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日々思うこと

日常と、
日常につながるもの。

学校は完全ではない

2006-11-29 | 教育
これまでも何度か言及しているが、私が教育について考えるきっかけになったのは、某教育関係の掲示板である。
匿名ということもあって、そこでは私はプライベートな出来事やそれに対する私見を開陳したり、時にはかなり私情も交えたりして、踏み込んだ議論を繰り広げている。

私の場合、「何かおかしいぞ」と感じる意見(人)に出会い、反論を重ねていくうちに、自分自身の考えがまとまっていくところがある。
(そのせいか、ここであらためて自分の考えをまとめようとしても、こちらはなかなか筆が進まないのだが…)


私にとって一番のエポックメイキングな出来事は、その掲示板での「学校否定派」の人々との出会いである。

彼らは、(しばしばスレッドのテーマとは関係なく)
「(学校では)子どもの個性が大切にされていない」
「画一的だ」
「考える力を奪われている」
「いじめなどを見ても、学校教育は弊害のほうが大きい」
などの主張を繰り広げる。

いろいろ理屈のようなものはこねているが、社会的影響を検証しようとしているでもない。言っていることは徹頭徹尾「学校教育はいらない」(ひいては「“義務”教育は不要」)、これだけである。要するに先に結論ありきなのだ。
彼らの主張は「学校が嫌い」という感情論の域を出ていないようにさえ見える。

これらを叫んでいる人々が同時によく主張している意見としては、
「国旗国歌の強制に反対!」
「教育基本法“改悪”に反対!」「共謀罪に反対!」
「お国の為に働く人間を作ろうとする教育に反対!」
などがある。
どうやらこれらの意見には、同じ思想的土壌があるようだ。


学校は「完全」ではない。それは確かである。
しかし、近代国家で学校以外の教育を礎となし得ている国は、今のところ存在しない。
慎重かつ長期間にわたる社会的検証も無しに、ただ自分が「学校が嫌い」だというだけで学校を否定し、それが当たり前になってしまったら、それは亡国の序章以外の何者でもないだろう。
(…というと、彼らは「国なんてなくていい」などと言いそうだな…

教育について

2006-11-01 | 教育
具体的に論じる前に、私の考え方の変遷を書いておこうと思う。

私が教育の場に関わり、教育について考えるようになってから、6年が経つ。
(つまりは上の子の学年と同じだ。)
厳密には、その前の幼稚園のときから、わが子を通して
いろいろと考え始めていたのだが。

保護者同士意見を交わす機会も増え、考えさせられることが増えた。
また、教育関係の掲示板にも出入りするようになった。
それらの中で、こんな持論展開をひんぱんに見る。

「私は詰め込み(管理)教育によって抑圧された
 →詰め込み(管理)はよくない!」

「うちの子は学校でいじめにあった
 →いじめを生む学校というシステムには問題がある!」

要するに、
「自分(の子)に問題が起きた」→「それは悪だから削除せよ」
方式の教育論である。
そして私自身も、それに近い形での持論展開をしてきたと思う。

しかしその後、その方式で戦わせる教育論の危うさ、不毛さを、
長年かけてイヤというほど見ることになった…

それらの経験から今思うことがある。
「個人」の視点だけで教育論を語ることには限界がある、ということだ。


教育問題を語ろうとするときには、好むと好まざるに関わらず、
「なぜ教育が国家によって“義務”とされているのか」
という原点に、時々立ち戻る必要があると思う。

教育には、「個人のため」であるのと同時に
「社会のため」
「国のため」
という側面があるのだ。
ここから目を背けている限り、教育論は永遠に水掛け論で終わるだろう。
日本は長年平和すぎたのか、教育が
「個人的幸せの実現」
レベルで完結してしまっている人が増えているような気がする。

「国のため」
このような表現をすると、
「お国の為の人間を作ろうとするのか」云々という人がいる。
しかし、考えてみてほしい。
自己実現だとか何とか言っていられるのも、国が安泰だからこそ、だ。
国が存亡の危機に瀕しているときに、自己実現もクソも(失礼)ない。


「役に立つ人間になりたい」というのは、人間誰しも持っている願望だろう。
それをうまく生かすことができれば…という視点に立てば、
「国のため」も「個人的な幸せ」とつながってくる。
非人間的なシステムを含まざるを得ない「社会」と
「個人の幸せ」の橋渡しとして、教育を考えてゆければと思う。



追記:
「教育は子どもにとっては義務ではない」とする主張がある。
憲法に謳われた「教育の義務」は
「“子どもが”教育を受けなければならないという義務」ではなくて、
「“親が”子どもに教育を受けさせなければならないという義務」だからだ、
というのである。

しかしこれは詭弁だと思う。
憲法方式の「教育の義務」は、
「親は子どもに教育を受けさせる」
「子どもは教育を受ける」
この二つの義務を一文で表したにすぎない。

教育は、権利であると同時に、まぎれもなく“義務”である。

ハイテンションが止まらない

2006-10-30 | 教育
今日は市民フェスティバルでした。
ボーイ・ガールスカウトのブースには、スカウトや指導者総勢--名(数えてない^^;)が勢ぞろい♪

私の見ているビーバー隊は、ここにきて入団者が急に増えて驚いています。忙しいけれどにぎやかで、やっぱりやりがいはありますね。
生来が「にぎやか好き」なもので、人が多いほどテンションが高まる自分に苦笑していました

ただ…
実はそろそろボーイスカウトの活動からフェードアウトしようかと考えていた矢先だったので、ちょっととまどっているのです…
というのも先月、二名のビッグビーバーをカブ隊に上進させた後は、ついにスカウトが誰もいなくなる…予定だったんですよね。
で、PTAのほうも忙しいし、そろそろ引退するかな…?と思っていたのですが、情勢がそれを許してくれないようです…(笑)

あーどうしよう?
忙しいのは確かなのですが、頼りにされるとはりきってしまう私は、正直まだ身の処し方を決めかねています…


そうそう
セレモニーにいらしていた藤本正人さんと、またお話しすることができました!
小学校のPTAといい、最近“接近遭遇”の機会が増えてうれしいです♪
県議会議員になられても、精力的に地元の行事に顔を出していらっしゃることに、全く頭が下がります…
(こんなトコロで応援するのもナンですが^^;)これからもがんばってくださいね!


※追記・
このエントリは、教育についてのご意見でコメント欄が大変充実しているので、
「教育」カテゴリに分類しました。

子どもの思考力を養う簡単な方法

2006-09-06 | 教育
日常の会話で、子どもの思考力を養う簡単な方法があります。それは

「善悪」
「正誤」で
一刀両断にしないこと。

いろいろな事件や出来事について話し合うときに、親が
「悪いのはこの人(政治家)!」
などと断言してしまうと、子どもは世の中について「わかったつもり」になってしまい、そこから先の分析に進めなくなってしまうことがよくありますから。
(私もそうでしたが…)

私ももちろん、気をつけています。
特に、あることに対して「批判的な意見」を言うときには、批判だけに終わってしまわないように…

気をつけていないと、既存メディアの論説にも多いんですよ。
人を「思考停止」に陥らせるだけのような記事が。
要注意なのは、
「さも客観的な視点で書いているような記事」や、
「やたらと皮肉っぽい記事」です。
特に「皮肉」は、イカニモ「自分はわかってる」的なスタンスが個人的には大嫌いです。中身はロクに無いくせに…
場合によってはたわいもない川柳にも怒りを覚えることがあります。(これはチョット大人気ないですね^^;)

子どもと自分の論理的思考力を養うために、今日から早速お試しあれ。

「他人のせい」の連鎖

2005-05-12 | 教育
新卒採用担当者は「最近の若いモンは使い物にならん。学校に問題があるからだ」と嘆いているし、
大学教授は「最近の新入生は研究の何たるかをわかってない。これも今までの押し付け学習の弊害だ」と嘆く。
中学の先生は「公立中学の質が低下して荒れるのは、小学校での教育がなってないからだ」と言い、
小学校の先生は「学力低下などの問題は幼児期からのしつけに原因がある」と言う。

要するに、みんながみんな「他人のせい」「以前の環境が悪かったせい」だと声高に訴えているのだ。
問題の根源をいったいどこまでたどっていけば気が済むのだろう…?
そのうち誰かが「新生児の頃にオムツを替えるタイミングを誤ったせいである」なんて言い出すようなことにならなければよいのだが。←もちろん皮肉である
(…余談だが、そんなプレッシャーだらけの中で子どもを生み育てたいと願う母親など、どこの世界にいるだろう??)

原因を「他人のせい」にしてしまうことは、実は一番カンタンで自分のアタマを使わずにすむやり方である。
うまくいかないときには「過去の過ちのせい」にすればよい。いくらでも言い訳がきく。
しかし、目の前にいるこの子どもの立場は…?
安易に「「幼い頃の教育が悪かったからこうなった」と言いきってしまうことは、「もう手遅れである」の烙印を押してしまうことに等しい。そのような言葉を発する人は、その「重さ」に気づいているのだろうか。

新しい環境にヨソから入ってくる人間が、「そのままでは使い物にならない」のは、ある意味当たり前ではないだろうか。
卑しくも「教育のプロ」を名乗るなら、少なくともそこからスタートする覚悟を固め、現状とガッチリ向き合って欲しい。そこに知恵を使わないで、一体どこに使うというのだろう??

前のブログでも書いたことだが、子どもはほとんどの場合ちゃんと育つものだ、と私は信じている。
「もう手遅れ」の烙印を押されてしまわない限り…

子どもの人生は「子どもが主役」

2004-11-17 | 教育
子どもの人生をのっとらんばかりに口も手も出す親を見かけたりもするが
「子どもの人生なんだから、子どもが主役」これに異を唱える人は少ないだろう。

「そうよ~、子どもが主役、当たり前じゃない!だから私は、子どもが思う存分力を発揮して、人生を楽しめるように力を尽くす、いわば裏方、マネージャーよ。」

まあ、一見もっともに思える考え方だ。
しかし私は、「ちょっと違うんじゃ…?」と思うのだ。

子どもは(=人間は)、最終的には
「自分自身の裏方が自分で出来るようにならなくてはならない」
と考えている。
つまり、以下のような能力を身につけることだ。

自分自身をプロデュースし、カウンセリングする能力。

自分でやりたいことを見つけ、そのためにどうすればよいかを自分で考え、決断し、行動する能力。
自分で自分のモチベーションを高め、自分で自分を適切に評価し、自分で自分を認め、癒す能力。

そして、本当に自分では手に負えないときには、適切に助けを求めることができる能力。

もちろん、どれも年齢の小さいうちは無理だが、これらを徐々に身につけることができるように助けるのが親の役目だと思う。
親がいつまでも「子どもの裏方」をこなしてしまっていては、その力は育たないと思うのだ。