千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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里帰りした、寄せ書きの日章旗

2008-12-30 | 千葉県の軍事史、戦争遺跡
先日、柳原白蓮が寄せ書きした日章旗が発見されたという報道があった。西日本新聞によれば、その日章旗は、白蓮と再婚した夫宮崎龍介の東京目白の居宅離れにあった東大学生寮に住んでいた加藤という人が、1942年の海軍入営前に2人から贈られたもので、
白蓮が

「きみ征きて 祖国安泰なり 君が征く 東亜の空に 栄光うまるる」

と筆で書き、

宮崎も「武運長久 祝入営」などと書いていたという。柳原白蓮は華族出身で数奇な運命をたどった女流歌人で、白蓮という号は信仰していた日蓮上人にちなんでいる。また、宮崎龍介の父は、有名な思想家の宮崎滔天である。

柳原白蓮は歌集「地平線」では戦争で子を亡くした親の悲しみをつづっており、本心とは裏腹に、人に贈ったのは出征を祝う短歌であった。*柳原白蓮の長男・香織は、1945年(昭和20年)8月11日、鹿屋で戦死

千葉県の四街道市でも、つい最近フィリピンから米兵が持ち帰った、寄せ書きの日章旗が遺族に返還され、12月21日に開かれた四街道市核兵器廃絶平和都市宣言二十五周年記念式典で展示された。

しかし、若い兵士が、こうして日章旗に寄せ書きされ、歓呼の声で送られる先の、軍隊内部はどんなものであったか。早い話が一般の陸軍の応召兵なら、野間宏の「真空地帯」そのままの生活が展開されていく。

「武運長久」と寄せ書きされた日章旗。それは自分の記憶の中にもある。その寄せ書きは中学の先生や同級生らに書いてもらったもの。

祝出征。祝入営。しかし、いったい、何が目出度いものか。志願して入った海軍は、今の世の中でよくいう陸軍と比べて合理主義の考え方が浸透し、海軍士官は紳士でスマートなどというイメージとは全くかけ離れた、一種おかしな世界であった。

<若鷲も非合理な世界に住んでいた>


海軍がわれわれを体も学力も鍛えてくれたのは確かであるし、倶楽部のような楽しい場所も提供してくれた。規律正しい生活、戦時中にも関わらず三度三度の食事、いろいろ恩恵もあったかもしれない。しかし、表向きの世界ばかりではなく、その裏側の世界もあった。

予科練にせよ、海兵団にせよ、海軍の新米にとっては、およそ、ビンタ(平手ではなくこぶしで殴る)や前支え、飯ぬきなどの罰直は日常茶飯事で、いつも気が抜けない。罰直のタネはいたるところにあり、殴る理由がないと「最近、貴様らたるんどる」という取ってつけたことが罰直のタネになるなど、無茶苦茶であった。ゆっくりできるのは温習時間などが終わった後の短い時間か、たまにある外出の日くらいなもの。

罰直では、「海軍精神注入棒(軍人精神注入棒)」と墨書された樫の木の六角棒(または丸棒)が、どこの海軍基地、軍艦でもあり、ご丁寧に房がついていたりするのだが、その1米ちょっとの長さで七糎から十糎ほどの太さの棒で、尻を思い切り叩かれるのがある。海軍名物バッターであるが、これは気絶するほど痛い。殴る側も疲れるので交互に殴る。派手にやられると、階段も腹這いで昇るくらいで、風呂に入ると染みて痛い。あおむけで寝ることもできないので、うつぶせに寝ていたが、三日くらいで治る。若いせいか、少々のことも皆治りが早かった。風呂では、気合をいれられた集団は、尻を見れば一目瞭然。あかく腫れた尻は、「七つボタンの予科練」という颯爽とした文句に似合わぬ、猿山の猿そのままである。

軍隊では何でも早くできなければ、だめだ。朝総員起し前に目覚め、起床後は素早く着衣、整理整頓するのは当たり前。早く飯が食べられる、トイレで用を足すのも早い、これらは芸の内とされた。それと記憶力がものをいい、一度聞いたことがすばやく復唱できなければ、海軍でも陸軍でも下級の兵隊から上になかなか上がれない。海軍航空隊の偵察員では、通信がひとつの任務であり、一度聞いた電文をはやく正確に伝えねばならないのだが、電信の授業では、いつも遅い奴がいた。そういう奴は一生かかっても電信員にはなれず、操縦ができなければ射爆に行くしかない。射爆も重要な任務であるが、射爆は予科練教育も無用な誰でもできるものという偏見があり、「射爆行き」は屈辱的な言葉であった。

軍隊では万事が要領だそうだが、小生らのような若鷲にとっては、要領をつかうような大人の世界は知る由もなく、そうはいいながら、世間ではよく聞く話であった。

寄せ書きの日章旗など、戦時中は幾百万枚作られたであろうか。しかし、貰った側は戦死したり、戦後失ったり、あるいは捨てたという人もいるかもしれない。かくいう小生の寄せ書きの日章旗は、戦後しばらくして焼却した。今思えば残しておいても良かったが、そのときは過去の自分と訣別したかった。終戦時、軍艦旗を焼いてから2,3年後だったと思う。

今回、四街道市であった核兵器廃絶平和都市宣言二十五周年記念式典では、つい最近フィリピンから米兵が持ち帰り、遺族に返還された、寄せ書きの日章旗が、その会場で展示された。式典開場前から、待ち行列が作られ、開場してからは市民ホールの中は大勢の人であふれ、ほぼ満席の状態。

四街道市長らの来賓の挨拶の後、四街道在住の人から広島での原爆体験が語られ、米国人の詩人アーサービナードさんから第五福竜丸のことなどが講演で述べられた。四街道は、くしくも陸軍野戦砲兵学校や野戦重砲兵第四連隊などあった、いわば軍隊の町であった。だから、その話や関連の展示もあるかと思えば、それはなく核兵器廃絶の話が中心であった。そのほか、音楽演奏や歌、市原悦子さんによる朗読などがあった。

<返還された日章旗>


たしかに、小生らの目的の寄せ書きの日章旗は会場にあったが、戦争末期の1945年2月、フィリピン・ルソン島で戦死したという、もともとの持ち主の旧陸軍の兵士の経歴や戦闘の様子などを示す展示はなかった。

日章旗には「祈武運長久 大熊武雄君」とあり、日の丸のまわりに40名ほどの名前が書き込まれている。それは現在の四街道近辺の近所の人や、友人たちであるという。その大熊という人は亡くなった1945年2月当時、24歳だったといい、写真をみると襟章は兵長のものであった。

この返還には戦争遺留品の返還運動をしている、「戦争を語り継ごう」の西宮市の西羽さんが寄与しており、そのブログに経緯などが書かれている。

http://nishiha.blog43.fc2.com/blog-category-3.html

今回の会場での展示でも、日章旗を持ち帰り、返還した側の元米国海軍軍人アール・ウートン氏のメッセージは掲示されており、彼が所属した部隊が移動したフィリピン・レイテ島、タクロバン、ルソン島、リンガウエンなどの地名を見るに、その戦火の激しさ、米軍の圧倒的な物量・火力の前にジャングルの奥地に追い込まれていった、日本兵の生存率の低さは容易に想像がつく。

フィリピン戦線では、戦闘の激しさに加え、食糧不足や熱帯特有のマラリアなどの風土病により日本軍将兵が苦しめられただけではない。また、多くのフィリピンの人々が戦争の犠牲となり、ゲリラ掃討の名の元に日本軍に殺された人々も大勢いる。彼らのご冥福を祈るものである。

<展示に見入る来場者>