2009年5月3日の朝。
起きて食卓に行くと家人が、
「キヨシロー、死んだよ。」
早速に新聞を見ると確かに忌野清志郎さんの死亡の記事が…。
突然の訃報に絶句!
2008年7月8日にテレビ朝日系『徹子の部屋』に出演した際、
身体を斜めにした体勢のままほとんど動かず苦しそうな顔で、
丁寧に徹子さんの質問に答えようとするものの
<心ここに在らず>が私にとっての最後の姿になりました。
身体を動かすことができないほどの痛みがあったのでしょう。
番組の収録日は分かりませんが放送日の数日後に再び入院。
その後はメディアに姿を見せることなく帰らぬ人となりました。
*この番組はこれまでの例を見ると再放送が予想されます。
RCサクセションのコンサートは、
1984年6月25日に福井市文化会館で観ています。
その頃のライブを音に残したアルバム『THE KING OF LIVE』は、
当時<地上最高のロック・バンド>の名を欲しいままにしたRCサクセションの
底力を感じます。
このアルバムには名曲も目白押しで
『たとえばこんなラブ・ソング』
『スィート・ソウル・ミュージック』
『指輪をはめたい』等、
例えようのない名唱が続きます。
福井でのコンサートに行く前に
<一緒に歌わなきゃ>って、一生懸命聴いたこのアルバムは、
今も私のカセット・テープ・コレクションに保存されています。
なんか思い出すとちょっとウルウルしてしまいますね。
会場全体がノリまくってました。
また映像では、
『ザ・キング・オブ・ライブ・アット武道館(1983年12月収録:74分)』
が必見でこの映像はテレビでも放送され大反響を巻き起こしました。
*ただしこの映像の完全版は現在発売されていないようです。
キング・オブ・ロック(ロックの王様)!
日本においては、(矢沢永吉さんと並び)彼のために用意された言葉です。
若い世代の方もこの頃の(まるで70年代ストーンズのように)、
サイケなイデタチに身を包みハングリーにシャウト&ボディアクションする、
ロックの王様のステージ映像に興味を持つことをお薦めします。
このブログでもNHKの番組『SONGS』の記事を掲載しました。
下記のリンク先から、
<公開放送のライブに行かれた方のブログ紹介>をお読みくだされば、
清志郎さんが多くの方々に愛されていた理由が分かると感じます。
→ http://blog.goo.ne.jp/mimifuku_act08/e/c7156bb2febf6266a22053c16cd3dbcd
58歳。
なんか悔しいね。
【追記:1】
朝食時に日本テレビ系列『ザ・サンデーNEXT』で30分にも渡る
忌野清志郎さんの特集を見ました。
最後のテレビ出演は日本テレビ系列
『生放送:間寛平アースマラソン(16:25~17:25)』だったようです。
この番組で清志郎さんは、約2年6ヶ月ぶりに新曲をレコーディング。
世界一周マラソンに旅立つ友人の間寛平さんのためにの応援歌
「走れ何処までも」と「RUN 寛平 RUN]の2曲を録音。
その録音模様が流されました。
抗癌剤の影響か少し浮腫んだ表情に闘病の毎日が推測されます。
この2曲は配信限定でリリースされたようで、
・配信は1月14日より、着うたフル。
・配信は1月21日よりレコチョク、music.jp、dwango他でスタート。
・PC配信は1月21日より、iTunes、mora他にてスタート。
との情報を見つけました。
正直知りませんでした。
また2005年10月~12月に日本テレビ系列で放送された大人気ドラマ、
『野ブタ。をプロデュース』での映像も紹介されました。
このドラマは、
亀梨和也さん、山下智久さん、堀北真希さん、戸田恵梨香さん、
等の出世作のひとつで10代を中心に大きな支持を集めました。
特に堀北さんが明るく活発な性格へと変化していく過程が面白く、
ゴーヨク堂店主役で忌野清志郎さんが若者達の相談役?として出演。
不思議なキャラクターで心に染みるメッセージを残したことを記憶しています。
萩原健太さんがコメンテーターとしてゲスト出演。
名曲「スローバラード」他、懐かしい映像が満載でした。
ロック好きの徳光さんも目に涙を浮かべ、
出演者みんなが懐かしみました。
【追記:Ⅱ】
5月4日のワイドショーは、すごいことになっていました。
でもチャボ(仲井戸麗一さん)のインタビューが聞けなかったことは残念。
80年代のRCサクセションのサウンド担当はチャボで、
ロッカー:忌野清志郎はチャボなしに在りえなかったと感じます。
RCサクセションは決してテクニック重視のバンドではなかったけれど、
オーディエンスを煽る技術は超一流。
ぜひインタビューを放送して欲しいと感じました。
三浦友和さんが清志郎さんのバンドでドラムを叩いていたとか、
ワイドショーでなければ知ることのできない事実も沢山ありました。
2つの“ちょっといい話”は、
*自転車に乗り始めた理由が子供達を守るため。
~雪山で雪崩に巻き込まれた息子を80歳の父親が吹雪のなか探しに行き、
自ら救出したというニュースが自転車ライフのきっかけであった。
*息子さんの快気祝いに録音した非売品アルバム。
~交通事故にあったお子さんが退院した時に制作したアルバム。
2002年放送の『徹子の部屋』で紹介された「プリプリ・ベイビー」は、
子煩悩な清志郎さんの素顔が垣間見えます。
~「プリプリ・ベイビー」はアルバム『夏の十字架』に収録。
貴重な情報→ http://www.h2.dion.ne.jp/~kinki-bc/z14-4-23.htm
~リンク後に4月24日までスクロールしてください。
同2 → http://www.h2.dion.ne.jp/~kinki-bc/z14-8-14.htm
~以上2件は、『徹子の部屋辞典』のサイトにリンクします。
ボクの知っている清志郎さんは1980年代末までなので先程 iTunesで、
『パパの歌』、『デイ・ドリーム・ビリーバー』、『Jump』を購入しました。
ベスト盤は2種持っているんですが、いずれもRC名義。
ミーハーで本当のファンとは言えませんね(苦笑)。
ご冥福をお祈りします。
合唱~イェイ!
【忌野清志郎プロフィール】
1951年4月2日:東京都生まれ。
1969年:RCサクセションを結成。
1970年:「宝くじ買わない」でデビュー。
この時代はマネージメントの問題等で活動が制限され、
1977年以後は活動を停止。
アーティストとして不遇な時代であった。
しかしシリアスな歌詞の内容を高く評価する識者も多い。
1979年 仲井戸麗一(チャボ)他メンバーの新加入。
路線もフォークからロックへと変更。
1970年代のフォーク、ブルース・バンドとは一転して、
1980年代は日本のロックを代表するグループとして君臨。
特にステージでの熱いパフォーマンスに熱烈なファンが殺到し、
人気を不動のものにする。
この時代のライブコンサートはどの会場でも、
<伝説的なクオリティ>を持っていた。
一部のファンの間では清志郎とチャボの関係をミックとキースに見立て、
和製ストーンズとの見方をされるほどに日本のロックファンに認知される。
また梅津和時(サックス)さん等の参加により、
コンサートのサウンドがより強烈になり輝かしい一時代を築いた。
1990年12月25日の日本武道館ライヴを最後に活動を停止。
活動停止後は神出鬼没なゲリラ活動や自由奔放なプロジェクトを立案。
1992年には、アメリカでの活動に対して、メンフィス名誉市民の称号を授与。
1999年には、君が代をアレンジした曲が収録されたアルバム『冬の十字架』が、
発売禁止になるなど物議をかもす。
2006年7月:自身のホームページにて喉頭癌であることを発表。
2007年12月: 日本武道館でのジョン・レノン・スーパーライブに出演。
2008年1月:NHK『SONGS』に出演し復活をアピール。
2008年2月:「完全復活祭」を東京、大阪の会場で開催し大成功をおさめる。
2008年7月:テレビ朝日『徹子の部屋』に出演。その直後に再入院。
2008年11月:日本テレビ『間寛平アースマラソン』のため新曲を録音。
2009年5月:都内の病院で家族に看取られ死去。
~以下、Web報道記事を独自編集:記事転載。
*「愛しあってるか~い!」のフレーズで一世を風靡し、
日本のキング・オブ・ロックと称えられた歌手、
忌野清志郎(58歳=本名・栗原清志)さんが、
2009年5月2日午前0時51分。
<がん性リンパ管症>のため都内の病院で死去した。
関係者の証言によると、
夫人の景子さん(53)、長男の竜平さん(20)、長女の百世さん(17)ら家族が、
清志郎さんの最期を看取ったという。
告別式は9日午後1時、東京都港区南青山2の33の20の青山葬儀所。
喪主は妻の景子さん。
清志郎さんは206年7月に喉頭がんと診断され入院、
医師から声帯摘出手術を勧められたが歌手生命が絶たれることから拒否し、
放射線治療を選んだ。
玄米菜食法や漢方など民間療法も取り入れ克服。
2007年12月「ジョン・レノン・スーパーライヴ」で1年半ぶりに復活を遂げ、
2008年2月に東京・大阪での「完全復活祭」コンサートで熱唱。
元気な姿をアピールした。
しかし、
同年7月に左腸骨にがんが転移し再入院。
再入院の際の直筆メッセージを自身のブログに掲載。
「このくらいのことは覚悟してたのでぜんぜんヘコんでないから」
と気丈に綴っていた。
忌野さんは、派手なイデタチと絞り出すような歌声で知られ、
「愛しあってるか~い」など独特のセンスのフレーズを生み出した。
また反原発などを歌った曲を収録したアルバムが、
大手レコード会社によって一時発売中止になったこともあり、
メッセージ性の強い作品も生み出してきた。
「ベイベー。」
「愛してま~す。」
「愛しあってるか~い。」
清志郎さんがステージから発した<キメぜりふ>はもう聞けない。
*清志郎さんは東京生まれ。
1968年に中学校の同級生らとRCサクセションを結成。
1970年に「宝くじは買わない」でデビュー。
1972年には「ぼくの好きな先生」が、
1980年には「雨あがりの夜空に」が大ヒット。
1982年には坂本龍一さんと組んでリリースした、
シングル「い・け・な・いルージュマジック」が大ヒット。
以降、ソロやバンドを率いての活動を行い、
CMにも使われた「パパの歌」などをヒットさせ、
日本の「ロックの神様」としてコンサートのほか、
CMや映画などで活躍した。
一方、
「音楽は時代の刺激剤であるべきだ」との信念を持ち、
政治的なメッセージを込めた歌も歌った。
そのため反原発を扱ったアルバム『COVERS』や
パンクロック風にアレンジした「君が代」が入った、
アルバム『冬の十字架』が一時発売中止。
コンサートで突然「あこがれの北朝鮮」「君が代」を歌って、
FM中継が中断されたこともあった。
*2009年5月4日。
忌野清志郎さん(享年58)の密葬が都内で行われた。
ライブのような“ロック葬”にしたいという関係者の意向で、
司会者は故人の名前を何度も絶叫。
数々の名曲を会場外まで聞こえる大音響で流し、
約110人の参列者が「雨上がりの夜空に」を合唱した。
出棺の際には参列者から「清志郎!」という掛け声が続き、
拍手が約5分間も鳴りやまなかった。
*2009年5月9日。
がん性リンパ管症のため58歳で死去した、
忌野清志郎さんの<ロック葬>が
東京・南青山の青山葬儀所で開かれた。
この日のロック葬では一般の参列も受け付けられ、
約4万2000人が参列。
献花に並ぶ参列者の列は、
3キロ先の六本木ヒルズ手前と、
1.5キロ先の青山一丁目交差点の2方向にまで伸びた。
葬儀会場では大音量で清志郎さんの歌声が流され、
深夜遅くまでコンサート会場のような盛り上がりを見せた。
~以下、親しい友人のコメント:Web報道記事転載。
*60年代から共演を重ねてきたミュージシャンの泉谷しげるさん(60)は、
「オレとしては忌野清志郎が亡くなったコトは受け入れません!
彼はオレの青春そのものだったし年下なのに師として仰いできた。
これからもだ。
忌野さんには一生勝てないし勝つ気もない。
若い頃から希有な天才性を発揮してたし、
随分まねさせてもらったよ。
まだ恩返しもしてないのに彼が勝手に逝くはずもない。
だから冥福を祈らないし告別もしない。
オレだけは絶対に忌野清志郎の死は認めないから」
との談話を発表した。 (朝日新聞)
*ビートたけしさん(62)は2日夜TBSの生放送番組の出演中に悲報を知り、
「がんもロックンロールだって言っていた」
と硬い表情で語った。
「デビューのころにRCサクセションに火がついてきた。
ぐっと上がっていく時によく一緒にやった。
前座で漫才をやったこともある。
おいらがやっても相手にされなかった」
と当時を懐かしんだ。 (朝日新聞)
*地球1周アースマラソンで米国を横断中の間寛平さんが3日、
訃報を聞いてコメント。
「昨日カンザス州に入ったところで嫁からの電話で、
清志郎さんの訃報を聞きました。
その後、1日走りながらも涙が止まりませんでした。
清志郎さんは僕みたいなお笑いの人間にも、
友達のように本当によくしてくれたすばらしい方でした。
この地球1周の挑戦が無事に成功した時に、
本当に恩返しをしたかった方の1人でした。
もう直接恩返しができなくなってしまったことは非常に残念ですが、
今は頑張って走り続けこの挑戦を成功させることが、
恩返しになると思っています。
明日も清志郎さんにいただいた応援歌を聴きながら走ります。
心からご冥福をお祈り申し上げます。」
と語った。(日刊スポーツ )
<関連記事>
*愛しあってるかい?~忌野清志郎~ NHKで追悼番組の特集。
http://blog.goo.ne.jp/mimifuku_act08/e/d7e33a861b31e375db1c7c9fc685f345
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