日々思うこと

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どちらが恥ずべき存在か

2006-03-27 | 堅めの話
一旦「在る」とされた“残酷な事件”を、後になって否定することほど難しいことはない。
先日、ウェブ上でとあるTV番組を見て、そんなことを考えた。

番組名は「たかじんのそこまで言って委員会」。
南京大虐殺の証拠とされる写真や記事を一つ一つ検証した本の著者である東中野教授を招いて、「南京大虐殺は本当にあったと言えるのか?」を論じていた。
教授は、膨大な数の資料をしらみつぶしに科学的・論理的に検証した結果を、冷静に根気強く説明していた。

冷静にVTRを見れば分かることだが、彼は「南京大虐殺はあった」とも「なかった」とも一言も言っていない。
その主張はただ、
「証拠とされた写真の数々は、証拠たり得ないものである」
ということ、ただそれだけなのである。
それなのに、某氏をはじめとするパネラーの幾人かは、すぐに混同して「それなら戦時中に虐殺はなかったのか?!」などとかみついていた。
(最後にはそのお粗末な頭の中も、徐々に整理されていたようだが。)

それにしても、
なまじことが残酷だと、ただの「事実の検証」がこうも難しいものになってしまうのか…ということを、あらためて思い知らされた。
「この事件の存在には疑問符がつく」という主張をしただけで、「被害者の人権」(それが架空の存在であっても)を踏みにじる“人でなし”扱いされてしまう。

しかしこれは、裏を返せば
人間という存在が、いかに「情」の前に脆いものであるか、ということの裏返しでもある。
人間は残酷な事象を伝え聞くと、条件反射的に弱者の味方についてしまうのだ。

卑近な例だが…たとえば痴漢冤罪事件。
女性である私の心情としては、反射的に女性の側についてしまい、痴漢行為への怒りが先立ってしまいがちだ。
一旦立件されたものが実は冤罪だった、と言われても「本当なんでしょうね?!」とすぐには信じにくいような気がする。

残酷な事件を検証しようとするものには、論理と個人的心情を切り離す強い心が必要だ。
事実を検証しようとすることは(それが残酷な事件であってもそうでなくても)勇気あることとたたえられこそすれ、非難されるいわれはない。

本当に非難されるべきなのは、
「残酷な事件の被害者には無条件で同情しそうになる」人の心の最も弱い部分につけこんで、
ありもしない「残酷な事件」を捏造・主張する、
あまつさえ「事実を検証する」ことさえ阻もうとする、
そんな卑怯さのほうだと思うのだ。

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2 コメント

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Unknown (US)
2006-03-27 23:30:23
東中野教授を提訴するという団体があるようですね。ご参考にどうぞ。



http://blog.livedoor.jp/mumur/archives/50428742.html
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なんと・・・ (midstream)
2006-03-28 00:35:09
被害者が大きな声で被害を訴えている事件では、「事実の検証」もしてはならない、とでも言うのでしょうか…

それこそ恐ろしい世の中ですよね。何だか暗澹たる気分になります…
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