に無理だと皆から言われている。
私に立ち居振る舞いを教える先生は、全員一致の意見で絵里さんだった。
近々、桐島家の方達に会うことになっている。
兄と私。
桐島太一郎氏と、その妻。
賢一君と明良君、そして杏依ちゃん。
裕さんの兄姉は同席しないことになった。
雅司君を支えていくのは、彼から見た伯父伯母ではなく、従兄姉と私達兄妹だと太一郎氏は考えているらしい。
私は、その考えにとても共鳴した。
頑固爺と聞いているけれど、私は桐島太一郎に会うのが、とても楽しみだった。
◇◇◇
杏依ちゃんの父方の実家である料亭を訪問したのは、少しずつ木々に赤みが混ざり始めた頃だった。
何度も練習した通りに桐島太一郎夫妻に挨拶をした。
とても緊張した。
でも、私以上に緊張しているのが太一郎氏だった。
食事を終え、美味しいデザートを食べている時に、私は太一郎氏に笑顔を向けた。
「祖母に似ていますか?」
戸惑い、そして太一郎氏は頷いた。
そして、私を凝視した。
杏依ちゃんが、そんな太一郎氏を咎めているが、私は気にせずに彼を見つめ返した。