千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
(無断転載を禁じます)

木更津海軍航空隊の開設話

2010-03-26 | 木更津市の戦争遺跡
満州事変後、中国大陸への進出を画策する軍部にあって、中国大陸への長距離飛行での空爆を企図し、同時に航空機による攻撃から首都防衛を考えていた海軍は、かねて東京湾沿岸の適地を選び、海軍航空隊を建設しようと考えていた。

東京湾沿岸の候補地は木更津・青堀・姉ヶ崎、行徳などとなっており、1934年(昭和9年)年頭には海軍省から千葉県知事にその旨の内示があり、木更津町長であった石川善之助らも海軍航空隊の誘致運動をはじめた。
すなわち、同年7月5日には石川町長の提唱にて、「木更津飛行場建設促進同盟会」が結成され、翌々日の7日には横須賀鎮守府建築部より測量要員6名が派遣されて現地測量が行われた。一方、木更津海軍飛行場の予定地であった巌根村中里・江川地区の漁民ら住民にとっては寝耳に水であり、また中里・江川地区の海岸の一部埋め立てによって漁業を行う場所が制約されるため建設反対の声があがった。しかし、「木更津飛行場建設促進同盟会」の実行委員らが説得し、7月中旬にはほぼ反対気運はおさまった。その後、7月20日に横須賀鎮守府より木更津町に海軍航空隊設置決定の通告があった。

<木更津海軍航空隊があった陸自木更津駐屯地(南側)遠景>


撮影:染谷たけし

<木更津海軍航空隊があった陸自木更津駐屯地(北側)遠景>


撮影:染谷たけし

こうして同年9月5日より県土木課は買収事務を開始。11月1日には「東京湾海軍航空隊」(仮称)新設起工式が横須賀鎮守府司令長官の永野修身海軍大将以下の臨席で行われた。かくして、東京湾の大規模な埋立工事が開始された。請負業者は浅野財閥系の東京湾埋立株式会社(現・東亜建設工業)。
翌1935年(昭和10年)3月には航空隊建設準備委員が任命され、委員長は竹中龍造海軍大佐が就任した。施設建設は主として横須賀の馬淵組(現在の馬淵建設)が請負い、突貫工事で飛行場建設が進められた。1936年(昭和11年)3月26日には飛行場は概ね完成し、陸上攻撃機(中攻)などの飛行機が配備された。そして同年4月1日に、木更津海軍航空隊は開隊した。

開設された、木更津海軍航空隊(木更津空)は、木空(きくう、もっくう)とも呼ばれ、司令は竹中龍造大佐、副長は青木泰二郎中佐、飛行長曽我義治少佐を含め、准士官まで14名、下士官・兵が約100名であった。5月2日の開隊祝賀式には海軍大臣永野修身大将、横須賀鎮守府司令長官米内光政中将のほか陸海軍の幹部軍人が列席、5月末には町内各小学校児童を招き、優勝旗争奪の運動会も催した。

 <開隊当時の隊門前>



木更津基地は東京湾に面して、四周に障害物なく広々として、その大きさたるや、幅八十米、長さ千二百米(後に二千米)の滑走路が南西海岸から北東へのび、東西、南北にも各一つの滑走路がある、理想的な海軍基地であった。

この木更津空は、中国大陸への長距離飛行での空爆を企図した海軍が特に周到に準備した外戦作戦実施部隊であり、平時には首都防衛にあたるもので、同様の目的で西日本を担当する鹿屋海軍航空隊と同時に開隊した。しかし、一般の木更津町住民には、開隊にあたっての式典で海軍のそうそうたる高官が来たり、大相撲の横綱土俵入りがあったりと、物珍しく映ったに違いない。

初代の司令官、竹中龍造大佐にしても、のちに空母の艦長や各地の航空隊の司令を歴任し、最後は海軍航空技術廠支廠長で海軍中将となった人物であるが、当時の木更津町民には民間の家に住み、朝晩車で送迎されている「偉い人」としてしか、認識されなかったであろう。


<開隊を祝う地元の人々>



なお、開隊の日に見学を許されたのは限られた小中学、女学校生徒などで、その他一般の人には許されなかった。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
サイパン島攻撃不時着戦死 (伊早坂 祐子)
2012-03-06 13:33:08
亡き父の思いを果たしたく、旧木更津航空基地跡地を調べて居ます。亡き父の長兄、整備兵でありながら急遽代役にて乗機、小笠原諸島サイパン島に発進
不時着戦死との事。平成23年11月7日に亡くなりました父、26歳の若さで戦死した兄への想いを
墓標に刻み、仏壇の上には遺影を飾り何よりも心を
いためておりました。召集は三井上砂川炭鉱からでは、ネットにて調査中です。父の想いを果たすため
基地跡地に花を供えたいと願いつつ函館より探して
行くつもりです。何時の日かサイパン島へ慰霊に行ける事も願いつつ。
返信する
追伸 (伊早坂 祐子)
2012-03-06 13:54:19
先ほどの追伸
郵便の送り先はウ70トと記してありました。叔父の写真は父の遺品を整理するとある筈なのですが。
仏壇に飾ってあった写真は父死後一緒にお焚き上げをしてしまいました。軍服姿でした。名前は井上正光といいます。井上家に於いて重要な兄弟だったと聞いています。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。