更新が滞りがちです。
はい、お察しの通り非常に調子が良いです。「コロナ渦の入院で思ったこと②」を書こうと思っていたのに、何だったか思い出せなくなってしまいました...😅
よって、「コロナ渦の」は削除して続けようと思います。
今後は、入院中・闘病中に私を救ってくれた人やモノの数々について、そして
それらすべてを(ある意味)無に帰してしまった「悟り」について、
ぼちぼち書いていこうと思います。
更新が滞りがちです。
はい、お察しの通り非常に調子が良いです。「コロナ渦の入院で思ったこと②」を書こうと思っていたのに、何だったか思い出せなくなってしまいました...😅
よって、「コロナ渦の」は削除して続けようと思います。
今後は、入院中・闘病中に私を救ってくれた人やモノの数々について、そして
それらすべてを(ある意味)無に帰してしまった「悟り」について、
ぼちぼち書いていこうと思います。
(アナウンス)「当院では当面の間、原則
宴会禁止とさせていただいております。...」
えっ!?
と思ったら、面会禁止でした😆
見舞い客の出入りしない病棟は、とても静かでした。
加えて(着替えの受け渡し等の接触を減らすため)貸出パジャマが推奨されていたせいか、入院患者も必要以上に出歩いていなかったように思います。
同じ入院着を着て、同じ病室で長い時間を過ごすうちに、同室の患者間にいつしか家族のような不思議な一体感が生まれていた気がします。私も心穏やかに入院生活を送ることができました。
もしも、これが(コロナ不安のない)平時で
お見舞い客がひっきりなしに出入りしている状態だったらどうだっただろう?と想像してみました。
髪もなく、もちろんメイクもしていない無防備な姿で
点滴を引摺りながらよろよろと歩く様を、異性同性関係なく出入りする健康な人たちに見られるのは、嬉しいものではないだろうな...
また、たとえば同室の人の中で
ある人には見舞い客がたくさん押しかけ、
ある人には見舞い客が一人も来ない、という状況だったら...
果たして心揺さぶられずにいられただろうか?
(うらやましい、にせよ
うるさい!にせよ
寂しい、にせよ。)
人間には「他人と比べてしまう」性質があります。
(それを「嫉妬」という単純な二文字に押し込めることはしません。)
もしかしたら、心が乱される理由のほとんどは幸不幸そのものではなく
「比べてしまう」ところから来ているのではないだろうか...
そんなことを考えてしまいました。
昨日、手術創を診てもらうためにかかりつけのクリニックを受診し、主治医の先生から「異常なし、経過良好」との診断をいただきました。
組織生検の結果が出るまでは、やっぱり気持ちは上がらないですね~...とつぶやいたところ、
先生「ちょっと待ってくださいね」とおもむろに席を外され...
少し待った後、
「結果出てまして...」
え?3週間後じゃなかったっけ!?心の準備が~😂
期待半分・
期待しすぎてはいけないと思う気持ち半分で、先生が口を開くのを待ちましたが(ものすごく長い時間に感じられました笑)
検査結果を指し示しながら、いつも通りの落ち着いた口調で
組織片にガン細胞は見られなかったことを教えてくださいました。
先生との出会いに感謝する私に、
「辛い治療でしたが頑張ったかいがありましたね」とねぎらいの言葉をくださり、嬉しくて涙が出そうでした。
年明けから仕上げ!?の放射線治療に入り、そののち晴れて通院から解放されることになりそうです。
今は喜びと感謝の思いで一杯です。😂
厳密には再発を警戒しなければならず、完全に解放されたわけではないのですが、
今後は(私的には)とりあえず一旦「治った」ということにして、心配しすぎずに過ごしたいと思います。
実は、入院~現在までずっとメンタル好不調の波が激しく、「これブログに書こう🎵」と思ったものが、その間もなく次の波に飲み込まれ、流されるように日々を送っていました。
この間、考えたこと・発見したことがいろいろあって、どれも今後のために参考になりそうなので、追々記してみることにします。
自分自身の助けとなった思考が、少しでも誰かを助けることになればと願います。
「落涙事例」でも書いたけれど、
ショックで涙しそうになったことの一つが、手術創を自分の目で初めて見たときでした。
それまで、回診のたびに
「傷きれいですね、さすが○○先生(主治医の先生)だ」
のようなことしか言われていなかったので何となく安心していたのですが、
ベッドの上で、初めて鏡で見せてもらったその傷痕は、想像していたものとは全然違っていました。
そうか、お医者さんの言う「傷がきれい」は、
「化膿していない、炎症を起こしていない」という意味なんだな...
そこで初めて気づき、私は何を期待していたのかと落胆しました。
もしも
傷を見ないままだったら、どうだっただろう。
今でも(傷は)きれいだと信じていられたら?
ふと思いました。
「鏡」というものがない世界があったら
人間はもしかしたらもっと幸せなのかも、と。
自分の姿を見ることができない世界では
自分が他人と比べて美しいのか・醜いのかなんて知りようがない。
いくらでもイメージの通りに信じていられるし、外見のことで落ち込むこともないような気がする。
エステやフィットネスなどの「美の伝道者たち」は、よく
「美しくなりたければ鏡をたくさん見ましょう」と言う。
でも、自分を客観視する/できるというのは、幸せなことなのだろうか。
そんなことを思いつつ、今の私は
鏡を脇に押しやって、しばらく目を閉じていたい。
退院してからというもの、
何かにつけて涙が出るので困っています。
たとえば(最近の落涙事例)
・外食時、一人前を食べきれなくて残してしまう
・ユ○クロの入口で検温器を見過ごしてしまい止められた
・もう着用しないだろうと思われる服や下着を処分した
・歌がうまく歌えなくなっていることに気づいた
・バドミントンに復帰できるとしても、早くても来年5月と知った
・コロナのテレビニュースを見てしまった
・読んでいる本の幸せな展開に
・読んでいる本の悲しい展開に
・親と電話で話した
・友達にばったり会った
・退院後初の受診時、いつも通りの忙しそうな院内の様子に
・(入院中「傷きれいですよ」と言われていた)傷を退院後初めて実際に見て
・フェイスブックを開いたら怖いほどきれいな朝焼けの写真ばかりだった
・ダンナは相変わらず優しい
入院している間は(手術のときでさえ)幸せな気分だったのに...
体が傷を負ったときには、知らず知らずのうちに心も傷を負っているのかもしれませんね。
幸い坐骨神経痛は軽快したので、趣味のひとつドライブが可能になりました。
元通りになった!と信じたい気持ちを先走らせることなく、数ヶ月単位でゆっくりすることを心がけなければと思っています。
今日、傷を気にしながらシャワーを浴びているとき、
なぜかふいに誰かから「かわいそうに」と言ってほしくなって、涙が出ました。
私をよく知る(そしてできれば愛してくれる)誰かから
「かわいそうに」と言ってほしい。
「どうしてあなたがこんな目に...」などとベタに同情して、頭を包むように抱きしめてほしい。
世間的には「かわいそう」といった同情の言葉は、おそらく避けたほうがよいとされるものだと思います。
確かに「そう言ってもらって何かいいことあるの?」ときかれたら、何も答えられません。「甘ったれるんじゃない」で終わるでしょう。
それでも、今は
「大丈夫、心を強く持って!」とか「気分を前向きに!」といった言葉よりも、「かわいそうに」と言ってほしい...
坐骨神経痛は相変わらずで(少しましになりましたが)
何ということもない言葉に過敏に反応してしまったり
そのことでまた自己嫌悪に陥ったり...
他にも気落ちする小さな事象が重なっているせいか、妙に疲れを感じるここ一両日です。
組織検査の結果が出るまで、まだあと3週間...
とりあえず手術前の状態まで心身が回復するのを待つしかないですね。
手術を無事終えて退院し、経過も(坐骨神経痛を除けば)良好。
気分はさぞ晴れやかだろうと思われるかもしれませんが、
なぜかここに来て鬱々とした気持ちにとらわれています。
これからまた、闘病の形は変われど
死ぬまでガンと向き合わなければならないのだと思うと...
実は手術の前に、
麻酔の事故か何かで、自身も気づかないうちにこの世を去るというのも全然ありだな、という思いがよぎりました。
少なくとも「良くなる」という希望しかなかった、その気持ちのままで...
誰とも共有できない・したくない、思いの数々。
こんなふうに気持ちが沈んで悪いことしか考えられなくなるのも、坐骨神経痛の痛みのせいかもしれません。
というか、そういうことにしておこうと思います。
とりあえず今の心情を記録として静かに残します。
気持ちはこの青空のように晴れやか...なのですが、
朝方から右臀部😆に痛みがあり、徐々にひどくなっているので参っています。
坐骨神経痛?
病院のベッド、寝にくかったからなあ...姿勢も制限されてたし😥
これから組織検査の結果を見て、また今後の治療方針を練るわけですが、
手術で一旦区切りがつけられると思っていたのに、何ともモヤモヤした退院になってしまいました。
ちょっと体調が落ちると悲観的予測に流されそうになってしまいますが、何とか平常心で持ちこたえたいです。
不安に思って祈ったり、
感謝したり、
思わず笑ってしまったり、
感動したりしている間に、
無事手術が終わり、早くも二日目の朝です。
昨日は傷を気づかいながらもさほど支障なく過ごせました。
体から1本ずつ管が抜けて、身軽になっていく喜びを感じています。
以前、とある闘病ブログで
「ガンが判明して以来、一日たりともガンのことを考えない日はなくなった、それが悲しい」
と書かれており、
ああその通りだな...と寂しく思っていました。
それが、入院して
手術を始めとした一連の処置を受けたり、その経過を見たり(看ていただいたり)している間は、
全くと言っていいほど「ガン自体」のことを考えていないことに気づきました。
病院に来てガンのことを忘れるなんて...
何というか笑ってしまいました。😂
お医者さんが頼もしく見えるのは、
「今」やるべきことに集中しているからなのかもしれません。
ガンという病は悲劇性とともに語られがちですが、
それぞれの場面でやるべきことがあり、それを淡々とこなすことが求められるのは、他の病と同じですね。
手術は明日です。
職場からの電話に(悪い知らせではないかと)つい身構える癖がまだあったりするので、
ひととき浮世を離れるつもりでリラックスにつとめようと思います。
(本音は手術怖い~ですが😂)
4人部屋ですが広くて明るく、静か。
必要なとき以外は各々カーテンをきっちり閉めているので交流はありませんが、気配は何となくわかります。
こういう感じ、嫌いじゃないです。
というか、たぶん個室よりこっちのほうが落ち着く🎵
...これを言うのは少々憚られるんですが、
実は私、自宅のお風呂の脱衣場のドアを閉めたくなくて、
長めの「のれん」で目隠ししているだけだったりします😆
(さすがに浴室のドアは湯気対策のために閉めますが)
古い中古住宅のせいか、ドアを閉めてしまうのが何となく怖いんですよね...
これって変ですかね⁉️😅
とはいえ、病室については
たとえば同室の人がめんどくさい人だったり、
見舞い客がひっきりなしに来てうるさい、とかだと
やっぱり個室がいい~と文句言ってるかもしれません😆
※ちなみに今はコロナの影響で原則お見舞いの訪問客はいません。