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教育について

2006-11-01 | 教育
具体的に論じる前に、私の考え方の変遷を書いておこうと思う。

私が教育の場に関わり、教育について考えるようになってから、6年が経つ。
(つまりは上の子の学年と同じだ。)
厳密には、その前の幼稚園のときから、わが子を通して
いろいろと考え始めていたのだが。

保護者同士意見を交わす機会も増え、考えさせられることが増えた。
また、教育関係の掲示板にも出入りするようになった。
それらの中で、こんな持論展開をひんぱんに見る。

「私は詰め込み(管理)教育によって抑圧された
 →詰め込み(管理)はよくない!」

「うちの子は学校でいじめにあった
 →いじめを生む学校というシステムには問題がある!」

要するに、
「自分(の子)に問題が起きた」→「それは悪だから削除せよ」
方式の教育論である。
そして私自身も、それに近い形での持論展開をしてきたと思う。

しかしその後、その方式で戦わせる教育論の危うさ、不毛さを、
長年かけてイヤというほど見ることになった…

それらの経験から今思うことがある。
「個人」の視点だけで教育論を語ることには限界がある、ということだ。


教育問題を語ろうとするときには、好むと好まざるに関わらず、
「なぜ教育が国家によって“義務”とされているのか」
という原点に、時々立ち戻る必要があると思う。

教育には、「個人のため」であるのと同時に
「社会のため」
「国のため」
という側面があるのだ。
ここから目を背けている限り、教育論は永遠に水掛け論で終わるだろう。
日本は長年平和すぎたのか、教育が
「個人的幸せの実現」
レベルで完結してしまっている人が増えているような気がする。

「国のため」
このような表現をすると、
「お国の為の人間を作ろうとするのか」云々という人がいる。
しかし、考えてみてほしい。
自己実現だとか何とか言っていられるのも、国が安泰だからこそ、だ。
国が存亡の危機に瀕しているときに、自己実現もクソも(失礼)ない。


「役に立つ人間になりたい」というのは、人間誰しも持っている願望だろう。
それをうまく生かすことができれば…という視点に立てば、
「国のため」も「個人的な幸せ」とつながってくる。
非人間的なシステムを含まざるを得ない「社会」と
「個人の幸せ」の橋渡しとして、教育を考えてゆければと思う。



追記:
「教育は子どもにとっては義務ではない」とする主張がある。
憲法に謳われた「教育の義務」は
「“子どもが”教育を受けなければならないという義務」ではなくて、
「“親が”子どもに教育を受けさせなければならないという義務」だからだ、
というのである。

しかしこれは詭弁だと思う。
憲法方式の「教育の義務」は、
「親は子どもに教育を受けさせる」
「子どもは教育を受ける」
この二つの義務を一文で表したにすぎない。

教育は、権利であると同時に、まぎれもなく“義務”である。