千葉県の戦争遺跡

千葉県内の旧陸海軍の軍事施設など戦争に関わる遺跡の紹介
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下総松崎の古い神社境内にあった従軍記念碑

2009-02-07 | 千葉県の軍事史、戦争遺跡
成田市の八生地区に戦時中に日本軍が撃墜した米軍機について、そのパイロットの遺骸埋葬と引き取りに関する経緯は、以前書いたが、その所縁の場所をさがすうちに、偶然二宮(埴生)神社という古い神社境内に「征清従軍記念碑」があるのを見つけた。

「征清」とあるように、日清戦争にかかわる記念碑である。これは県内でもかなり古い部類であろう。日清戦争は、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)4月にかけて戦われ、当初「眠れる獅子」と呼ばれた清朝中国が優位と考えられていたが、日本が勝利し、講和条約において「1.清は朝鮮が独立国であることを認める 2.清は遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に譲渡する 3.清は賠償金2億両を金で支払う」という条項を清朝にみとめさせ、中国大陸や台湾に日本帝国主義の基盤を形成したという戦争であった。

<埴生二宮神社>


なお、この「二宮神社」は船橋市三山にある二宮神社とは、まったく関係がない。成田市のHPによれば、

「成田西陵高校のグランド近くにある神社で、経津主命(ふつぬしのみこと)をまつっています。つくられた年代は不明ですが、古い記録によると平安時代にはすでにあったようです。古くは二宮埴生(はぶ)大明神と呼ばれていましたが、明治元年(1868)に二宮埴生神社、明治中期に現在の名称に変えられています。この神社は、昔の埴生(はぶ)郡の総鎮守で、3つの神社から成り立っている「埴生神社」の一つであり、一の宮が栄町の矢口(やこう)に、三の宮が成田にあります。 7月27日の祭日(祇園)には、山車の引き回しが行われます。」

ということである。

その成田市の二宮神社にあった「征清従軍記念碑」は高さ1m20cmくらいで、西洋凧に近いかたちの石に題字と従軍した地区の人の氏名を刻んでいる。

<征清従軍記念碑>


碑の裏面には、氏名が刻まれているものの、経年風化し、判読がやや難しくなっている。建立は「明治二十九年」、氏名は「陸軍歩兵一等卒  何某」という具合に列記されている。

明治時代の当時は一等兵と呼ばずに、一等卒。兵と呼ばれるのは「上等兵」以上で、上等兵以上にはなかなかなれなかった。その兵と卒とは、厳然とした差があったのである。

自分の親父の話であるが、日露戦争直後に陸軍に応召していた親父は、部隊でも模範兵であったが、どういうわけか上等兵になれず、一等卒のままであった。親父は、歩哨に立ってやることがないと、ひげを抜いたり、星を見たりして長い時間をつぶしながら、その境遇について考えていた。

日露戦争はすでに終わっており、戦功をたてることもできず、利口でも器用でも、門閥にも関係なし、資産もなければ毛並みが良いわけでもない親父は、一選抜になれなかったのである。

最近、忘れていたことをふと思い出すことがある。多くの戦死者を出した日清・日露戦役。それは日本帝国主義の膨張のための戦いであって、祖国防衛戦争や民族解放戦争のような戦いではない。そこで犠牲にならなくても、親父のような兵隊はごまんといただろうし、兵隊にとられている間、その家族は田畑をまもって苦労を強いられた。

記念碑の「一等卒」の文字に、死んだ親父のことを思い出した。

<征清従軍記念碑の裏面>