駆け込んで来た哲也さんはオレンジジュースを飲む私の姿を見て、ピクッと頬を痙攣させた。
あ…怒ってる。
「何をしている?」
「お見送りしようと思って」
呼吸を整えて落ち着くと、哲也さんは係の女性に謝り、私の手を取ると室外に出た。
近くの椅子に座り、私は事前に買っておいたペットボトルを哲也さんに差し出した。
とても怪訝な表情で私を見て、そして水を飲む。
その姿を見ながら、私もジュースを飲んだ。
広い空港で哲也さんを探すのは不可能…というよりも面倒な気がした。
だから、空港のアナウンスを頼った。
姫野好美の名前を聞いて、哲也さんが来てくれるかどうかは分からなかった。
他の人が来る場合もある。
私は黙って家を出ているから、誰かが空港まで私を探しに来ていても不思議ではない。
ペットボトルを潰す哲也さんは、少し不機嫌だった。
「緊急事態でもないのに、世間に迷惑をかけるな」
身内だけでなく他人にも迷惑をかけていて、今は空港のアナウンス。
自分のしている事の身勝手さに、自分自身が嫌になる。
「見送りじゃなく連れて行くぞ」
「パスポート持っていません。海外行った事ないし」
「申請しろ。いつでも迎えに来てやる」
哲也さんは不機嫌だけど、私には見慣れた表情。
「哲也さん。私、哲也さんだけって泣いちゃったけど、全然大丈夫でした」
哲也さんの眉間に皺が寄る。
「だいちゃんが、哲也さんのこと変態だって言ってましたよ」
「散々言われたから、今更驚かない」
「認めるんですか?」
哲也さんは立ち上がると、私が持つ空になった紙コップを奪うようにして取り上げる。
そして、潰したペットボトルと紙コップを別々のゴミ箱に入れた。
戻って来て私の前に立つ。
「何の用だ?」
「ですから、見送り」
「絵里は先週から早川舞を連れてイギリスだ。俺が到着した後、鈴乃さんと修司さんと一緒に日本に戻る。好美達は正月は寺本さんの家に行くんだろう?修司さん達も正月は実家に戻る予定だ。これからは、早川親子の問題だ。娘を引き取るのかどうか。それは俺達には何も出来ないことだ」
私は力なく頷いた。
母と裕さんのことでさえ、私にはどうしようもない。
2人が結婚しないと言うのなら無理強いはできない。
雅司君を引き取らないと言うのなら、私自身が生活力をつけなければならない。
俺が強ければ、そう言っていた兄を思い出す。
「なぜ小野寺弘と付き合わない?」
「うーん…なんとなく」
「俺と一緒に来るか?」
「やめておきます」
「即答か」
哲也さんが笑う。
「だって、やっと家族と過ごせるようになったから」
「それを小野寺に話したのか?今の好美にとって大事なのは、普通の当たり前の家族との生活だ。高校生の恋愛など、ちょっとしたスパイス程度のものだ。深く考えるな。適度に今を楽しめ。それには小野寺弘は悪くはない」
「哲也さんは、もし私が、そのちょっとしたスパイス程度で哲也さんと付き合いたいって言ったら、納得してくれるんですか?」
「却下」
「ほらぁー」
「俺の場合は、すぐに婚約だ。その時点で好美の家族に俺は深く関わることになる。関わっても許される。好美が家族との時間を過ごせるように、俺は婚約者として夫として、どんなことでもする」
新堂栄吉に似た優しい手が撫でてくれるのは、やはりとても心地良い。
「時間は取り戻せない。子どもの頃に叶えられなかった事を、これから経験することは出来る。でも、同時に、子どもの時に経験できていれば、そう考えて寂しくなる。家族間のことはある程度は取り戻せるものもあるが、学校や友達は無理だ。限られた時間と空間の中で、たまたま一緒になった人間の集まりだ。それは将来取り戻したいと思っても無理だ。だから、今は同年代と楽しめ。そこに恋愛があるのも将来の思い出になる」
「…哲也さん。おやじっぽい」
思い出が欲しいから弘先輩と付き合う、そんなことを言ったら、どうなるのだろう?
「利用しろってことですか?」
「罪悪感があるのか?あるのなら少しは小野寺弘に愛情があるってことだ。早く帰ったほうが良いんじゃないか?」
哲也さんの上着を掴んで、私は彼を見上げた。
何かが記憶を刺激した。
もしかしたら、こんな風に兄を止めたのだろうか?
母と家を出る兄を。
「何かを思い出したら聞いてみれば良い。誰かが、その時の事を覚えているかもしれない。少しずつ家族との時間を取り戻せば良い」
とても優しく頬を撫でられた。
泣きそうになるのを堪える。
哲也さんの前で泣きたくないし、泣いてしまったら弘先輩に…これが罪悪感なのだろうか?
「でも、現在からも逃げるな。ちゃんと今を生きて」
哲也さんの手が頬から離れる。
そして両腕を取られて私は立ち上がる。
「最後に俺を選べ」
自信たっぷりの命令。
哲也さんの両手が私の腰に触れそうになった時。
「現行犯」
哲也さんの頭上にキャップが開いたペットボトルが置かれて、哲也さんの動きが止まる。
あぁ、やっぱり。
誰か来ているだろうな、とは予想していた。
「哲也、そろそろ時間だぞ。好美、俺達はこのままデートしよう」
ペットボトルを大輔さんは取り、それを勢い良く飲んでいく。
「哲也は早く行け。で、好美が二十歳になるまで戻って来るな。好美も俺の従兄を煽るな」
「私、何もしてないよ?」
「その無自覚が問題なんだよ。じゃぁなー哲也」
大輔さんに手を取られる。
私は少し抵抗して、その場に留まり哲也さんを見上げた。
哲也さんが体を屈めた。
私の頭を撫でてくれて、それは本当に小さな子どもにするような、おじいちゃんがしてくれたような、幸せに満たされる手のひらだった。
「今まで出来なかったこと、たくさん経験しろ。世の中に普通で簡単なことは、たくさん溢れている。そうすれば、そのうち…何が必要なのか大事なのか分かる時がくる。とりあえず…そうだな、今日は遊園地に行って来い」
「遊園地?」
「行った事あるか?」
私は首を横に振る。
「康太は、たぶん苦手だ。あまり乗り物に強くない。大輔なら一緒に楽しめるぞ。好美が楽しいと思ったら、今度は雅司君を連れて行けば喜ぶ」
哲也さんの提案に私は気持ちが高揚して、元気に手を振って哲也さんと別れた。
でも、電車に乗ると涙が落ちた。
大輔さんは何も問わず、ただ、ずっと私の手を握ってくれていた。