ロングホール 2005年11月25日 | 至福の花 パソコンを最初に購入した頃、メルマガが配信されてくるのを楽しみにしていた時期があります。当初、読んでいたメルマガで今でも読み続けているものが2つほどあります。いずれもスピリチャルな精神世界関連の内容を扱ったものです。面白いことに、私の気持ちがハッキリしないときなどにポーンと飛び込んでくるメルマガの内容にはっとさせられることが多いのです。今回のメルマガの内容は次のようなものでした。『私たちはいざコミットメントとなるとなかなか踏みきれず、ロングホールはとてももたないと考えてしまいがちです。それには理由があります。自分自身も含めて、継続して与えつづける価値のある人など、だれもいないと思っているからです。自分の価値を認めていないので、ほかの人の価値も認めないのです。自分の価値を認めていないと、役割や義務やルールにがんじがらめになったり、まちがった理由で「正しい」行動をしてしまいます。ところがコミットメントによって、より大きな感応力、より真実の選択、より高い倫理のある場所へと導かれるのです。』 この頃では毎日のように、あの【事件】のことをブログに書いています。あの【事件】を境に変化してしまった私の感覚や感情や気持ちのことにまつわるあれこれをです。Blissさんに対する私の構えも大きく変化してしまうのだろうかと不安に思った時もありました。この度の変化は、私が望んだり望まなかったりしたわけではなく、どうしようもなく自然にどこからかやってきてしまうものだったので、自分ではそれを防いだり歓迎したりすることは出来ないものばかりでした。だから、大きなうねりが一応、引いた今、Blissさんに対しては、いい意味での変化はあったとしても、私にとって大事な存在であることに変わりはなかったという現実に大いなる安堵を覚えています。 « クリスマスイルミネーション | トップ | 人間関係力 »
2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定) コメント日が 古い順 | 新しい順 なんとなく (bliss) 2005-11-25 23:45:42 そういうのも『布置』っていうんでしょうか?関係自体に意味を持たせようとすると、役割や義務というカタチを維持しなければならなくなる。だけど、相互に或いは自分自身の存在を認めてあげることができれば、関係自体に意味を持たせなくても良くなる・・・何となく、そんなふうに感じました。僕は、Rayさんに役割を求めていません。だけどそれは、必要としていないとかいう意味じゃなくって、存在を認めているからってことなのかな・・・などと自分自身に問いかけてみてみます。 返信する ‘ほんとう’が望むもの (midnight_ray_polaris) 2005-11-26 00:53:57 そうですネ!そういえば、私は一度も、Blissさんに無理な要求や無理難題を突き付けられたことはありませんでしたネ。私はBlissさんにいつも‘自由であること’や‘私が私のままであること’を保証してもらっていたことに今、気づいています。気が利かなくて、マイペースでわがままな私ですが、驚いたことに…そのことで一度もなじられたこともなかったですよネ!形式やカタチや契約から入っていって、中身をその関係の名称に相応しい実態として作り上げていくというあり方も一つの方法だと思えます。そういうやり方で心身のバランスに破綻をきたさなければ、それはそれで‘あり’でしょう。。。ただ、私はもう世間からそうしたことを期待されないポジションにまで到達していますし、自分自身としても、関係性をそのようなアプローチ方法で認めたり満たしたりすることは、自分の大切な心にとっての時間や労力の無駄だと考えるようなステージに立っています。それよりももっと大事なことは、自分にとっての‘ほんとう’の在り処を確認することであり、自分にとっての‘ほんとう’に素直になることだと思っています。自分や相手にとっての‘ほんとう’が望むものが、時にカタチを必要とすることになるのならば、その時はカタチが大事なものになるのかもしれません。はじめにカタチがあるのではなく、気が付いたらカタチが出来ていたとか、‘ほんとう’をまっとうするためにはカタチが必要だったとかいうのならば、それはそれで、それも‘あり’だと思えるのですが。。。 返信する 規約違反等の連絡
関係自体に意味を持たせようとすると、役割や義務というカタチを維持しなければならなくなる。
だけど、相互に或いは自分自身の存在を認めてあげることができれば、関係自体に意味を持たせなくても良くなる・・・
何となく、そんなふうに感じました。
僕は、Rayさんに役割を求めていません。
だけどそれは、必要としていないとかいう意味じゃなくって、存在を認めているからってことなのかな・・・などと自分自身に問いかけてみてみます。
形式やカタチや契約から入っていって、中身をその関係の名称に相応しい実態として作り上げていくというあり方も一つの方法だと思えます。そういうやり方で心身のバランスに破綻をきたさなければ、それはそれで‘あり’でしょう。。。ただ、私はもう世間からそうしたことを期待されないポジションにまで到達していますし、自分自身としても、関係性をそのようなアプローチ方法で認めたり満たしたりすることは、自分の大切な心にとっての時間や労力の無駄だと考えるようなステージに立っています。それよりももっと大事なことは、自分にとっての‘ほんとう’の在り処を確認することであり、自分にとっての‘ほんとう’に素直になることだと思っています。自分や相手にとっての‘ほんとう’が望むものが、時にカタチを必要とすることになるのならば、その時はカタチが大事なものになるのかもしれません。はじめにカタチがあるのではなく、気が付いたらカタチが出来ていたとか、‘ほんとう’をまっとうするためにはカタチが必要だったとかいうのならば、それはそれで、それも‘あり’だと思えるのですが。。。